「見る」とは何か? ー対象と同時に「記憶」を見る
この問いを巡って、このテキストは探索を進めていく。今日のテーマは「人はものを見るとき、対象と同時に記憶を見ている」というもの。
ぜひみなさんも、たとえば、企業理念に対する見方が先輩と後輩で違う、夫と妻で家事に対する見方が違うなど、「同じものを見ていても経験の差や違いでものの見方の違いが生じている」と感じる事例を頭に思い浮かべながら読んで欲しい。
同じものを、同じ見方で見ることはできない
ぼくは2008年からアートエデュケーションの現場で、アーティストと子どもや赤ちゃんと親が、互いの景色を分かち合いながら同じものを見ようとするプロセスに立ち会ってきた。2015年からは組織づくりや事業づくりに関わり、上司と部下、顧客と作り手、事業部と人事部など、同じものを見られなくなっていた状態を解消すべく対話のファシリテーションを実践している。
しかし、残念なことに、私たちは他人と同じものを全く同じ見方で見ることはできない。赤ちゃんと親は経験が異なるから玩具や食事を全く同じように見ることはできないし、事業部と人事部は責任のあり方が異なるから事業や組織の捉え方が異なる。
それはいわば、お互いの間に壁が一枚あるような状態である。
それでも、対話を通して相手の景色を想像すると同時に、自分の景色を伝え、知ってもらうことはできる。
例えば、事業部が人事部に対して「そうか、あなたは事業を成長させたいから人が育つ組織をつくりたかったのか」と気づく。もう一方で人事部の人が「そうか、あなたは顧客を大切にしていたから事業を最優先に考えていたのか」と新たな側面を知る。こうして互いにひらめきが交わされる。そこで、おぼろげに「同じ景色を見ている気がする」と感じられる時が生まれる。
まるで現の夢を分かち合うかのようなこの刹那は、いかにして生み出されるのだろうか。これがこのテキストの探究テーマである。
見るとは、「記憶」を見ること
さて、今回は「同じものを見る」というときの「見る」とは何かを考えてみたい。
異なる2者の景色を分かち合う方法を探るまえに、そもそも個人のなかで景色が生み出されるメカニズムをたどってゆく。
みなさんは行ったこともない場所に懐かしさを感じたことはないだろうか?
19歳の夏、ぼくは青春18きっぷを使って、東京から屋久島に行く旅をしたことがある。兵庫に入ったあたりで夕暮れが近づいて心細くなって車窓を眺めていたそのとき、団地のそばの公園が目に飛び込んできた。そしてそれは、幼少期に過ごした名古屋の公園を思い起こさせた。兵庫県の名も知らない公園を、強烈に、「知っている」とさえ思わせる懐かしさだった。
この、見知らぬ公園という対象に対して、「懐かしい公園のようだ」と感じたぼくの景色は、どのようにして生み出されたのだろうか。
『情動はこうしてつくられる 脳の隠れた働きと構成主義的情動理論』によれば、人間はある刺激によって情動を司る神経回路が活性化するのではなく、過去の似た経験や情動にまつわる記憶を動員し、予測することで情動を構築するという。
ぼくの例で言えば、公園を見たことで懐かしさを司る神経回路が勝手に活性化するのではなく、公園を見たことで公園にまつわる過去の記憶が呼び起こされ、懐かしいという情動が構成された。
これは認知科学の「プロジェクションサイエンス」とよばれるものと呼応する。
「プロジェクション」とは、人が過去にした経験や見た情報から構成した内的な表象(イメージ)を、世界に対して投影する認知機能のことを指す。
ということは、人間は対象を見ていると同時に、それに対して記憶や経験からつくられたイメージを投影して見ているとはいえないだろうか?ものを見るとは、対象と同時にそれに似た記憶を見ることでもあるのかもしれない。
ぼくは兵庫県の知らない公園を見ながら、名古屋で幼い頃にたくさん遊んだ記憶の中の公園を見ていたのだ。
「経験盲」の実験
ここで、経験や情報がものの見方に影響を与えていることを示すために、「経験盲」という実験の話を示したい。
