ベアトリーチェの死
1599年9月11日、22歳のベアトリーチェは死んだ。
死刑は、ローマ郊外の石造りの橋の上で行われた。ベアトリーチェは、刑の直前に死刑執行人から渡された白く長い生地を髪が見えなくなるまでくるくると頭に巻いた。切断する首が見えやすくするためだった。ターバンのように巻きあがった布の純白が、ベアトリーチェの肌の白さを際立たせる。ベアトリーチェは丸太で作られた台にうつ伏せになった。死刑執行人が彼女に馬乗りになって辱める。大太刀が首めがけて振り下ろされた。吹き上がる鮮血が橋の石を赤く染める。切り離された彼女の首が高々と掲げられると、死刑を一目見ようと集まった群衆からは悲鳴とも歓声とも怒号ともつかぬ声が上がった。その生首は生きているとき以上に美しかった。
僕は大学で中世イタリア史を専攻している。卒論のテーマに選んだのは、「誰がベアトリーチェ・チェンチを殺したのか」だ。
彼女は父親を殺した罪で死刑となったのだが、22歳という花も盛りの若さと、あまりにも悲劇的な殺害理由が当時も今も人々の話題を集めている。芸術家たちは彼女をモチーフに絵を描き、戯曲を演じ、歌劇を書いた。
ベアトリーチェ・チェンチは、なぜ父親を殺したのか、なぜ死刑に追い込まれたのか。
僕の所属するゼミでは、毎年秋に1泊2日で合宿をして、論文について研究報告を行うことになっている。僕を含めてたった4人の小さなゼミ。それでも僕の通う地方の大学で、中世のイタリアを研究テーマにしている学生が男女2人づつ4人もいること自体が、何か運命のようにも感じる。
ゼミ合宿が行われる今週末までにベアトリーチェの死について、もっとまとめておかなければ。研究のためだけではない。彼女が死刑になった理由を探ることで僕の人生は変わるような気がする。
僕には一刻も早く解決しなくてはいけない問題があった。
ゼミ合宿の4日前。担当教授の部屋を僕は訪れた。そこに足を踏み入れるには相当の勇気が必要だった。
「いらっしゃい。あなたから来てくれるなんて、珍しいじゃない?何か飲む?いらない?そう。
…ここに座って。そこじゃない、ここ!…そうよ、ここに座っていいのよ。
で?ああ、ベアトリーチェ・チェンチの話ね。研究進んでるみたいね。
うんうん、誰が彼女を死刑に追いやったか、つまり殺したか…そこが中世イタリアを研究する上で一番問題となるところだけど、そんなに難しく考えなくていいんじゃない?父親フランチェスコが全ての元凶よ。
だって、ベアトリーチェは父親を殺したから死刑になった、というのは間違いない事実じゃない。
ベアトリーチェの父親フランチェスコは最低の男よ。妻にも息子たちにも暴力を振るい続けた。身の毛もよだつような凄まじい暴力を。
さらに、ベアトリーチェに対しては、身体中に傷をつけるだけじゃ飽き足りずに、力ずくで性的にも支配した。何度も何度も繰り返し実の娘を強姦し続けた。
きっとベアトリーチェは心も体もボロボロになってしまったのね。父親フランチェスコは殺されて当然の男。彼女なりの抵抗で父親の非道を当局に訴えたけど、有力貴族フランチェスコが罪に問われることはなかった。むしろ虐待は激しくなってしまった。だから死刑執行の後、彼女への同情論も巻き起こったんだけど、情状酌量なんて一切なく死刑に処せられた。どんな父親でも殺してしまったらそれは尊属殺人。死刑になっても仕方ない。ベアトリーチェを殺したのは、実の父親フランチェスコって言ってもいいわね。
…それより週末の合宿、ちゃんと段取りできてる?食事とかお酒とか、あなたが準備してくれるのよね?いいの用意しときなさいよ。お金なら出してあげるから。それからあっちの方も楽しませてよ。ちゃんと。わかってる?…わかってるくせに。ふふ、ちゃんと夜も私に奉仕しなさいって意味よ。聞こえてる?夜のご奉仕をしなさいって言ってんの。
何よ、その顔。あんたみたいな才能ないガキが、誰のおかげで研究続けられて、留学まで出来ると思ってるの?誰に感謝してイタリア留学するの?私が推薦状書いたからでしょ、私が。
あんたの人生、私が握ってるって理解できてんの?え?
