第1話「メリーゴーランド」 しまった。うっかり提出するのを忘れていた。 期限が切れているのを知って、すみれ遊園地たった一人の社員アキオは青ざめた。 遊園地の運営にはさまざまな許可がいる。興行場法、消防法、その他さまざまな法律によって、安全で安心な遊園地を営業する義務が求められる。 すみれ遊園地のアトラクション遊具が動かせるのは昨日、クリスマスイブまでだった。電気室で開園前のチェックをしていたアキオは、壁に貼ってある許可証を見て、気がついた。今日から乗り物が全て使え
雨音に呼ばれ窓の外を見て気が付いた。 「あれ?あんな色だったっけ?」 「ん?」 妻はリビングのソファに座ってスマホをいじったまま、気の抜けた返事をする。 「ほら、アジサイ、ベランダの」 「アジサイ…ふーん」 ベランダに目もやらずに答える。 去年買ってきたときは、もっと…きれいなピンクだった。今はホコリをかぶっているみたいな色だ。 雨粒がベランダの手すりに当たって細かく砕け、鉢植えを濡らす。 「やっぱり土が悪かったのかなあ」 買ってきて早々に、一見して安物のプラスチックの鉢
切符…切符…切符が、買えない。 買い方がわからない。 自分で電車の切符を買ったことなんてなかった。 子供の頃からプロ野球選手となった今に至るまで。 チームの遠征は切符を渡されるので、どこで買うのかどうやって買うのか考えたことすらない。 チームメイトたちと行動して、前の選手に続いて何となく改札を通っていた。 俺たちのような野球選手はそういうものだ、と思う。 引退を発表した次の日、コンビニで久しぶりにスポーツ紙を買った。 プロ生活のほとんどが2軍暮らしだった
坂口安吾「阿部定さんの印象」に敬意を表して 坂口安吾さんに会った感じは、ああ、またこんな感じの男か、と思った。作家先生だったらだいぶ他の殿方とは違うだろうと少し期待をしていたが、やはりある意味では平凡な殿方だった。 男はいつもわたくしを決めつける。値踏みする。定義づける。わたくしがあんな事件を起こしたからきっとこんな女に違いないと、勝手に頭の中で作り上げてしまうのだ。 坂口安吾さんもまさにそんなタイプの男だった。 対談の部屋に入ると、坂口さんの視線がなめくじのよう
庭のすすきが夕陽に当たって輝く。風が吹くたびに黄金色に波を打つ。 穏やかな日差し、涼やかな空気。 一年で一番嫌な季節がやってきた。 この町に移住してきてからもう5年になる。 ということは、妻がいなくなってはもう7年。 すすきとわずかな植栽だけのシンプルな庭。低いブロック塀で土地の仕切りがあり、その奥には空き地が広がり、向こうの山に日が沈む。 こんな場所に一人で住む人生になるとは思わなかった。 「朝晩、だいぶ涼しくなりましたな」 突然話しかけられて、飛び上
地球は死のうとしていた。温暖化から始まった気候の変動、ウイルス・細菌の突然の強毒化など、本来数万年かけて緩やかに進む変化がわずか数十年で起きた。生物の絶滅は8割に及び、人類は住める場所を7割も失った。一度動き始めた小さな歯車は徐々にその回転と軸を大きくし、もう誰にも止めることができなかった。 一方で、科学技術の進歩にも目を見張るものがあった。巨大宇宙船で太陽系の端まで行くことができるようになると、瞬く間に時空移動の技術を確立して恒星間飛行を可能にし、今や大量輸送にまで発展
小春日和だ。薄紅色の花が庭で揺れている。何気ない陽だまりでたおやかに。 この庭で同じ景色を見たことがある。いつだったか…そうだ、今から40年近く前、私が嫁ぐ前の日。母と私は、この縁側に座って、あれこれと昔話をしたり、寂しい気持ちを噛みしめたりしていた。 あの時からこの庭は全く変わっていないのだ。塀際の柿の木も、雨戸の下の南天も、花壇の秋桜も。 久しぶりに実家に来た。この庭で私は若かった自分を思い出すことができる。 会社の先輩と結婚を決めたのは21の時だった。付き合
宣教師ジョアンは辞書を編んでいた。外国で神の教えを広めていくのに必要なのは教養であり言葉だった。そのためには、宣教師だけではなく誰もが使える分かりやすい辞書が必要だった。 ジョアンは宣教師としてはまだ若かったが、母国ポルトガルでいくつかのヨーロッパの言語を習得し、派遣されたインドやマカオでも現地語の読み書きや会話ができるようになっていた。だからこの極東の国に先んじて送られ、布教とともに辞書編纂の任務も命じられたのだ。 幸いにしてこの国の民は学ぶことだけではなく、教えるこ