まず下の写真を見ていただきたい。何の写真を白黒にしたものか、わかるだろうか?あなたはこれに似た何かを見たことがないかと、脳内を検索されているはずだ。得体がしれなさすぎて、予測がつかない。これが「経験盲」と呼ばれる状態だ。
先に正解を伝えてしまうが、これは、ぼくがある日うまく焼けた餃子の画像である。そう言われて「わかってたよ」という人もいれば、「あ〜餃子!なるほどね」と思う人もいれば、「え?どこがどう餃子なの?」と思う人もいるかもしれない。
では、元の画像を置く。これが元の画像である。
この画像を見たうえで、最初の画像をもう一度見てもらいたい。もう餃子以外にはなかなか見えないはずだ。
「これは餃子である」という情報や、元の画像を一度見るという経験によって、この白黒の得体の知れない画像が、見たことがある形に見えてくる。この白黒の画像を見ながら同時に情報と経験をもとに「投影」することで、「餃子」という像を構築している。
「経験」によって異なる見方
ここまで書いてきて、あたらめてごく当たり前のことを書くが、ものの見方は経験によって異なる。なぜなら、対象を見ると同時に参照している経験や記憶の質や量が異なるからだ。
だから、白黒の画像を見ても、餃子だと知っている人と、知らない人とでは見方が全く異なる。
もし仮に、この餃子だと知っている人と知らない人が「これは何か」を対話したとしよう。
餃子だと言っている人は、画像のどこからそのように言っているのか。知らない人が知っている人の景色を汲み取り、想像することによって、元の画像を見せなくても、これは餃子だというイメージが共有できる。
互いが持っている経験を分かち合うことによって「同じものを見る」ことに近づいていく。これが対話によって成しうる経験のシェアの可能性の一つだ。
「どのような経験から、その見方をするようになったのか?」
ここから一つだけ、同じものを見るために用いる技術を導いてみたい。「あなたはどのような経験から、その見方をするようになったのか?」を問いだ。
対話型鑑賞などでよく用いられる「どこからそう思う?」は、作品の部分を聞く問いだが、ものを見ながら参照した記憶や経験のほうにスポットライトを当てることで、景色の分かち合いに一歩近づく。
組織開発のアプローチでは、そこに集ったステークホルダーの過去のルーツや原体験、成功体験を深掘りしながら、重なり合うところに「私たちらしさ」を見出す方法が多く存在する。「AI(アプリシエティブインクワイアリー)」や「問いかけの作法」(安斎勇樹著)における「ルーツ発掘」などがそれにあたる。
以前、とある教育事業会社の経営者の方々のミッション・ビジョン策定のロングミーティングに参加したことがあった。そのとき、お互いの過去の経験を問いかけるなかで、「私たちはずっと以前から、顧客の先にいる子どもたちのことを考え続けてきたんだ」という景色が分かち合われたとき、ビジョン・ミッションが言語化されたことがある。
それらはいわば、「どのような記憶/イメージを事業・組織に投影しているのか?」を問いかけあい、分かち合い、景色が重なり合うところを探すプロセスでもある。
異なる二者の見方を分かち合う術とは?
こうした「景色」の分かち合いは、どのようにすれば可能なのだろうか。
「これは餃子である」といった単純な情報であれば問題は簡単だ。しかし、これがもっと複雑な景色であった場合どうだろう。抽象的な思想や、身体的な技術であった場合、そんな簡単に意味や経験を敷き写すことはできるのだろうか?
問題は、正解のない異なるものの見方を交換するプロセスだ。
「人間はものを見ると同時に記憶を見ている」という前提をもとに、次回以降、もう少し詳細に「経験・記憶・イメージを敷き写す」プロセスを見ていきたい。
ーーーーーーーーーー
同じものを見る ーアートから組織づくりまで (目次)
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。いただいたサポートは、赤ちゃんの発達や子育てについてのリサーチのための費用に使わせていただきます。