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「傷つきやすさ」について物語ることをやめない ーヴァルネラビリティについてのおぼえがき

ここ最近、ずっとあたまの片隅にある言葉がふわふわしています。それは「ヴァルネラビリティ」という言葉です。

この言葉を考えるようになったきっかけは、東京都写真美術館のロビーで偶然、林央子さんにお会いし、立ち話をしたことでした。「拡張するファッション」「Here and There」の著者で編集者である央子さんが、この言葉に着目しているとのことで、ぼくも調べてみることにしたのです。

このヴァルネラビリティという概念は、育児においても、家庭料理においても、ファッションにおいても、いろんなことに通底する、見つめておくべき構造だと思うのです。どこかに着地するわけでもない話なので、なんとなく、読んでもらえたら嬉しいです。

ヴァルネラビリティとは

「ヴァルネラビリティ」とは心理学や社会学の用語です。翻訳すると「傷つきやすさ」ですが、別の翻訳では「暴力誘発性」ともいうようです。ブレネー・ブラウン氏のTEDの動画で話題になったもので、著書のなかで彼女はこの言葉に対して「不確実性やリスクにさらされること」という意味を与えています。

ぼくたちは「傷つきやすさ」を抱えていて、社会の欲望に見合う自分になれているかを気にしながら、恥を抱えながら生きている。ときに鎧をまとい、武器を使って攻撃し、その「傷つきやすさ」を隠す

一方で、複数の欲望に引き裂かれて、自分の「傷つきやすさ」をどうとらえていいかわからず、親しい人に打ち明けたり、ブログを書いたりする。そのような葛藤について、ぼくたちは物語ることをやめずに続けるべきだと、ぼくは思っている。

こんなような話を今日は書きます。

不確実性について

ブレネーのいう「不確実性」についても調べてみたのですが、どうやら経済学の用語のようです。

ある人の行動の結果は、①その人の行動、②他者、社会、自然の状態という2つの要因によって決まります。自分の行動ははコントロールできますが、他者、社会、自然の変化はコントロールできません。そのとき、コントロールできない要素をどのように予測するかが結果を左右します。

その予測の正確さについて、a.確実性、b.リスク、c.不確実性、d.無知の4つに分類することができるそうです。

たとえば、降水確率60%の日に出かける予定があるとします。この状態は雨が降る「リスク」がある状態です。それ以外にも、事故にあったり、事件に巻き込まれたりする可能性がありますが、確率はわかりません。そのことを「不確実性」と言います。そもそも降水確率を知らなかった場合は「無知」ということになる、、、ということだと思います。

恥について

傘を持たずに出かけてしまい、雨に降られてしまう。こんなとき、ぼくたちはいろんな気持ちを抱きます。寒くて悲しい。びしょ濡れになって恥ずかしい。服が濡れてしまい、面倒で苛立たしい。悲しみ、恥、苛立ちといったネガティブな感情が生まれます。

不確実性にさらされるとき、ぼくたちは「いつ何時かはわからないが、悲しみや恥や苛立ちを抱える可能性がある」という状態に生きることになります。このことを「ヴァルネラビリティ」と呼ぶのだとぼくは解釈しました。

そのなかで、もっともやっかいな感情が「恥」でしょう。

恥とは、ばかにされたりけなされたりすることでおぼえる「自分は劣っている」という感情であると言えます。けなされた人は恥を感じ、口を閉ざしたり、完璧主義を目指したり、あるいは苛立ち、自己防衛のために攻撃的になるかもしれません。だからヴァルネラビリティは「暴力誘発性」と翻訳されるのだろうと思います。

恥を生み出す社会の欲望

この恥の構造について、「社会の欲望」という観点から考えてみたいと思います。

ぼくたちを取り巻くこの社会には、さまざまな「欲望」があります。「べき論」「コントロール願望」と言い換えてもいいかもしれません。権力者の欲望、教育者の欲望があります。マーケット、インターネット、アートや音楽にさえも、それを作り出す人たちの欲望があると思います。

これらの欲望を生み出している人がいて、欲望に従う人がいて、その人たちが、その欲望に従っていない人をばかにし、けなし、恥を与えるという構造があるとします。社会の欲望が「恥」の感情を使って人をコントロールするという仕組みがあるとします。

傷つきやすさをかかえるぼくたちは、傷つくこと、あるいは恥を与えられることから逃れようとします。その手段の1つは、こうした社会の欲望に従順になることです。かつては「良い大学から良い企業に入り、良い家庭を築くべき」という社会の欲望がありました。時代の欲望に従順になることで、恥から逃れていたのだと言えます。

複数の欲望に引き裂かれる

ですが、現代はもっと欲望のかたちが複雑になっています。

「国を強くするのだ」
「グローバルでダイバーシティだ」
「安定した雇用を増やすのだ」
「副業で複業だ」
「地方で仕事をつくるのだ」
「東京で成功だ」
「映える食を楽しむべき」
「食をコスパで処理すべき」
「とかく華やかに着飾るべき」
「物語のある服を着るべき」
「良き夫であるべき」
「良き妻であるべき」
「結婚や子育てを強要すべきではない」
「恋や愛のかたちを強要すべきではない」
「障害がある人とともに生きるべき」
「障害をなるべくなくすべき」

