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【歴史探訪】平家物語 延慶本に記されている港町牛窓 平清盛の日宋貿易と厳島神社詣

 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂には滅びぬ。偏に風の前の塵に同じ。」日本文学上屈指の冒頭美文である『平家物語』。琵琶法師が広めた「語り本系」と、書き物として伝わってきた「読み本系」の二系統がありますが、中でも「延慶本」は読み本系のルーツに近いのではないかとも言われています。その「延慶本」の巻三末「平家福原に一夜宿泊る」に「ばんしゅうむろのとまりに着きぬれば……むろあげ(室津?)、うしまど、びんごのとも……」と記されています。平家物語に書かれた中世の牛窓、清盛の宿所があったともされる周辺事情について深く掘り下げてみましょう。

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 平安時代と言えば、藤原道長にみられるように娘を天皇の后とし、自らは天皇の外祖父となることで権勢を得るのが双六でいえば最高の上り。この方法は天皇側に経済的なメリットがありましたが、デメリットもありました。例えば、藤原家という経済的なスポンサーにたてつくことはできませんので、天皇といえども意のままにならないことが出てきます。最も避けたいのは、次の天皇を意中の我が子に継がせたいのに、藤原摂関家の都合で兄弟や他の子に位が移ってしまうこと。それを幾分解決するのが「院政」というシステムです。白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇らは跡継ぎとする幼・若帝を掲げ、自らは「治天の君」法王となって院政敷くという方法や荘園の整理をすることで摂関家の力を徐々に削いでいきます。その中で台頭してきたのが院近臣。いわば武士は院のお気に入りボディーガードでもあり、伊勢平氏の流れをくむ平正盛から軍事貴族平氏一門の繁栄が始まりました。

 当時の備前国は上国と位置付けられ、今の邑久町豊原など「王家領備前国豊原庄」と呼ばれる院の経済基盤でした。ちなみに牛窓は「保」と呼ばれる行政単位でしたが、いずれにしても正盛が上国である備前の「備前守」を務めたことは平氏の経済基盤構築に欠かせないことだったと考えられます。正盛は海賊を退治して都に送って権勢を誇り始めました。「海賊」といっても、平氏の仲間であれば捕まらない、そうでなければ「海賊」という野蛮なルールで、海でやっていることは変わりません。武力を頼みに、あるときは海賊的な略奪行為を、そしてある時にはパトロールをするのが平氏の部下たちでした。

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 正盛の子忠盛も備前守を務め、鳥羽院に壮麗な千体観音堂を寄進しています。これらが意味しているのは、院と平氏は当初持ちつ持たれつでパワーを増強していったということです。そして忠盛は日宋貿易というこれまた瀬戸内海の海運を知り尽くしたものだからこそ得られる財源に気づきます。船に積まれた宋銭は船の転覆防止の重りにもなり、日本では貨幣としても利用されましたが、宋からは陶器や書物、香料などが持ち込まれました。忠盛の子清盛の時代には貿易はさらに盛んになり、平氏の財産は盤石になります。羊や麝香鹿など珍しい動物も献上された記録があるようです。清盛は海洋国家を目指したのではないか?と言われていますが、今の神戸の平野あたりに福原京を造営し、神戸港西側に港「務古水門(むこのみなと)」、今では和田岬と呼ばれるあたりを「大輪田泊(おおわだのとまり)」として整備する中、後白河法皇を福原に招き、宋人と対面させています。これは当時の貴族には全く理解できない晴天の霹靂!九条兼実の記した『玉葉』には「未曽有の事なり」と書き残されています。さらに清盛は安芸守にもなりますが、厳島神社を信仰し、およそ20年間に10回以上参詣したといわれています。こうなると容易に想像できるのは清盛の追随者が現れることで、貴族たちがこぞって厳島神社詣でに出かけるようになりました。「牛窓町史 通史編」によ
れば、『山槐記』で治承3年に花山院(筆者注:藤原)忠雅厳島参詣で、6月11日に牛間戸に到着しており、入道宿所に泊まったとのことです。入道とは清盛のことで、牛窓に清盛の宿があったことを意味しています。

 その後、国内各地で武装蜂起が勃発し、平氏も追われる身となり、清盛が病死すると益々平氏打倒の気運となります。平氏は瀬戸内海を西へ西へと下っていきますがその際のルートは日宋貿易や厳島参詣のルートとも重なっている部分が多いといわれています。平氏が木曽義仲と備前の国近辺で戦っているころ、今の邑久町である「山田庄」や岡山市である「竹原庄」の年貢米が無事届くように後白河院庁から「路次の狼藉をとどめよ」という命令が出ています。源平の兵士が入り乱れた状態で、混乱がひどかったことが想像されますが、1185年正月9日、源頼朝が石清水八幡宮寺領での武士濫行を停止する下文を発しており、その中に「牛窓別宮」も記載されています。「猥りに年貢を抑留し」「兵糧米を宛て催す」とのことですので、牛窓神社にも戦乱の影響があったと思われます。

 たまさかに現れ、「平氏にあらずば、人にあらず」とまで驕り高ぶり、贅を尽くした清盛の宿所に横づけされる豪華な宋船や阿る貴人の船。中世の牛窓の人々はどのように見ていたのでしょうか。まして清盛亡き後の瀬戸内の港の混乱。矢寄りが浜にはきっと矢だけではなく、様々なものが流されてきたでしょう。想像するだけで胸が苦しくなります。『平家物語』には清盛の子重盛の死に際して、世の乱れを予告するかのような記述があります。「此おとど、文章うるはしうして、心に忠を存じ、才芸すぐれて、詞に徳を兼ね給へり。」「入道相国の、さしもよこ紙をやられつるも、此人のなほしなだめられつればこそ、世もおだしかりつれ、此後天下にいかなることか出てこんずらむ」驕る清盛はまだしも、驕ることのない人格者の重盛ですら、風の前の塵と同じだったのかと思えば、この上ない無常観を覚えますが、それを知り、知った上で乗り越えて生きることも歴史を紐解く意味かもしれません。

参考資料:「牛窓町史 通史編」、「邑久町史 通史編」「日本古典文学全集 平家物語」(小学館)、「日本中世の環境と村落」橋本道範

監修:金谷芳寛、村上岳

写真:写真AC

イラスト:ダ鳥獣戯画

文:広報室 田村美紀


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