黒山羊の家の紡ぎ歌 2/8
第2章 黒山羊の家の主人
翌朝目が覚めて、まず目に入ったのは、黒い天井にびっしりとはった蜘蛛の巣だった。
変てこな夢の続きかと、寝返り打ってもう一度眠りに逃げ込もうとした途端、埃っぽいベッドに猛烈なくしゃみが出た。
と、扉がノックされ、誰かがひょこっと顔を出した。
「やあ。朝飯を食いにいかないか」
きのう、オレンジ色のペンキを塗っていた隣人だった。
一階にはタイルストーブのついた大部屋があって、ちらほらと人が集まっていた。
「こんなところがあったのか」
グレゴールはもの珍しく見まわした。
「それでお宅さん、誰かを探しているって?」
パンにコーヒー、卵といった簡単な朝食を取りながら、ゲオルクというその隣人は尋ねた。
「そうなんです。長らく親戚の誰ともつきあいのなかった大叔父が、先日、急に電報をよこしたのです。おそらく危篤なのでしょう。今日明日にも危ないのかもしれません。それで取り急ぎ、事務所に休暇願を出してきたのです」
「それは大変だな。そのおやっさん、名前は何と?」
「フレデリック・ヨハンセンです」
ゲオルクはやおら立ち上がると、声を上げた。
「おーい、誰か、フレデリックという人を知らないか?」
居合わせた人々は顔を見合わせ、首を傾げた。
「いや」
「知らないな」
「主人に聞いてみるんだな」
「はあ…。で、その方はどちらに?」
「この家のいちばんてっぺんが、主人の部屋だ。でも、夕方まではめったにいないよ。そこらを飛び回っていることが多い」
ここかも、というのでそのあと連れていかれたのは、裏手の犬舎だった。
狼のような銀色の毛並みをした大型犬が12頭ばかり飼われている。どれもガラスのような目をしていた。
「どうだい、立派だろう。こいつがボス格の<山かげ>と<月かがみ>さ」
ゲオルクは自慢げに言った。
「猟犬かい」
「犬ぞりの犬さ。冬のあいだは、そりが足だからね。そりも見るかい」
家と同じく真っ黒な、大きな舟のようなそりだった。
「そりはある、と。ってことは、出掛けてはいないな。この辺のどこかにいるよ」
ちょっと犬の世話をするから、というゲオルクを残し、グレゴールは主人を探しに出掛けた。
「どういう感じの人なんだい?」
「この家でいちばん変てこなようすをしているよ」
「そうか。…もう少し具体的に頼む」
「うん、ハリネズミのような藤色の髪をして、ホウレンソウみたいなマントを着ているよ」
「そうか、ありがとう」
相変わらずややこしい廊下をえんえんと歩きまわって、やっと主人らしき人物に遭遇したのは、午後の陽も傾いてからだった。
見上げた階段の踊り場を、必死にデッキブラシで磨いていた。
ハリネズミというよりヤマアラシのような、ごわごわに硬そうな藤色の髪を真ん中で分け、ホウレンソウ色のテントのように大きなマントで身を包んでいる。分厚い眼鏡をかけていて、表情は分からない。折しも踊り場の窓から斜めの西日が射しこんで、その異様な姿を際立たせた。
「あのう…」
グレゴールは思い切って声を掛けた。
「昨日からお邪魔している者ですが…」
「どうも、主人のエドモンドと申します」
主人は話を聞くと、丁寧に応じた。
「その方については存じませんが、帳簿に記録があるかもしれない。ちょっと見てみましょう」
そう言うとデッキブラシを肩に担ぎ、バケツを下げて、先に立って階段を上がっていった。
家のてっぺんにある主人の部屋は、大きな三角形の空間だった。一歩中へ足を踏み入れると、グレゴールは圧倒された。
壁一面の棚に天井まで、ありとあらゆる種類のジュースの缶がぎっしりと並んでいたのだ。野菜ジュース、果物ジュース、スープの缶…。
「みなさん驚かれます」
グレゴールの顔を見て、主人は事もなげに言った。
「私は体質的に、固体の食物を摂ることができないのです。この子が管理してくれています。ブリュイックといいます」
主人のマントのポケットから一匹のトカゲが顔を出し、するりと這い出してきた。紫と緑色のトカゲだ。
あ、きのう見かけたやつだ、とグレゴールは思い出した。
そいつは後足で立ち上がると、先ほど主人がしたように、丁寧な挨拶の身振りをした。
主人は、台の上に広げられた分厚い帳簿をえんえんと括った。
「ふむ、残念ながら、フレデリック・ヨハンセンという方の記録は見当たらないようです」
「ええっ…」
「あだ名とか、通し名みたいなものは?」
「…分かりません…」
「ふむ」
主人はしばらく考えていた。
「だが、私は滞在客のすべてを把握しているわけではありません。知らぬ間にやってきたり、去っていく者も多い。そういう中にいた可能性もあります。
どうでしょう、少しの間こちらに滞在して、ようすを見られては。何か分かるかもしれません」
「ようすを見るって…」
グレゴールは当惑した。
「一刻を争う事態なのです」
「お気持ちは分かります。しかし残念ながら、現時点で私にできることはありません」
当惑したまま、グレゴールは自分の部屋に戻った。
窓から雪景色を眺め、それから今一度、ポケットから例の電報を取り出して広げた。
シキュウ コラレタシ
クロヤギノイエ クグノー シロヤギシュウ
フレデリック ヨハンセン
「…そういうことだよな?」と自問した。
大叔父のフレデリックは、一族の中でも変わり者で通っていた。
家を持たずに各地を放浪し、ここ何十年というもの誰も彼の居所を知らなかった。
グレゴールは小さい頃、彼に会ったことがあるらしいが、自分でははっきり覚えていない。
ただ一つ、記憶らしいものがあるとすれば───
「しっかりつかまって。いいか、それいけ!」
…掛け声とともに背中を押され、そりで斜面を勢いよく滑りだす感覚。ただその一場面だけ。
「あれはどこだったのだろう?」
その晩、彼は夢の中で声を聞いた。
「しっかりつかまって。…いいか、それいけ!」
それと同時に背中を押され、そりで勢いよく滑り出す…
「あっ、これはあの場面だ!」と気づいて、彼は振り返って声の主を確かめようとした。しかし、すでにそりは軽快に滑りはじめ、その姿はどんどん遠ざかって、顔はぼんやりとして見えなかった。
つづく→
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?