様々なメディアがメッセージを発していて、メッセージを介して社会の欲望がぼくたちに憑依してきます。

そうやって生きていると、いくつかの矛盾した欲望に取り憑かれ、引き裂かれることがあります。引き裂かれてむき出しになった心は「傷つきやすさ」をさらけだしてしまいます。このことを「恥」であると感じ、隠そうとし、必死にいずれかの欲望に従順になろうとしたりします。

たとえば、ぼくは良き父でありたいと同時に、面白い仕事に没入したいと思っています。良き父であれという欲望に取り憑かれている一方で、面白い仕事をせよという欲望に取り憑かれてもいます。仕事をすることと父であることは矛盾しませんが、異なる欲望に引き裂かれている実感があります。

良き父になれていないという恥があたえられたように感じる時は、仕事のほうに不平不満をぶつけ、逆に仕事ができていないことを恥ずかしく思う時は、妻や娘に対してため息をついてしまうこともあります。実にバランスの悪い心をもっています。引き裂かれてグラグラしている心は、傷つきやすく、安定感がなく、時にささやかな暴力を誘発することがあります。

傷つきやすさのまま物語ること

こんなふうに、自分の心のバランスの悪さの話をするのは、結構恥ずかしいです。「全然立派な人間じゃないんだな」と思われて、ばかにされるんじゃないかなという不安があります。

でも、この「恥」をこそ、社会の欲望はあげつらうんですよね。

「恥ずかしいからこうしなよ」
「恥ずかしいからこれを買いなよ」
「恥ずかしいからここに入りなよ」

そのようにして欲望に憑依され、社会の欲望にコントロールされることで恥を隠そうとするも、ときに複数の欲望が自分を引き裂き、グラグラした傷つきやすい心をあらわにすることがあります。

ぼくたちは、その心のぐらつきを、葛藤を、傷つきやすい脆さのままに、誰かに打ち明けることができているでしょうか。

たぶん、できている人はたくさんいます。親密な人に、傷つきやすさのまま打ち明けることもあれば、インターネットのなかに物語を放り投げることもあるでしょう。いずれにしても、そのような葛藤やぐらつきについて物語る人のことを、ぼくは誠実だと思うし、美しいと思います。

そのように物語ることがうまくできなくて、もがいている人もいると思います。ぼくもその1人です。

節操なく物語る生き物

一方で、傷つきやすさを隠した表層的な言葉には危うさがつきまといます。それが傷つきやすさを隠すための防衛になり、ときに他者に恥をインストールしているかもしれません。物語ることは、他者の救いにもなれば他者への攻撃にもなるというジレンマがあります。

それでもなお、人は物語をやめるべきじゃないと、ぼくは思います。

傷つきやすさは、人の深淵に根ざしています。心の内に明確な形をもってあるものではなく、多くの欲望に憑依された末にできた、モジョモジョした、かたちにならない何かです。それがどんな名前で、どんなかたちで、どんな働きをするものなのかは、容易には語りきれないものだと思います。

だから、「自分の傷つきやすさについて語りきることなど不可能である」ということを前提にしてみます。その前提にたったうえで、なおも語ることをやめないという選択肢があります。その道を選び、もはや物語ることをやめられなくなった私たちを、互いに受け入れていくようなことができないか。そのやめられなさを慈しむようなことができないか。

節操のない「物語る生き物」である人間は、とてもかわいくて最高で大好きである、とします。

現時点での「ヴァルネラビリティ」について思っていることは、こんな感じです。

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その他、ヴァルネラビリティとワークショップについてのおぼえがき。

・今回のアイデアのきっかけをくれた林央子さんは「拡張するファッション」という本を書かれている。
・この本、世界が求める欲望を纏うのではなく、自分自身の欲望の発露を可能にするD.I.Yやカルチャー、思想的ムーブメントの萌芽について、90年代に活躍したクリエイターのことを書いている
・ファッションは、装うことである。
・他人が求める私を装うのか、私が求める私を装うのか。
・その2つの欲望に引き裂かれながら服を着る私、という構造がある
・ぼくも服を選んだり着たりして、楽しむことが苦手
・それでもファッションを否定せず面白いと思わせてくれるのは、央子さんのような人の存在ゆえ
・いろんな欲望に引き裂かれることを受容していくようなファッションのワークショップが、実はある。

・もう一つ
・今、スープ作家の有賀薫さんによるワークショップ「家庭料理の新デザイン」のお手伝いをしている
・有賀さんは、家庭料理において、人は「上手く綺麗につくらなければならない」という幻想を見ているという。
・幻想を「欲望」と言い換えても良いかもしれない。
・世間の欲望に取り憑かれながら、「映えない」食生活を送る人は「恥」を抱える
・「映える」生活を送る人は、「映えない」人を見下しているかもしれない
・そんな関係性は、家庭料理を不幸にする。
・このワークショップもまた、家庭料理について恥も喜びも物語りつづけることを受容していくようなものになっている

・そしてもう1つ、演劇プロデューサーの中村茜さんとともに演劇の観客創造事業に着手している
・その皮切りに、岡田利規さん演出による大作『プラータナー:憑依のポートレート』の公演に関わっている
・この作品の原作はタイの小説家ウティット・ヘマームーンによる
・原作のタイトルは『欲望の輪郭』
・これが「ヴァルネラビリティ」とどう関わっていくかは、いま、まさに考えているところである

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