雪女と冷たい男
ー小泉八雲「雪女」に敬意を表してー
雪女は殺せなかった。老人と少年を吹雪で山小屋に追い込んで眠らせて、二人まとめて命を奪うはずだった。でもできなかった。その少年、巳之吉が美しかったからだ。老人の方は迷わずいけた。氷と雪の妖は、美しいものを愛してしまう。巳之吉は彼女たち妖の一族にもひけを取らない美貌を持っていた。憂いを帯びたまなじり、黒く澄んだ瞳、形よく通った鼻筋に小ぶりで細い唇。
「ああ、だめ。私には殺せない。こんなに美しい男の温もりは奪えない」
気温が下がり続ける山小屋の中で、美少年が眠っている。
「ずっとこうしてこの男の顔を見ていたい…」
その時、巳之吉の目が開き、雪女と視線がぶつかった。
「しまった…見られた」
雪女は見つめ続けていたことを誤魔化すかのように巳之吉に微笑み、咄嗟に口走った。
「も、もしあなたが今夜見た事を誰かに言ったら、私、あなたを殺します!」
言ってしまった。殺せるわけないのに。だって、惚れてるから。
急に照れ臭くなった雪女はそそくさと戸口から出た。まるで熱でもあるかのように体が火照っている。え?氷の女の私の体が、火照ってる?こんなの初めて。
体の火照りと疼きは一年続き、とうとう我慢ができなくなった。しかし、妖が命を取らない人間の前に出ることは許されなかった。特に理由はないが、そういう掟だったのだ。
次の冬がやってきた時、雪女は決めた。
「行っちゃおう。会っちゃおう。多分すぐバレるけど」
年がら年中着ている白い着物を脱いで、今まで殺してきた女たちから剥いだたくさんの着物の山に向き合う。
「これは…だめ、派手。あの人素朴だから。遊んでる女と思われる」「こっちは地味。田舎のババアの着物じゃない!」「ああ!もっとおしゃれな娘をたくさん殺しといたらよかった」
七日ほど悩んだ末、ようやく、派手すぎず地味すぎず、可愛さもあるが子供っぽくなく、程よく上品で貧乏臭くないものを見つけた。
このあとさらに七日、普段バラバラとおろしている髪をどうするか、悩んだ。そしてまた七日かけて、自分がどんな人間でなぜここにいるのか、綿密に設定を決めた。
偶然を装って実際に巳之吉の目の前に出てみると、雪女は一段と体が熱くなるのを感じた。溶けてしまいそうだった。
「あんた、どこへ行くんだ?」巳之吉は無邪気に聞いてくる。
雪女は、用意してきた設定を話す。両親は死んでもういない。江戸の親戚の家に行く。そこで女中の仕事を探す。一旦ついた嘘は、話せば話すほど具体的になっていく。
好きな人にどんどん嘘をついてしまう。でも全然罪の意識を感じない。人を殺すときと同じくらい罪悪感がない。
「で、あんた、名前は?」
巳之吉に聞かれ、初めて雪女は気がついた。自分の名前を決めるのを忘れていた。雪女には名前がない。
「私は…えっと、雪おん…じゃなくて、ゆ、雪!」
しまった。雪女丸出しな名前にしてしまった。春とかりんとか菊とか、なんだったらウシでもトメでもなんでもよかったのに、よりによって。
「へー、お雪か。綺麗な名前だ」
えー!気がつかないの?あの時の雪女そっくりな女で名前が雪よ?っていうか自分で言うのもなんだけど、絶対人間に化けた雪女じゃない?むしろ化けてすらいなくない?
