「他者になりたい」という願望はどこからくるのか?
社会のなかには、「こんなふうになりたい」という願望を掻き立てるものがたくさんある。
ファッションの広告は「モデルのようになりたい」という願望をかきたてる。ビジネス書は「こんな成功者になりたい」という願望を掻き立てる。デザイン思考は「デザイナーのようになろう」、アート思考は「アーティストのようになろう」と、提案する。
一方、子どもとのワークショップにおいても「〜〜になってみよう」と提案するものが多い。「研究者になってロボットを設計してみよう」とか「探偵になってまちのなかを調査してみよう」とか「建築家になって家の模型をつくってみよう」とか、そういうものだ。
ほかにも、体験型商業施設「キッザニア」では、パイロットや消防士、美容師やグラフィックデザイナーなど、多種多様な職業に「なってみる」ことができる。子どもたちは、自分たちが憧れる大人に「なる」ことができ、夢中になって仕事をする。
「他者になってみる」
前回のnoteでぼくはこんなことを書いた。
“「魅力的なワークショップとは何か?」を言い換えると、「人々が"ありたい私"を投影するワークショップとは何か?」ということになる。”
こう書いてみて、そうだと思いつつ、自分でも違和感があった。
本当にそうなのだろうか。「キッザニア」や「デザイン思考」や数多のビジネス書のように「この人のようになりたい」と思わせ参加させることだけが、ワークショップの成功と言っていいのか。
そもそもなぜ人は「なりたい」という願望を抱くのだろうか。この「なりたい」という願望はどんなメカニズムでできているのだろうか。
実は、ぼくはこうした「他者になってみる」という方法と意味について、学生時代からずっと考えている。いったいなぜそんなに興味を抱いているのか。
この「ありたい」とか「なりたい」といった願望について、しばし考えてみたい。今日は、ぼく自身がこの「なりたい」という願望について強く考えるようになったきっかけのストーリーを書く。
このマガジンは、子どもが関わるアートワークショップを専門とする臼井隆志が、ワークショップデザインについての考察や作品の感想などを書きためておくマガジンです。週1~2本、2500字程度の記事を公開しています。
「なりたい」という「将来の夢」のかたち
幼稚園のころに「将来の夢」を聞かれる。そのフォーマットは、「大きくなったら何になりたいですか?」というものだ。この時点でぼくたちは何かに「なりたい」という願望を持つことを教えられる。
うまく答えられなかった人も多いだろう。幼稚園のころのぼくも「お菓子屋さんになりたい」などと適当なことを答えていた。そんなこと微塵も思っていないのに。
しかし、小学生になると「映画監督になりたい」と少しまともなようなことを言い出した。
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