目を合わせる、目線を合わせる
「目が合う」と「目線が合う」の違いはなんだろうか?
仕事のなかで、「プロジェクトの目標について目線を合わせたいです」と頻繁に言っている。「目線」は見えない。合っているかはわからない。でも「目線が合った」という感覚はなんとなくわかる。
今日はこの不可視疑な現象について、「赤ちゃんと大人の目線」を追いながら、みなさんと目線を合わせていきたいと思う。
目が合う、この不思議な現象
「目線が合う」のまえに「目が合う」という現象がある。
たとえば、生まれてすぐの赤ちゃんは、瞳の位置がおぼつかず目が合わない。数週間経つと次第に目と目で見つめ合っている感覚が芽生えて来る。電車の中でまっすぐ見つめてくる赤ちゃんに出会った経験がある人も多いだろう。
ぼくたちは相手の「目」を通して相手の意志や感情を感じ取ろうとする。相手も同様に自分の目をそのように見る。
つまり「目が合う」とは、お互いを意志や感情をもって思考する主体として認め合っている状態だ。電車の中で赤ちゃんにおどけた顔をしたりすると、次に何するのかを期待や疑いをかけるような眼差しで見つめ返される。
目線が合う人と育まれる関係
「私とあなた」だった関係は、「私とモノとあなた」の関係に変化していく。
赤ちゃんは手を伸ばしておもちゃを持てるようになり、それをじっと見つめる。大人は赤ちゃんの目線に寄り添い、共にそのおもちゃに関心を寄せ、それを見たり触ったりする。これが、赤ちゃんの目線に大人が目線を合わせている状態だ。
このようにして、身近にいる大人と目を合わせ、目線を合わせてもらう機会が増えるほど、赤ちゃんと大人の関係が育ってくる。
ある時期から赤ちゃんがやりはじめる「指差し」は視線を可視化する行為だ。「あ!」といって車を指差す。その指差した方向に大人が顔を向け、「ブーブーあったね」と応答する。指差しは、「自分の目線は指の先だよ、ここに目線を重ねて!」という呼びかけである。その呼びかけに応答するほど、関係は育つ。
目線が重なるたびに関係が育つのは大人でも同じだ。ぼくは映画が好きだが、自分がおすすめした映画を友人や同僚に見てもらえたとき、自分に目線を重ねてもらえたような気持ちになる。
目線を追いかける「追視」
赤ちゃんは生まれて数ヶ月たつと首が座り、頭を上げて背骨を捻って視線を自由に動かせるようになる。
関係が育ち、身体が育って姿勢を変えられるようになっていくと、今度は赤ちゃんの方が大人の目線を追いかけ、目線を重ねるようになる。
大人が見ているモノ、やっているコトに興味を示す。我々がいつも触っているスマホに赤ちゃんが興味を持つのは、大人がそれを見て触っている目線を追いかけるからだ。
このように、大人の目線を追いかけることを「追視」という。この追視を通して、赤ちゃんは関係が育った大人に目線を重ねようとする。
師匠と弟子の目/目線は合っているか?
さて、ここまでたどってきた赤ちゃんと大人の関係を、「弟子」と「師匠」におきかえてみたい。
「弟子」は信頼と尊敬を寄せる「師匠」と目線を重ね、同じモノを見ながら師匠のモノの見方ややり方を学ぼうとする。つまり、追視をする。
しかし、目を合わせ、お互いを主体として認め合う関係がなければ、弟子は師匠と同じモノを見たいとは思わない。
このような師弟関係は、あらゆるところにある。
上司と部下は、教師と生徒は、キュレーターと鑑賞者は、互いに目を合わせ、互いを主体として認め合っているだろうか?
弟子の目線が無視されると、弟子は師匠の目線を追いかけ、重ね合わせることができにくくなる。プロジェクトにおいてメンバーとリーダーが目線を合わせようとするならば、相互に主体として認め合っている必要がある。
師匠と弟子が何度も瞬時に入れ替わる関係
精神科医の神田橋條治は「対等の関係」を「互いに瞬間の師になったり弟子になったりしあうような雰囲気」とした。
師弟関係はかならずしも固定化した上下関係ではない。なんども入れ替わりながら、師匠の世界が弟子へと敷き写されていく。
ここからは、同じモノをみながら師匠と弟子がその世界観を分かち合うプロセスを「わざ言語」という概念を用いて考えてみる。
参考文献
『意味から言葉へ』浜田寿美男
『精神療法面接のコツ』神田橋條治
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