切符男
切符…切符…切符が、買えない。
買い方がわからない。
自分で電車の切符を買ったことなんてなかった。
子供の頃からプロ野球選手となった今に至るまで。
チームの遠征は切符を渡されるので、どこで買うのかどうやって買うのか考えたことすらない。
チームメイトたちと行動して、前の選手に続いて何となく改札を通っていた。
俺たちのような野球選手はそういうものだ、と思う。
引退を発表した次の日、コンビニで久しぶりにスポーツ紙を買った。
プロ生活のほとんどが2軍暮らしだったが、たまに1軍に上がったこともあった。成績は今ひとつだったかもしれないがキャリアとしては短くない。少しは活躍した、つもりだ。
どう報じられているのか。
スポーツ紙の一面には「引退」の文字が大きく躍っていた。同じ日に引退を明らかにした関取のことだった。さすが国技だ。横綱でなくともネタがない日にはこうして一面になるらしい。
めくる。…ない。まためくる。俺の名前はどこにあるのか。結局スポーツ面の最後、それも一番下の段に一行だけ、引退という文字と俺の名前と球団名が載っていた。活躍がまとめられるどころか、簡単な記録、出身校すら書かれていなかった。
子供のころから野球漬けの毎日だった。
はじまりは近所のジュニアリーグのチーム。友達と自転車でグラウンドに通った。
高校は地方都市にある全寮制。もちろん野球で進学した。毎日ランニングで寮から山の上にあるグラウンドまで駆け上った。
投手としてドラフトで上位指名され、契約金が驚くほど入った。
車を買った。安くはないが、それに見合うだけの活躍をしてやろう、という気合いを見せたかったのだ。
野球人生のピークは思ったよりも早くやってきた。
高校時代から肩の痛みや違和感はあったが、プロになった途端に耐え難いものになった。投げられなくなり野手に転向。
球団の寮と2軍球場をバスで往復した。
それでも何とかここまでやってこられた。
球団から来季の契約はしないと告げられた時、悲しみや怒りはなかった。むしろここまで野球をさせてくれた球団に感謝の気持ちが湧いていた。
車を売った。
少しの貯金はある。
ここから再就職に向けて動き出す、はずだった。
新しい仕事に向けて知り合いに挨拶回りをしようと、駅まで行ってから気が付いた。
どうやって電車に乗るんだ?切符!
改札を見ると誰もが当たり前のようにすり抜けていく。カードだ。カードを改札にかざしているのだ。
あれが今の切符なのか?いや、プリペイドカードか。
どこで買う?いくらするんだ?
そもそも切符売り場はどこなんだ?
子供のころの記憶ではずらりと人が並んでいたはずだ。
少し向こうに行列が見えた。あれか。
並ぶ。列の先頭になるまで10分もかかった。
そして目の前には、台湾カステラの店があった。
何でだ。いつから駅の構内でスイーツを売るようになったんだ。紛らわしい。
やっとのことで切符売り場を見つけた。が、どうしていいのかわからない。
タッチパネルとボタンがずらりと並んでいる。どこを触ったら切符が買えるんだ。
周りからジロジロ見られている気がして頭にじんわり血が上っていくのがわかる。
俺は切符すら買えないのか。野球しかやってこなかったらこんなに社会に馴染めないものなのか。
誰もが当たり前にできることが、今の俺にはできない。
俺はもう…ダメなのか?
「あの…」
声に振り向くと小柄な若い女性が立っていた。
「どうされました?」
「あ、いや、その…」
そんなにニコニコと聞かれても本当のことは言えない。
情けない自分を曝け出したくなかった。
「切符の買い方、わからないんですよね?」
「え?」
「よかったらこれ使ってください」
馴染みのある薄いグレーの小さな紙を俺に差し出す。
切符だ。
「でもこれは」
「いいんです、どうぞ」
「あ…ありがとう」
お礼の小さな声が聞こえたか聞こえていないのか、彼女はそのまま後ろを向いてもう歩きはじめていた。
「あ、お金は…」と言おうとしたら、彼女は振り返って俺に言った。
「ファンです。頑張ってください!」
去っていく彼女の背中のリュックに、俺が所属していた球団のマスコットが揺れていた。
手の中の切符を見る。
四角い紙の硬さをしっかりと感じる。
それからまごまごはしたが改札機に切符を通してホームに出た。
電車に乗りこむ。
誰か俺のことを知っている人が他にもいるかと思ったが、みんな居眠りをしているかスマホを眺めているか。
そうか、電車ってこんなに他人に無関心なのか。
なぜだか心地いい。
流れていく車窓からの景色。
家があって会社があって家電量販店があって。
あの家で俺が野球しているところを見ていてくれたんだろうか。
あの会社で俺のチームの勝ち負けを同僚と話してくれたんだろうか。
あの家電量販店で売られているテレビでは休日に野球の試合が流れていたんだろうか。
電車が橋を渡る。
河川敷で少年たちが野球をしている。
もっと泥まみれになれ、少年たちよ。
俺は切符を持っていなかった。
切符がないとどこにも行けない。
目的地に行くためにどうしたらいいかわからない。
迷う。戸惑う。途方に暮れる。
でも。
切符はいつでも手のなかにあったんだ。
誰かがくれる。誰かが見てる。
切符は今俺の手の中に、ある。
目的の駅に着いた。
俺は目に見えない未来への切符を心の中で握りしめ、彼女からもらった切符を改札機に通した。
「キンコンキンコンキンコン」
けたたましく警告音が鳴り、後ろの男が舌打ちする。
ん?…料金不足、精算をしてください…。
あ。そりゃそうだ。だってこれをくれた彼女は俺がどこに行くかなんて知らなかったんだから。
…さて。
どこで精算をしていいのか、わからない…。
立ち尽くしていると、後ろの男がもう一度大きく舌打ちするのが聞こえた。