留学から帰ってもあなたはこの大学に戻りなさい。っていうか、戻らざるをえないわ。一生私の下でひざまずいてご飯食べなさい。ふふ。
じゃ、合宿、楽しませてね。」
週末の合宿まであと3日。一緒に参加するゼミ生の一人から、合宿の前に会いたいと連絡があった。
「来てくれた…嬉しい。あのね、こないだの続きだけど…え?ベアトリーチェ…うんうん。あなたの研究テーマでしょ?あなたの話から聞くよ。
誰がベアトリーチェを死刑台に送ったか…私は、ベアトリーチェの父親殺しを手伝った召使いの男に一番責任があると思う。彼はただの共犯者じゃない。
いくら性的虐待を受けていたからって、ベアトリーチェは実の父親を殺したくなかったんじゃないかな。でも、心と体を痛めつけられる生活の中で、追い詰められてしまって、一番身近にいた人の言動に影響を受けてしまった…それって自然なことだと思う。ベアトリーチェは召使いに話を聞いてもらううちに、やっと自分を認められた気になって全てを許してしまった…体の関係も簡単に。やがて召使いの言うがままに、父親殺人を計画するようになっていった、と私は考えるな。
一番の過ちは、召使いがベアトリーチェと体の関係を持ったことで、彼女の全てを理解して支配ができると思い込んだってところかな。
召使いはベアトリーチェの殺人計画を認めてけしかけて、ま、彼からしたら恋人の話を聞いてあげただけなのかもしれないけど、それで彼女は父親殺しをさぜるをえなくなった…ううん、むしろ共に死刑になることを望んでたのかもね。
だって、召使いって身分で、貴族の女性のベアトリーチェの恋人になれたって、幸せよね。警察に捕まった時に絶対に罪を自白しなかったのも、彼女をかばったというより、ベアトリーチェに恋焦がれすぎていたからなんじゃないかな。どういう意味って…つまり召使いはベアトリーチェと一緒に死刑になりたかったのよ。罪を認めない方が死刑になるんだから。
ねえ、もう論文の話いいよね?っていうか、意味ないよね?論文も留学もどうでもいいでしょ。あのね、こないだも言ったけど、あなたにはもう傷つかないで欲しいの。こないだ明け方にベッドで言ってくれたよね?苦しいことがあるって。私、嬉しかった。同じように苦しんでる人がいるってわかって。わかるよ、わかる。私たちみたいに繊細な人間って生きづらいよね。
ね。一緒に死のう?もう傷つきたくないから。ずっと言おうと思ってたんだけど、週末のゼミ合宿がチャンスだと思う。抜け出して二人で死のう?たしか近くに湖があった。夜明けに湖にボートを浮かべるの。そこで死ぬの。二人だけで天国に行こうよ。嫌だ、なんて言わせないよ。言ったら殺す。本当に殺す。絶対殺す。私、あなたを殺して自分も死ぬ。
あと3日で私たち、永遠に一緒になるんだよ。
ゼミ合宿に行くの、楽しみにしてるからね。」
合宿2日前、もう一人の男子学生と会った。彼はこう言った。
「真面目だねー。論文なんて適当でいけるって。俺はもう就職決まってるし、お前も進学すんだろ?あの教授の単位なんて余裕で取れるに決まってるって。お前が一番わかってるくせに。
んー、あえていうなら…俺は、当時のローマ当局、ローマ警察が悪いと思うよ。だって、父親から虐待されてるって何度もベアトリーチェから訴えがあったのに、父親を捕まえないどころか、むしろ彼女が当局に暴行の証拠を見せるたびに虐待がひどくなっていったんだろ?警察とか司法がしっかりしてれば、ベアトリーチェは死ななくて済んだんだよ。奴らが悪いね。やっぱりさ、警察と司法がガッツリ組んで彼女の父親の悪行を暴いていたらその後の展開は変わってたでしょ。やばいことが起こってるっていうのはさすがにわかってるんだから、そん時にきっちり世間に明らかにするとかさ、そしたらベアトリーチェも父親を殺すところまでいってないんじゃない?ベアトリーチェが警察に父親の所業を訴えてきた段階できちんと対処を取っていたらなあ。