「いらっしゃいませ」 このコンビニで働きはじめて半年が経った。週3回、一日6時間のアルバイトだ。 有名企業の正社員として子供が生まれてからも育児休業を取って働いていた。なのに、同期の男性社員に任される仕事はどんどん大きくなる一方で、自分は同じような仕事しかしていない気がして、モチベーションを失った。そして、子供の中学受験のサポートをするということにして、20年近く勤めた会社を辞めた。 それから5年。夫は仕事だの飲み会だの、子供たちも塾だの部活だの、何やらドタバタと走り
一体何のために生まれたのか、生きるのか、生きていくのか。これまで幾度となく自らに問いかけたが、答えは出ない。 この狭い部屋で、俺はひたすら生きる意味を探して毎日を過ごしている。 窓の外で蝉が鳴いている。あいつらは自分が生きているということを夏の間中その大きな声で周りに知らせているのだ。蝉たちが何をがなっているのか俺にはさっぱりわからないが、きっとあの爆音を奏でることで、存在を主張して、死んでいくのだろう。その他の生物にとっては意味を成すことのない、時には不快に感じさ
1599年9月11日、22歳のベアトリーチェは死んだ。 死刑は、ローマ郊外の石造りの橋の上で行われた。ベアトリーチェは、刑の直前に死刑執行人から渡された白く長い生地を髪が見えなくなるまでくるくると頭に巻いた。切断する首が見えやすくするためだった。ターバンのように巻きあがった布の純白が、ベアトリーチェの肌の白さを際立たせる。ベアトリーチェは丸太で作られた台にうつ伏せになった。死刑執行人が彼女に馬乗りになって辱める。大太刀が首めがけて振り下ろされた。吹き上がる鮮血が橋の石を赤
ー小泉八雲「雪女」に敬意を表してー 雪女は殺せなかった。老人と少年を吹雪で山小屋に追い込んで眠らせて、二人まとめて命を奪うはずだった。でもできなかった。その少年、巳之吉が美しかったからだ。老人の方は迷わずいけた。氷と雪の妖は、美しいものを愛してしまう。巳之吉は彼女たち妖の一族にもひけを取らない美貌を持っていた。憂いを帯びたまなじり、黒く澄んだ瞳、形よく通った鼻筋に小ぶりで細い唇。 「ああ、だめ。私には殺せない。こんなに美しい男の温もりは奪えない」 気温が下がり続ける
「俺はこの江戸で一番の花火師になる。俺の花火に、老いも若きも男も女も夢中になるんだ。俺の名前は後の世に語り継がれるんだ」 若き花火師弥一は、火薬の染み付いた黒い爪を掌にぐっと食い込ませて拳を作り、江戸の明るい夜空に誓った。 弥一は今までにない赤を作ろうとしていた。これまでの江戸花火にも赤はあった。いや、むしろ赤こそが基本だったのだが、炭火のようなただ燃える赤ではなく、人の心を包み込むような優しい赤を弥一は生み出したかったのだ。 ある夏の暮方、弥一は新しい火薬を混ぜ合わ
ー太宰治「走れメロス」に敬意を表してー セリヌンティウスは驚愕した。あのメロスが街でとんでもない騒ぎを起こしたらしい。「あの」というのは、セリヌンティウスたちの間では、メロスという男は「ちょっとアレ」な奴ということで通っていたからだ。 「あのメロスが?」目の前には古くからの友人、アンドレアヌスがいる。小太りで、いつも汗をかいている。アンドレアヌスは額の滴りを手の甲で拭いながら答えた。 「いや、俺もびっくりしたんだよ。王のところへ刃物持って乗り込んでいって逃げもせずに捕
ー芥川龍之介「羅生門」に敬意を表して また或る日の暮れ方のことである。一人の男が羅生門へと向かっていた。 下人である。四、五日前にこの羅生門で、女の死骸から長い髪を抜き取っていた老婆と出会い、その老婆の着物を引きちぎるようにして奪って、ひと匙の粟がゆに変えた。草履の紐にしかならない薄汚れた老婆の着物は、一時の腹を満たす糧にすらならなかった。 ふと、老婆が引き抜いていた、死んだ女の長い髪を思い出した。腐る前にかもじを抜いて、かずらにして売ってやろう。干し豆の一つかみには