坂口安吾さんの印象

坂口安吾「阿部定さんの印象」に敬意を表して

 坂口安吾さんに会った感じは、ああ、またこんな感じの男か、と思った。作家先生だったらだいぶ他の殿方とは違うだろうと少し期待をしていたが、やはりある意味では平凡な殿方だった。
 男はいつもわたくしを決めつける。値踏みする。定義づける。わたくしがあんな事件を起こしたからきっとこんな女に違いないと、勝手に頭の中で作り上げてしまうのだ。


 坂口安吾さんもまさにそんなタイプの男だった。
 対談の部屋に入ると、坂口さんの視線がなめくじのようにヌメヌメとわたくしを上から下まで舐め回した。気持ちが悪いが、こんなことでいちいち気分を害してはいられない。
そう、これは女が経験するいつものことなのだ。男たちはいつもこうして女を目で舐めまわす。素知らぬ顔で。舐め回していることにすら気がついていなかったりもする。


 こういう風にわたくしを見ながら男が何を考えているか、おおよそ想像がつく。
 これがあの阿部定か、男好きのする顔だ、胸は大きくないな、でも尻はムチムチしているな、指が綺麗だ、この指でイチモツを抱きしめていたのか、こっちの指でつまみ上げてあっちの指で切り取って…、とまあ、そんな感じでございましょう。
 

 「坂口先生のご本、拝読しております」と言うと、坂口さんは急にそれまで硬かった表情を崩して「何をお読みになったのか」と聞いてくる。わたくしは坂口さんの本など読んだことはないし、これからも読むつもりはないのだが、「あの、ほら、最近お書きになった…女の人が出てくる…」と、一生懸命思い出そうとクネクネと腰を揺らしてみる。物の名前を覚えることができない愚かな女の真似をしてやる。「ああ、いやだ、ここまで出てるのに。ご本の名前が出てこないなんて。わたくしったら本当に馬鹿なのだわ。何だったかしら…」というと、坂口さんは、こういうところがやはり女なのだ、よし教えてやろうという顔つきになった。「ああ、『桜の森の満開の下』ですね」。わたくしは「ああ!それです、それ!名前が出ないなんて恥ずかしい。きっと坂口先生にお会いできて、緊張してしまったのだわ。…読ませていただきました。出てくる女の人がよかった!」と返した。坂口さんは満足そうでした。女の人が出てこない小説などない。読まずともわかる。わ
たくしは「先生は女心がわかっている」と言うだけで、殿方が浮き足立って満たされることを知っている。坂口さんは「やはりお定さんにはお分かりになるのですね」と前へ乗り出してきた。
 続けて「お定さん、あなたは何遍恋をしましたか?」と陳腐なことをお尋ねになった。
わたくしは「たった一度なんです、それがあの人なんです、32で恋なんて、おかしいかも知れないけど、でも一度も恋をしないで死ぬ人だってたくさんいるんでしょう?」と上目遣いに答えた。
 すると坂口さんは、完全なる答えを得たと言うふうに4回も5回も大きく頷いた。「そうでしょう、そうでしょう。私はそうだろうと思っていました」と喜びを隠さずに答えた。
 恋したのが一度なわけがないであろう。なぜこんなにも易々と信じてしまうのだろうか。
 こういう御人は、きっと女がコトが済んだ後に火照った顔を作って「すごかった。こんなの初めて」と言うと、大喜びをするのだろう。本当に「こんなの初めて」な女は、「こんなの初めて」と言うわけがない。「こんなの初めて」と言ってのける女は、「こんなの」も「そんなの」も「あんなの」も、ややもすれば「どんなの」も知り尽くしているのだ。「こんなの100遍目、数えるのも面倒くさいくらい経験してきた」女だからこそ「こんなの初めて」と抜け抜けと言えるのだ。
 わたくしは自分で蒔いた種ながら、あまりにも簡単に引っかかってくるので、今度は少々苛立ち、この人のもちょん切ってやろうかしらとまで考えてしまった。しかし、こんなことでいちいちちょん切ってしまっていたら人間はあっという間に滅びてしまう。それに、はっきり言って、わたくしは誰のものでもちょん切りたくなるわけではない。ちょん切りたいときにちょん切るのであって、おそらくもう二度とわたくしの人生でちょん切りたくなることなどないのだ。

 大体がわたくしに会いたいと言ってくる殿方はマゾヒズムの傾向にある。わたくしのことを理解しよう、理解している、と言うふうに話しかけ近づいてくるのだが、その実、頭の中でわたくしと一戦交えているのだ。しかも男達はその妄想の中でわたくしがイチモツをいじくり回して挙げ句の果てにちょん切ってしまうところまで頭に浮かべて、勝手に苦悶の表情で悦に入っているように思う。

 そもそも、わたくしの愛や恋はわたくしだけのものであり、誰かに分析されたり共感されたりするようなものではない。いや、わたくしの恋だけではない。誰にとっても愛や恋や性はその人だけのものであり、普通や平凡なものなど、存在しないのだ。誰もが少数派でありアブノーマルである。一人一人にとって自分だけの大切な愛や恋や性だからこそ尊いのだ。
 なのに、皆わたくしの恋だけをあげつらって特別扱いをする。いや、特殊な女と思い込んでいるからこそ、わたくしに会って意外に他の女と変わらないことを確かめると、安心をしたり逆に不満に思ったりする。「あなたは特別な女ではなく、平凡な女ですよ」と決めつけるということは、ある意味では「特別ではない」という特別なレッテルをわたくしに貼り付けているのだ。


 「わたくしはこれからの人生、人のためになることをして生きていきたいのです」とお伝えすると、坂口さんは大層驚いてわたくしを褒めそやした。
 人のためになることをする、それこそ何と平凡で当たり前のことではないか。こんなくだらないことをわざわざ口に出して言っただけで、「エライ」だの「すごい」だのわたくしを持ち上げる。
 罪を犯した女ではなくて、罪を犯した男が「人のために生きたい」と言ったらどうだろうか。「当たり前だ、それだけのことをお前はしたのだから」と誹りを受けるだろう。それなのに、罪を犯した女が同じことを言うと、途端に男達は賞賛するのだ。女とは何と甘やかされ、何と蔑まれるものなのだろうか。


 坂口さんは最後にわたくしに言った。「お定さん、これからは自由に恋をしなさい」
 なぜ女は恋すら男から命じられるのか。言われなくても恋をするときはする。しないときはしない。
 わたくしのことで言うと、もう二度と恋はしないと思う。恋などするものか。恋をするということは、相手に鋭い刃を渡してしまうこと。もう二度と男に刃を渡したくはない。
もう二度とわたくしの心を切り刻まれたくはない。
 いつしか男が女を見る目が変わる日が来るのだろうか。男が女を尊敬し、女を大切にし、女を同じ人として見る日が。いや、そんな日は来ないのかもしれない。でも、わたくしはその時代が来るまで、生きていたい。女として。

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