大胆になった雪女は、思い切って巳之吉に尋ねた。
「あの…、巳之吉さん、結婚してる?それか結婚の約束とかしてる?」
聞いてしまった。ちょっとがっつきすぎたか。
「いやー、嫁さんなんて、まだ考えたことないなあ」
決まりだった。彼女は半ば強引に「お嫁」として転がり込むことになった。
雪女だと言うことが知られないように、雪は苦労を重ねた。白い服は着ない。髪を下ろした姿を見せない。猫舌を克服する。
それでも危うい場面がいくつもあった。新婚の頃熱々の味噌汁を巳之吉のためにふうふうしようとしてやりすぎて薄氷を張らせてしまったり、姑のいびりに耐えかねて夜中にちょっとだけ姑の生気を吸うつもりだったのにあらかた吸い切ってしまったり、真夏の出産でイキみすぎたら辺りに大雪を降らせることになって地方ごと大飢饉に見舞われたり。
しかしそれでも巳之吉に雪女だと疑われたことはなかった。
二人が夫婦となってから二十年近くが経った。雪は幸せだった。子供も男女合わせて10人も生まれた。このまま一緒に歳を重ねて、いや、正確にいうと雪女は歳を取らないから、巳之吉だけ老いていくと思っていた。
そんなある夜、雪が裁縫をしていると、巳之吉が突然言った。
「お前がそうして顔にあかりを受けて、針仕事をしているのを見ると、わしが十八の時遇った不思議な事が思い出される。わしはその時、今のお前のように綺麗なそして色白な人を見た。全く、その女はお前にそっくりだったよ」
雪は危うく持っていた針で指を縫うところだった。ま、まさか、今、私が雪女だって気がついた?いや、それはない。20年前に一夜一時だけ見た雪女の姿など、20年ずっと巳之吉のそばで過ごしてきた今のお雪の姿で上書きされているはずだ。できるだけ平静を装いつつ聞く。
「その人の話をしてちょうだい…どこでお会いになったの」
巳之吉は小屋で過ごした恐ろしい夜のことを彼女に話した。
雪は愕然とした。
何で今?それ聞いたら私はここにいられない。寿命の尽きるあと三十年くらい黙ってられなかった?
理由はないのだが、妖の一族は正体が人間にバレた時、山に帰らなければならない。なぜだかわからないがそういう掟だった。雪は仕方なく巳之吉に向かって叫んだ。
「それは私、私、もう私でした!……それは雪でしたっ!そしてその時あなたが、その事を一言でも云ったら、私はあなたを殺すって云いましたよね?…そこに眠っている子供らがいなかったら、今すぐあなたを殺しました。でも今あなたは子供を大事になさる方がいい、もし子供らがあなたに不平を云うべき理由でもあったら、私はそれ相当にあなたを扱うつもりだから。脅しじゃないのよ?」
言いながらやがて雪は白い霞になり煙出しの穴を通って消えた。最後に風の音が 「鈍感なら最後まで鈍感でいてほしかった」と聞こえた。
巳之吉は、しばらく身動きひとつしなかった。やがて雪女の気配が完全に消え去ったことを確認して、つぶやいた。
「ふー、やっと言えた…」
山道で女が町娘のような格好で現れた時、巳之吉は一目であの時の雪女だと分かった。「あんた、白装束以外の服を持っていたのか」、と喉の奥まで出てきた言葉を飲み込んだ。雪女が変装して自分の前に現れたのだ。巳之吉は思った。「付き合いたい」。美女は美男しか好きにならないし、逆もまた然り。
美しい雪女を妻にして、数年間は巳之吉も嬉しくて仕方がなかった。自慢だった。ただ、どんなに器量も性格も良く働き者で、これ以上ないほどの女であっても、男は必ず飽きる。ましてや経年変化がないのである。巳之吉にもその時はきたのだった。しかし、あの時、「人に話したら殺す」と言われたのだ。それがただの脅しであり、本当は巳之吉に惚れ抜いていて殺せないことを確信するのに時間がかかった。
お雪は子供達のことを心配していたが、子どもたちが、不幸になることなどありえなかった。雪と巳之吉から受け継いだ類い希なる器量の良さと、巳之吉から受け継いだ冷静を通り越して冷酷なほどの判断力。どの子も生まれついての才能に溢れていた。
こうして10人の子どもたちがそれぞれに大成功を収めていく中で、巳之吉は裕福に余生を過ごした。
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