父親が有力貴族だから忖度、っていうか気を遣い過ぎたのは間違いないけど、一番は事を荒立てて貴族社会とか教会に目をつけられるみたいなめんどくさいことになるのを嫌がったんでしょ。めんどくさいから何もしないで見て見ぬふりして、その結果誰かが犠牲になっちゃうってやばいよね。うん。だからやっぱりローマ警察が悪いと思うね、俺は。
話ってそんだけ?え…ああ、あのことね。…わかってるよ。お前が教授から受けてるのはパワハラとかセクハラとかそんな感じのやつだと思う。あの教授、お前をどうしたいんだろうね。俺もどっかに言った方がいいかなとか思ったことあるけど、それもなんかアレじゃん。じゃあどうしたらいいかなって思ってるけどアレだし。難しいよね、こういうのって。
パワハラとかセクハラとか、なんかそういうのダメでしょ?さすがにそれはわかってる。でもさ、俺に証言しろって言うのも、無理よ。悪いけど。俺だって辛いのよ。そんなこと聞かされて。すごいしんどい。ん?だってさ…なんていうか、俺の就職先、教授が紹介してくれたって知ってるだろ?今さらそんな恨み節的なの言われてもさ。俺も就職ダメになったら厳しいところあんじゃん。ね?っていうか、この話聞いたところで、俺の方からどうこうって話でもないじゃん。当事者じゃないし。
納得できない…じゃ、はっきり言うけど、お前だって楽しんでんだろ?じゃなかったら教授とやれるわけないじゃん。いやむしろやっちゃうなんて俺的にはリスペクト、みたいな。俺は無理だし。
ま、ま、ま、とりあえず、明後日のゼミ合宿、よろしく。合宿で飲んで語ろ…っていうかさ、正直、お前、ゼミん中で何人とやってんの?」
ゼミ生の最後の一人から合宿の前日になって呼び出された。僕は彼女にも聞いた。
「ベアトリーチェの死刑?あー、卒論の話か。それより、あなたにお願いがあるんだけど。
わかった…じゃ、そっちから先にするよ。私の意見だけど、ベアトリーチェを殺したのは当時の教皇、クレメンス8世に決まってる。だって、ベアトリーチェたちの処刑を命じたのはクレメンス8世だもん。なんで、ベアトリーチェたちの話を一切聞かずにしかもろくに裁判も開かずに死刑にしたかって考えたら、クレメンス8世が一番悪くない?全員処刑された後、なぜか一族の土地や財産はクレメンス8世が没収したでしょ。結局ベアトリーチェの一族の莫大な財産を手に入れるのが目的だったのよ。むしろ教皇からしてみたら、残虐な噂しかない貴族が天罰のように娘に殺されて、その娘と共犯の家族も死刑になるって、理想の展開じゃない?
大体ね、中世ヨーロッパの聖職者なんて、金で地獄の沙汰を買おうとしたやつばっかりよ。薄汚い。だけど、当時の教会の権力はその辺の貴族や王族の力以上ね。駆け引きなんて権力者の中で一番うまかったんじゃない?表向きは一般市民の味方みたいな顔して、金の力でどんどん私腹を肥やしていく。なんて言うのか、その辺の倫理観がまったく彼らにはなかったのね。残念ながら。今の資本主義社会に繋がるところがある。
…はい、だから彼女は金のために死刑に処せられたと言うこと。人間関係とか恋愛関係とか家族問題とかそんなのはこの話の細かい部分でしかないの。すべてはお金の問題ってこと。これでいい?
