カナリヤと三文小説/たったふたりの、特別じゃなくてもいい人生:嘘0割
こんばんは。〻ゞです。たった今決心がついて米津玄師と是枝裕和監督の対談をようやく見終え、そして衝動的にこの想いを残さねばならぬと思って筆を執りました。なので嘘なんて言ってられません。
加えて、ただの一介のオタクのただの妄言にしか過ぎないので、あまり考えが合わないようでしたら読み流すなり読むのをやめるなりしたほうが良いと思われます。
以上、承諾の上ご一読いただければ幸いです。
米津玄師「カナリヤ」とKing Gnu「三文小説」
とりあえずまず上の2曲をぜひ聴いてください。これ聴いてくれたらもう僕の記事なんて正直読まなくていいです。あともしお時間あればこの動画もぜひ。
劇的なエンディングが待ってなくてもいい
以下、2曲より歌詞を引用します。
いいよ あなたとなら いいよ
もしも最後に何もなくても
いいよ
ー米津玄師「カナリヤ」
あゝ
駄文ばかりの脚本と 三文芝居にいつ迄も
付き合っていたいのさ
ーKing Gnu「三文小説」
この2曲には、「今つづくこの関係のエンディングに何かを求めているわけではない」という共通点があるように感じます。
コロナ禍において他人との干渉が減少し、コミュニティが縮小した今年。「あなたとわたし」というひとりではない最小単位の関係を維持しなければ、私たちは孤独に生きていくほかない。だから、その「ふたりでいる」関係の延長線に人生が構築されていく。コロナ以前より、ずっと深く。
その「ふたりでいる」関係の維持に必要なのは、つまるところ「愛」であると、King Gnuは半ば優しく、半ばやるせなく歌い上げます。米津玄師はこの関係性を「恋をして確かめ」合うと振り絞ります。
恋愛感情のみではなく、「深く支え合い、ふたりでいる」こと、それが「愛」のかたちであり、そう思いなおすことが「恋」なのではないでしょうか。
コロナがいつ収束するのか、収束しても「ニューノーマルな生活様式」とも言われるこの状況がスタンダードになっていくのか、そんな未来は誰にもわかりませんが、だからこそ「ふたりでいる」関係の確かさ、強さが際立って価値のあるように思えて仕方がありません。
わたしもあなたも間違っていい
再度歌詞を引用します。
あなたも わたしも 変わってしまうでしょう
時には諍い 傷つけ合うでしょう
見失うそのたびに恋をして
確かめ合いたい
ー米津玄師「カナリヤ」
真実と向き合うためには
一人にならなきゃいけない時がある
過ちだと分かっていても尚
描き続けたい物語があるよ
ーKing Gnu「三文小説」
それでも私たちは過ちを犯します。これに関しては避けようがありません。それは明らかに「悪」だったかもしれないし、そもそも誰も悪くなかったのかもしれない。
それでもお互いが「支え合いたい」と思い直すことができれば、その関係は修復し、またふたりでいることができます。
もともと他人だった2人が一点で交わり、「ふたりの人生」を歩んでいく。その道は本来の道からは明らかに外れているし、望まない未来に際して片方が引き返すかもしれない。でも過ちを認めなければそもそも支えることができない。
自分が支えるために過ちを認め、自分を支えてもらうために自らの過ちを認める。その過ちを認めなかったとき、ふたりの関係は終わってしまうのでしょう。
「笑顔」の価値
重ねて歌詞を引用します。
人いきれの中を あなたと歩いたこと
振り向きざまに笑う顔を
何故か思い出した
(中略)
いいよ あなただから いいよ
誰も二人のことを見つけないとしても
あなただから いいよ
歩いていこう 最後まで
ー米津玄師「カナリヤ」
この世界の誰もが 君を忘れ去っても
随分老けたねって 今日も隣で笑うから
(中略)
あゝ
僕のくだらない表情や言葉一つで
微笑んだ君がいるから
ーKing Gnu「三文小説」
外出時にマスクをつけることがいつしかエチケットになり、「口」という表情における大事なファクターが失われている今。
人混みの中での笑顔なんて、もう今じゃマスクの下に隠れてしまう。
「微笑み」なんてものは目元だけじゃなかなか気づかない。感情の発露がかすかな筋肉の綻びとなり、顔全体に広がることでやっとわかる。
そんな「喜び」の発露たる笑顔すらコロナによって私たちの視界から奪われていき、自分の笑顔も届かなくなっていく。
こんな世の中において笑顔を気兼ねなく見せあえる関係は特別なのではないでしょうか。
それは家族でも、友人でも、もちろん恋人でも。
「あなたとなら」だし、「あなただから」でもある。
「君で」だし、「君が」でもある。
やっぱり歌詞を引用します。
いいよ あなたとなら いいよ
二度とこの場所には帰れないとしても
あなたとなら いいよ
歩いて行こう 最後まで
(中略)
いいよ あなただから いいよ
誰も二人のことを見つけないとしても
あなただから いいよ
はためく風の呼ぶ方へ
ー米津玄師「カナリヤ」
怯えなくて良いんだよ
そのままの君で良いんだよ
増えた皺の数を隣で数えながら
(中略)
悲しまないで良いんだよ
そのままの君が良いんだよ
過ぎゆく秒針を隣で数えながら
ーKing Gnu「三文小説」
今の「ふたり」は最初からこうなると決まっていたわけではなく、各々の人生で関わった人間の数だけその関係の可能性があったはず。
「あなたとなら いいよ」、「君で良いんだよ」と思える相手なんてそうそういなくて、突き詰めるとそういう人こそ「あなただから」、「君が」といえる存在である。
この単純なフィルターをお互いに通過し、「ふたり」になる。
この崇高な、奇跡といえば月並みになってしまうしある種ドライともいえるラインが「ふたり」の必要十分条件なんじゃないだろうか。
最後に
でも僕はこんな「あなた」「君」のような存在に出会ってないし、誰かに「あなた」「君」のように思われていないかもしれない。
けれどこの人生の先にはたしかに「あなた」「君」がいて、それは自分自身のこの物語を書き続けなきゃ出会えない。
自分自身の人生を歩き続けなきゃ出会えない。
だから僕は、私たちは、彷徨いながらも、間違いながらも、確かな「ふたり」を見つけるまで、そして見つけてからも歩いて行かないといけない。
はためく風の呼ぶ方へ
ー米津玄師「カナリヤ」
追記
ところどころ主語が大きくなっていたり、そもそも「私たちはだれかと共に歩まねばならない」」という偏った考えのもと、この記事を書いているので、気分を害されてしまった方がいらっしゃいましたら申し訳ありません。
(12/2追記)タイトルがしっくり来なかったので変更しました。
(12/9追記)言うても僕は音楽に詳しくないので、こういう曲はいっぱいあるのかもしれないです。それでも2つのビッグネームがコロナ禍に共通した(ように僕は感じた)テーマに向き合ったことに感銘を受け、この記事を書きました。