批評の実践に参加する状況をつくる
前回の記事では河野真太郎氏の新刊『新しい声を聞くぼくたち』を参照し、「新しい男性性」がどのように位置付けられているのか、それは企業においてどのような意味を持つのかを考察しました。
簡単に書いた内容をまとめます。
『新しい声を聞くぼくたち』では「フォーディズム社会」から「ポストフォーディズム社会」への変遷を時間軸の変化としてとっていました。
フォーディズムからポストフォーディズムへ
フォーディズム社会とは、大量生産大量消費を前提とし、男性稼ぎ手専業主婦モデルを前提とした福祉国家体制で、黙って背中で語りビールを飲むような男性性がロールモデルとされていました。時に不機嫌で寡黙な男性像が美徳とされていました。
時代が変遷し、さまざまな期間が民営化され、政府が「小さな政府」となり福祉予算が切り詰められるなかで、福祉も市場化されていきました。同時に、商品もモノのクオリティから「コト」のクオリティに変わっていきました。「ユーザーエクスペリエンス」の考え方は今や行政にも応用されはじめ、サービス化、コミュニケーション化する社会になりました。これをポストフォーディズムと呼びます。
このような時代の変遷のなかで、コミュニケーション力が高く、上機嫌で、育児も家事も積極的に担うような男性像がロールモデルとなっていきました。これを指して「新しい男性性」と呼びます。
資源の格差の問題
しかし、この「新しい男性性」は、それを獲得できるような環境自体がアッパーミドルの人間関係や学習資源を手にした人たちの特権であり、いわばポストフォーディズム時代の勝ち組に当たると、この本では指摘されています。
その一方で、このような男性性を手に入れることができなかった人たちは「女性が優遇されている」と感じ、自分達の機会が奪われたことを逆恨みし女性嫌悪(ミソジニー)に陥っていくことも指摘されています。おいも若きも問わずです。
「新しい男性性」を手にできる環境に置かれたミドルクラスの男性たちと、そのような環境を手に入れることができず、フェミニズムに傷付けられたと感じてミソジニーに陥ってく男性たちの分断が生まれている。いかにしてこの分断を超えられるかが本書の後半で論じられていきます。
さて、ここまでは前回のnoteにまとめたことをおさらいしました。詳しい内容はぜひ『新しい声を聞くぼくたち』をお読みください。ここからは学習としての新しい男性性について書いていきます。
学習としての新しい男性性
驚くべきは、本書の最後が「学習論」で閉じられた点です。旧来の男性性から新しい男性性を私たちは社会的に学び取ってきた。それは紛れもない事実でしょう。ではいかにしてこの学習を進めていくことができるのでしょうか。ぼくなりの仮説を書いてみます。
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