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紫陽花

 雨音に呼ばれ窓の外を見て気が付いた。
「あれ?あんな色だったっけ?」
「ん?」
妻はリビングのソファに座ってスマホをいじったまま、気の抜けた返事をする。
「ほら、アジサイ、ベランダの」
「アジサイ…ふーん」
ベランダに目もやらずに答える。
去年買ってきたときは、もっと…きれいなピンクだった。今はホコリをかぶっているみたいな色だ。
雨粒がベランダの手すりに当たって細かく砕け、鉢植えを濡らす。

「やっぱり土が悪かったのかなあ」
買ってきて早々に、一見して安物のプラスチックの鉢からオシャレな陶器の鉢に植え替えて、そこに適当な土を足した。あの土が合わなかったのか。
「土だよな、やっぱり」
妻はスマホの画面を眺めたまま、「そうかもね…」と言って、淹れてから20分経ったコーヒーをすすった。声を出しただけで口の中が乾いて仕方がない、という感じで。
ギザギザの葉の縁から水が滴り落ちる。アジサイは雨が大好きなはずなのに、なぜだかみすぼらしく濡れている。
思い出した。あの時もくすんで色のないアジサイの花を見つめていた。でも、アジサイを見たのは僕だけじゃなくて、しかも暖かい柔かい気持ちだった。
10年前だ。
 
10年前、雨の朝、僕は出勤するなり瀧尾先輩のデスクを見た。今日も来ていない。
「もう1週間ですね」
隣の席の後輩が僕の視線に気がついて話しかけてきた。
「結局連絡があったのって最初の一日だけで、ほとんど無断欠勤みたいですよ」
「あ、そうなんだ」
僕は濡れた傘を畳みながら、瀧尾先輩の席を見つめて、いつもつまらなそうに座っているところを頭に思い浮かべた。後輩がこちらの顔を覗き込んでくる。
「瀧尾さんのこと、結構気にしてるんですね」
動揺を見せてはいけない、となぜか思った。
「そりゃ、ね。瀧尾さん大丈夫かな、って」
「へー、そうですか」
返事は聞いているのかいないのか、後輩はパソコンに向き合い、起動ボタンを押していた。
 
会社帰りの偶然だった。
ピンクの傘を差した瀧尾さんが、商店街の入り口にある花屋の前に立っていた。
「瀧尾さん!」
「はい?」
彼女は振り返って僕だとわかると、目を丸くした。
「瀧尾さん、何でこの駅に?」
「あ、あそこの病院に友達のお見舞いに来たから。えっと、家、この近くだったっけ?」
「ここから10分くらいです。何見てたんですか?」
店先にはたくさんの花が並んでいた。 
「アジサイ」
「アジサイ?」
「季節の花だなって思って…」
梅雨に入ってひと月近く。まだ花屋のメインの棚には、色とりどりなアジサイが10か15か置かれていた。瀧尾さんが見つめていたのはその一番端の鉢だった。半額の値札が貼られていた。
「あ、これだけ安いんですね」
その株はドロを被ったように彩りを失っていた。
「寄せ植えで失敗してるんじゃないかな」
「え?」
「アジサイって、土が酸性だと青くなって、アルカリ性だと赤くなるってよく言うじゃない?」
「よく言うんですか?あんまり知らないけど」
瀧尾さんは少し嬉しそうに続けた。
「土が変われば違う色の花になるってわけじゃなくて、元々赤い品種のアジサイは、酸性の土に植えたりとか酸性の雨に打たれたりとかすると、赤にも青にもならないで、こうやって色がぼやけちゃうの」
酸、アルカリ…よくわからないが、アジサイはデリケートだということか。
「へー。花、詳しいんですね」
「まあ、普通には」
瀧尾さんは鉢植えに目を落とす。つられて僕も同じアジサイを見つめる。
本当はこんな色じゃないのか。くすんだ色のアジサイを見ていると、可哀想なこの花を何とかしてあげたくなった。
「瀧尾さん」
「え?」
「ご飯、食べました?」
 
 花屋から3軒隣の焼き鳥屋で3杯目の生ビールを流し込んだ後、僕は聞いた。
「瀧尾さん、なんで会社休んでるんですか?」
「あ、やっぱりそれ聞くんだ」
 思ったより瀧尾さんは明るく答えた。
「私、会社、合わないみたい」
「合わない?」
「合わない。水が合わない。会社の人とソリも合わない。あ、あなたは別…ってことが今日わかった。私、合わないものに興味がなくなるの」
と、笑いながらやみつきキュウリを摘まむ。
会社から離れると、瀧尾さんがこんな顔をするのを、僕は初めて知った。
 
気がついたら終電も近い。いつの間にか雨も止んでいた。店を出て、閉まった花屋のシャッターの前で、僕は言った。
「あの、僕の家、近いんですけど、寄っていきます?」
「うん」
瀧尾さんの顔は鮮やかに輝いて見えた。
その夜から1週間後、瀧尾さんは会社に退職願を出し、ひと月後、僕の部屋に住むことになり、3ヶ月後、お互いの親に挨拶に行き、半年後、結婚した。
 
ベランダのアジサイは長年飾ってきたドライフラワーのようだ。葉が瑞々しく深い緑なだけに、色褪せた花が悲しく見える。
「どうしてあんな色になっちゃったのかな」
僕は鮮やかに咲き誇っていた去年のアジサイを思い出した。
ほとんど相づちしか打ってなかった妻が、答えた。
「…土が合わなかったのよ、きっと」
スマホから顔を上げることもなく、声をこちらまで届けようとする意志もなさそうだった。
僕は青でも赤でも紫でもなく、ただ色を無くしたアジサイを見つめていた。
妻が再び口を開く。
「土も…水も…合わないの」
少し掠れた声でつぶやくように。
雨が一層強くなったみたいだ。梅雨はいつ明けるのだろうか。

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