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夜更け、春日通りで

中学高校のころ、飲み屋街に憧れていた。白熱灯に照らし出された暖簾、壁に貼られた手書きのよくわからないメニュー、飛び交う賑やかな声、そして楽しそうにお酒を酌み交わす大人たち。お酒は飲めないけれど、飲めないなりに、あちらの雰囲気にあこがれていた。大人たちが飲みに行くとなれば、うれしくていつもついていった。学校帰りに制服で行って、周囲を困惑させたりもした。うれしそうな大人たちを眺めているとなんだか自分までうれしくなるようで、少しでも早くあの場に加わりたくて、必死に背伸びをしていた……ような気がする。

大学生になると同時に、世の中のようすが変わった。ほとんどの飲み会はなくなり、ランチはおろか外出さえもはばかられるようになった。20歳を迎え、飲酒と宅飲みがほぼ同義な世界を暮らしていたが、それでもこのところは少しずつ雪解けが進んで、ようやく5年越しの憧れを形にできつつある。ちょうどさっきも、本郷三丁目で3軒はしごしていた。

本郷三丁目。本郷通りと春日通りとが交わる大きな交差点、くらいのイメージだったのだけれど、よくよく見ると面白い酒屋さんがたくさんあるらしい。東京大学が近いから当たり前なのだけれど、車やバイクで通りがかるばかりでこれまで気づかずにいた。東京という街は、誰かに連れ回されることで解像度が上がりがちである。

ぼくを連れ回した、あるいは一緒に連れ回された人たちが、「じゃあね〜〜!!!!!」と手を振っては、ひとり、またひとりと別れていって、ついに自分ひとりになった。お別れするときに手を振る知り合いなんて20年ぶりじゃないかとひとりごちて、とっくに終バスの終わった春日通りをとぼとぼ歩く。すると、後ろからタクシーや原付がエンジン音を響かせながらやってきて、あっという間に自分を抜かしていった。

静寂。

「静か」で「寂しい」と書いてセイジャクと読むように、静かだと寂しいと感じることがある。この言葉を考えた人の気持ちがわかるような気がしたが、いっぽうで、静けさや寂しさというのは、賑やかさや楽しさがあることでいっそう際立つように思う。飛び交う賑やかな声、楽しそうにお酒を酌み交わす大人たち。エンジン音を響かせて抜かしていく車やバイク。さっきまで飲み屋ではしゃいでいた自分や、いつも夜道を走り回っている自分からの報いを受けたのだと思うと納得がいった。

右手に湯島天神が見えた。謹賀新年、と書いてある。そういえばまだ初詣をしていなかった。通りがかったついでに、無事卒業できますように、と参拝していこうか。一瞬悩んだが、いや明日一限からだし、湯島なら大学帰りにも寄れるし、とやめておいた。初詣は氏神様のところにしよう。

上野広小路の交差点。左右にはきらびやかなホテル群が目立つ。このあたりは都内でも指折りの歓楽街である。左右に貫く中央通りはこの時間でも車通りが多い。帰ってきた。眠らない夜景に安心しながら、客引きのおねえさん達を何組もスルーし、快活CLUBの見慣れたオレンジ色に投宿した。もう寂しさに襲われることもない。明日は一限からだし、早く寝よう。

あれ。

着替えや洗面用具がない。

どうやらバイクの荷物入れに置き忘れてきたらしい。飲み屋ではいらないからとバイクに置いたままにして、それを忘れて快活CLUBまで歩いてきてしまったようだ。バイクはというと、いま本郷三丁目の駐輪場である。せっかく一度歓楽街の快活CLUBまで帰ってきた私は、かくして再びあの寂しい春日通りを一往復しなければならないことに決まった。湯島天神の参拝より長い時間を使って。

きらびやかなホテル群を横目に、意を決して湯島方面に歩いていく。道中、うっかり自殺しないようにしなければ。とにかく楽しいことを考えよう。次いつみんなに会えるかな。そんなことを考えながら、たまに車やバイクがエンジン音を響かせて通りがかる春日通りに、とぼとぼと歩を進めた。

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