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KWAIDAN

 今回の朗読会では小泉八雲のお話を一つ読む。瀬田の唐橋ゆかりのお話があるのだ。
 ラフカディオハーンと言えば、中学校の英語で「mujina」を習った。狢(むじな)に騙されてのっぺらぼうに遭遇し、ほうほうの体で逃げたのに、出会う人出会う人「それはこんな顔だったかい」って、延々のっぺらぼう椀子そばな話。覚めない悪夢のようで思い出しても怖いな。「ロングロングアゴー」って始まりだった。当時の英語教師が顎が長いのが特徴だったから、その部分ばかり皆、大声で読んでゲラゲラ笑ってた。どの教室でもそうだったのかな、第二次ベビーブームの走りの時代で、一学年9クラスあった。9回いじられ椀子そば。確か20代半ば程の男性教師だったけれど、実は傷ついたりしていたかしら。教室は笑いに包まれて楽しそうだった記憶だけれど、おとなしい先生だったからな。

 むん。過去に傷付けた人にどうやって謝るのか、償うのか。でも、そんな思いは自分がすっきりしたいだけの自己満足が大部分であろうし、しかし、相手に恨みや怒りがまだあるのなら、それは何とかしないと…。いや、随分前だし、今、怒鳴られたり、詰られたり、目の前で泣かれている訳じゃないし、わざわざ自分から言いに行かなくても、相手だってもう触れたくないかもしれないし、小さな声になるけれど、思い出しもしないほど昔の事なんだから、風化したというか、今更わざわざっていうのも、うん、もう会わないわけだし、寝た子を起こさなくても、忘れてもらえれば、いや、無かったことにはならないだろうけど、むしろ、ね、何ていうか、その、無かったも同然という事にしてもらえれば…。
 声も身も消え入りそうに小さくなるけど、その卑劣の虫は腹の中で鳴き続ける。いくら底浚えをしてもいなくならない。虫の顔に浮かんでいるのは怯懦だ。
 だから。謝って許してくれる人にしか謝れない。ひどいな。この居心地の悪さはどうだ。腹の底が落ち着かない。恨みを買っている恐怖だ。これはきっと私だけじゃない。だから話を自分から逸らそうと、皆、怪談を好むのではないか。この恐ろしさは私のモノではなく、どこかの誰かの物語の怖さなのですよ。今ではなく、昔々のお話なのですよ…と。
 
 今年は『怪談』の出版・八雲没後120年という節目だそうで、島根の小泉八雲記念館ではいろいろな事業をされている。大津の怪談も古さで言えば、10倍越え、比叡山延暦寺開闢1220年、「比叡山の七不思議」も今回お話する。そのうちの一つに、“坊さんがこっそり里で酒を吞もうとするといきなり隣に一つ目小僧が座っていたりします”。なんてのもある。いつの世にも怖い話はすぐ隣りに、自分の身の内に巣食っているものですよ、なんて一般論に挿げ替えて、つるっと顔をなでて今日はしめよう。後味が悪いのは仕方あるまい。いくらのっぺらぼうな振りをしたところで私の顔にはしてきた事が刻まれているのだ。

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