nikki20220119
やっぱり思った時に書かないと何も書けない。書いた方がいい、なんてことは誰にとってもいつの時代もその通りで、口だけで行動に移さなければ一切の意味がない。本当に。何事においても。
佐川急便とよく間違われるほどに青いジャージ(この特徴が、自分が客観的に見えづらくない服装をしていること、を示し得るのかは分からない)を着て、公園を出て曲がり角を曲がろうとした時、おばさんの運転する自転車がそれなりに近くなくもない距離で止まった。それは急ブレーキを踏んだとか思いのほかスピードが出ていたとかそんなことではなくて、やや遅めに運転していたおばさんが、前方不注意で、よく分からない距離でブレーキを握ったにすぎない。少なくとも僕の立場から捉えた事実はこのようだ。しかし当然まあ、おばさんの視点からの事実の把握は異なり「危ないなあ」みたいなことを、これまたそれなりの音声で言われた。
おいおいおいおいおい、と思い言い返した。おいおいおいおいおいおいおいおいおいおい。気をつけてくださいよ、明らかに前見てなかったですよ、と言っておいた。したらまあ厚顔無恥なのか「あんたが急に出てきたんじゃないの」のようなことを言い出した。やれやれ、本当に面倒だった。別にこの事を愚痴りたい訳でもないので、適当に切り上げるが、自転車で曲がり角を曲がる時は気をつけよう。原付だってそうだ。視点を確保できる角度からいこう。簡単なことだ。
別に何かを愚痴りたい訳じゃないんだけどね。思ったことは書き留めようと思うよ。誰に忖度もない表現を、たまにはしたいじゃないですか。2Dでも3Dでも、誰のことをも気にせずに、自分本位100%で表現できることって少ないし。やれやれ。
やれやれ、は明らかに村上春樹から拝借した口癖だけど、わりと板についている。少なくとも自分ではそう思っている。それにしても暫くぶりに、長い文章を書くことになった。年明け初、いや12月を合わせても、それ以来なんじゃないだろうか。良くないな。どことなく文章のタッチも変わったような気がする。まあそれだけ余裕がなかったってことか、怠慢してたかってことだ。別にどちらでもいい。要するに書けば良いのだ。自分のために。誰かが言っていたけど、書くことは自分のことのため以上の責任を背負えない。自分のためだけに書くのだ。 貴方のために書きました、なんて誰が言える?
自分だけの文脈を手に入れたい。それは生き方のようなもので、自分らしさだとかアイデンティティとか呼んでもいいものだと思う。それほどに、僕は個人の文章スタイルは、その人を語る上で大事だと思う。小事じゃあない
欠落したものをリアルに感じる苦しみよ。
今一度、どんな基準で文章を、このnoteを書くのかといったスタンスを表明しておくと、それは自分の頭の中をそのままもってくる、ということになる。それより先に何もいうことがない。読んでいて支離滅裂だなと感じれば読まなければいいし、改行が少ないとか言い回しが変だとか思ったら、そう思っておけばいい。読みたくなければ読まなければいいんだ。寝ればいい。だいたいの行動は休むことに如かない。
だいたい卒業制作において、改行の量に規定があるなんて本当に馬鹿な話だ。改行を無制限に認めてしまえば、分量について幾らでも水増しが可能、みたいなことを理由に挙げていたが、そんなもの読んでるんなら分かるだろう。水増しのためのと何かしらの意図の、それくらいの判断はできないか? 別に個人としてすればいい。そこに、「文学的〜」とか「普通の人が見たら〜」とかは要らないだろう。一応お前も文章に対して深く関わっている人間なら、自分の感性でもって誰かのそれを認めてやれよ、と思った。大学の教授?陣に。
大学の教授陣の、水増しがいくらでも可能、といった理由だけで改行に制限を設けることについて、それはお前たちの怠慢だろうと思った。
最近はフォロワーが増えた。Twitterの。だからこれは良い機会なのだろう。読む人は読むだろうし、それは1/50くらいだろう。現実的に考えて。
その人に、後藤とはこういう人間なのだ、と伝われば良い。理解してくれとは思わない。別にその人と僕は、交わる線と決まった訳じゃない。ねじれ、互いにどうでも良いのだ。僕の書いたnoteを読まなくていいし、読んで何かを考えたければ考えれば良い。気に入ればnoteのアカウントをフォローすれば良いし、激励したければハートでも押せば良い。ハートでもなお余りあるものがあるのなら、コメントでもスパチャでもすれば良い。全部自由だ。だから、本当に、途中で読むのをやめても構わない。推敲もしていない文章だ(日記に関しては推敲をしないことにしている。後日、冷えた時に見返して、整えて、文章がライブ感を失うのが嫌なんだ。言葉は生物だと思う。)
隣の部屋から幼女らしき声が聞こえる。アニメだろうか、cmだろうか。こんな時間に。
隣の部屋じゃなかった。閉じたはずの自分のpcに挿したイヤホンからだった。大丈夫なんか、このパソコン。そう、日記、以外のnoteは結構な確率で推敲をする所存だ。つもり。
文章を長々と綴ることは時に苦しい。そんなに書くことなんかないからだ。目的のある文章は別だ。十分に主張すべき何かを綴れば良い。
今だってそうだ。何か書くべきでありそうな、事柄が心の中に漂っている。でもこれをアウトプットすると、おそらく辛くなる。現実は誤魔化しだ。ことに僕に至っては、近々は誤魔化しで毎日を繋げている。そうでないとやっていられないんだ。
でも、そんな中でも、noteを読んだ、と思いがけないタイミングで言われると、まあ驚くし、嬉しい。ありがたいもんだなと思う。
読んでくれてありがとう。辛いことはまた書くよ。
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