続・羅生門
ー芥川龍之介「羅生門」に敬意を表して
また或る日の暮れ方のことである。一人の男が羅生門へと向かっていた。
下人である。四、五日前にこの羅生門で、女の死骸から長い髪を抜き取っていた老婆と出会い、その老婆の着物を引きちぎるようにして奪って、ひと匙の粟がゆに変えた。草履の紐にしかならない薄汚れた老婆の着物は、一時の腹を満たす糧にすらならなかった。
ふと、老婆が引き抜いていた、死んだ女の長い髪を思い出した。腐る前にかもじを抜いて、かずらにして売ってやろう。干し豆の一つかみにはなるだろう。どうせ死んだ女だ。しかも、蛇を干し魚と偽って人を騙して売るような女だ。利用したところで何の罪になるというのだ。
下人は急いでいた。老婆はあの後どうなったであろうか。あれほど強く蹴り倒したのだ。束の間息を吹き返したにしても、死んでしまったに違いない。
羅生門はさらに朽ち荒れ果てたように見えた。石段は黒く苔むし、柱からは据えた匂いがする。辺り一面からきりぎりすの声が耳に痛い。この頃は霜が降りようかという朝もある。虫けらたちは往生際悪く最後の命を燃やしているのだ。羅生門の石段にも一匹のきりぎりすがいたが、下人は踏み潰した。黒い石にきりぎりすの緑の染みが広がる。
楼の上へと続く、急な梯子を上った。一段進むごとに以前にも増して異常な臭気が、下人を襲う。すぐにその臭いの正体がわかった。ちょうど老婆を突き飛ばした辺りに、一匹の大きな獣の腐乱した死骸があるのである。老婆と同じほど大きく、また老婆と同じように銀髪であったので、下人は老婆が獣に姿を変えたのかと一瞬錯覚した。野犬が人の骸を老婆と取り合って格闘して、叩き殺されたか。はて、あの弱り切った老婆に犬を打ち殴る力があったのだろうか。
そんなことに思いを巡らせていると、後ろから女の声がした。
「もし」
ギョッとして下人が振り返ると、いつの間にか一人の若い女が立っていた。一見して上質な着物に、長く美しい髪をはらりと横と後ろに流している。うりざね顔に白粉を塗り込め、唇に紅を引き、眉を丁寧に抜いている。貴族の娘でもおかしくはない。だが、無論下人は高貴な身分の女など見たことはなかった。
見惚れて言葉を失った下人に女は続けた。
「もし。手伝ってくださいませんか?」
下人は我に帰る。若い女がこんなところに、しかも顔を見せて話かけてくることなどあるわけがない。ははあ、これはこの門に住む狸が人に化けた姿か。狸だとすれば、肉はししと、皮衣は貂と偽って売ればよい。皮算用に思わず顔が緩む。
「何を手伝うのだ?」下人は聞き返した。
「女の骸を捜してほしいのです」
狸がわざわざ人に化けて死人の骸を探すというのか?
「なぜゆえに?」下人が質問を続ける。
「その女は、私の母上なのです」
下人は心の臓が止まるほど驚いた。
「それはどういうことだ?」
下人は驚きに下卑た笑いを重ねて尋ねた。
「はい。母はさる高貴なお方との間に私を産んだそうです。ところが、その方が通うことが絶えてしまい、実家の後ろ盾もなく暮らし向きが悪くなった母は、泣く泣く私を宿坊を営むある寺に預けました。ところが、その寺の住職は、母からありったけの金めのものを毟り取り、さらに炭だの着物だの、季節の品を母に求めるようになりました。母は私のためにと、いけないと知りながらも人様には言えぬようなものを手に入れては町で売り、寺へと寄贈をいたしました。幸い、ある尊い御方が私の境遇を憐れみ、助け出して、娘として育ててくださいましたが、母はそれを知ることなく、亡くなったと聞きました。
母は美しいかもじを持っていたそうでございます。私はせめて母のかもじだけでも形見にしたいのです。このたくさんの骸の中に、母がいるはず。人目についてはいけないと、夜も更けたのですが私はここに参ったのでございます」
と、女は大体このようなことを申した。
女は、手に六尺はあろうかという長い木の棒を持っている。
「女の私が汚れを手で触るわけには参りませぬ。こうして棒で顔を表にして確かめようと思っているのですが、どうにも。よろしければ、助けてはくれませんか?」
狸が化かそうとしているにしては、妙な話だ。まさか本物の女なのか。確かに腰つきや髪の艶は優美で、獣のそれとは思えない。すでにこの手は悪事に染まっている。獣ではなく人。ならば、自らの欲を満たしてしまおうと下人は考えた。それにはまず女を安心、油断をさせなくてはならない。
「わかった」
下人はどれが女の母なのか知っていた。老婆が髪の毛を引き抜いていたあの死骸だ。それにしてもあれからそれほど日が経っていないにも関わらず、この酷い臭いはどうしたことか。
これ以上腐臭に耐えることができなかった。なぜこの女は平気でいられるのだろう。まるで女だけ別世界にいるかのように。
新鮮な空気を少しでも吸おうと楼の桟の端へ向かう。外はもうすっかり暗闇となっていた。下人は桟へ腰掛け、首を外へ突き出した。そうしながら、いつこの女を手籠めにしてやろうかと考えた。そうだ、女が母の顔を確認しているときだ。
「ほれ、そこのかもじの美しい女がいるだろう。顔を見てみよ」
息継ぎをするように外の暗闇に首だけ突っ込みながら、下人はひとつの骸を指し示した。女が後ろでどんな顔をしているのか、見ずともわかった。
すると、女は突然、「それは人ではないか!母上はこっちじゃ!」
と叫び、腐った獣の死骸を指差した。
驚いて振り向こうとしたその瞬間、下人は女の持っていた棒で思い切り肩を突かれた。
下人は声を上げる暇もなく、門の二階の楼の上から真っ逆さまに石畳の地面へと叩きつけられた。熟れた柿を塀に投げ当てた音が辺りに響いた。女は、いつ梯子を降りたのか、変わり果てた下人を覗き込み、息の根が止まっているのを確かめると、ゆっくりと朱雀大路を洛中とは反対の方へと歩み、やがて墨を流したかのような闇へと消えていった。広がるのは、ただ虫一匹の声すら聞こえぬ静寂ばかりであった。
遠くで微かに、けん、けん、と狐の声が聞こえるのみである。
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