ねえ、金といえばさ…またお願いできる?は?いや、あれでもう最後とかってマジで言ってんの?あー、そう。そういうこと言うんだ?
あのことさ、大学に言ったらどうなんのかな。教授もあんたも終わりだよ?あんた未成年の時から教授とやってんの、あたし知ってんだよ?っていうか、大学に言うまでもないよね。教授以上にあんたの方がやばいんだよ?ネットに書かれたらこれから先あんた生きていける?大学の単位取るためにババアとやっちゃうって、言われていいんだ?どこの大学も雇ってくれないよ?ここ以外。あのババアと一生この大学でやり続けたら?
…わかってるならいいけど。とりあえず、明日のゼミ合宿に10万持ってきて。金ない?金なんていくらでも作れるでしょ?バイト…あるでしょ、いくらでも。売りしてきたら?売りが早いって。は?男に体売ってこいって言ってんの。減るもんじゃないんだから。あたし、中学からパパ活やってたよ?Twitterの裏垢作ればいいじゃん。すぐいけるから。今募集したら夜にはお金作れるよ。
じゃ、そういうことで。とりあえずまた明日。お金の件、よろしくね。」
ゼミ当日、僕は近所の激安スーパーで魚や野菜など夕食の食材を買い込んで、車で隣の県の民泊へ向かった。現地にそれぞれ集合だ。買い出し係が僕なら、調理係も僕だ。誰も僕を手伝おうとしない。わかってはいたが。僕以外はビールを飲みはじめた。料理が出来上がる頃には味がわからなくなっているんじゃないだろうか。インターネットで検索してスーパーで買った魚を捌いた。まずは刺身からテーブルに並べる。一旦僕も乾杯して、生まれて初めて一から作った刺身を食べた。問題は…なさそうだ。
みんなはにこやかに酒を酌み交わしているが、本性を知っているのは僕だけだ。刺身がなくなったら僕はキッチンへ向かう。鍋だからすぐに出すことができる。こんな山の中で海鮮鍋を作ることになるとは思わなかったが、みんな喜んで食べてくれた。僕は鍋に手を出す前に、「つまみを作ってくる」と言ってキッチンに入った。再び出てくると、鍋の中はほぼ空になっていた。
そして、全員死んだ。
スーパーの売り場でそれを見つけた時は驚いた。何度も確認をした。まさか、丸々と太ったフグが内臓も処理されていない一匹そのままの状態で売られているとは思わなかった。何かの間違いのだろうが、あの激安スーパーならそんなミスもありえる。
僕は、スーパーが間違って売ったフグを毒のある内臓が処理されていると思い込んで、教授や友人たちに振る舞った、ということだ。
僕だって食べた。毒のない刺身だけど。
欲にまみれた人間がたまたま4人揃って、たまたまスーパーで間違って売られていたフグを食べて、死んだ。たまたまが重なって。
そう、偶然なのだ。ベアトリーチェが父親フランチェスコを殺すきっかけは、たまたまフランチェスコがベアトリーチェの住む家を訪れたことで、そこにたまたまフランチェスコを憎む家族や使用人が全員揃っていて、たまたま長い階段の一番上で、ベアトリーチェにたまたま背中を向けて突き飛ばされて、たまたま打ちどころ悪く首の骨を折った。全てが偶然の連続に過ぎないのだ。そうだ、彼女はその偶然によって死へと追いやられたのだ。
一仕事終えた充実感かそれとも罪悪感か、頭が痛い。4人が死んでいるのをこのままにしておくわけにはいかない。とりあえず通報だけはしなければとスマホを手に取ったが、力が急に抜けた。スマホを落としてしまった。指先が痺れている。あれ?何か変だ。
目の前がぐるぐると回り始めた。フグの処理が甘かったのか?僕も食べてしまったのか?捌き方を調べたのに。あいつらしか食べてないはずなのに。あれ?電気が消えた…真っ暗だ。空気が薄くなってきた。なんで?苦しい。
あ、誰かいる。助けて。助けて。あなたは誰?
暗闇の中で、頭を白い布で覆った若い女が、ゆっくりと振り向いて、僕に笑いかけた。