【歴史探訪】東京国立博物館所蔵!牛窓町鹿忍 槌ケ谷古墳出土と伝わる子持装飾付脚付壷
牛窓には大きな前方後円墳が5基もあり、またオリーブ園のある阿弥陀山《あみだやま》には小さな古墳が60近くもありますので、古墳の話はここまでで打ち止めになることが多いです。……実は、すごいお宝が出土したという円墳があるにも関わらず。お宝とは、なんと、あの、東京国立博物館に所蔵されている「子持装飾付脚付壷《こもちそうしょくつききゃくつきつぼ》」。6世紀後半とされる槌ケ谷《つちがたに》古墳出土と伝わっています。今回はその須恵器製の壷をめぐるお話です。
槌ケ谷古墳(牛窓町鹿忍)は、牛窓の前方後円墳の中でも最も新しい二塚山古墳の近くにあります。1号墳と2号墳とあり、大きい方の1号墳が23m級で、円墳としては牛窓エリアで最大級。のちの下級郡司クラスの人が葬られているとされています。ちなみに二塚山の前方後円墳は55m級で、作られた年代もほぼ同じ。こちらはかなりの権力者……もしかすると吉備海部直羽島《きびのあまのあたいはしま》か?と言われています。
槌ケ谷古墳の遺物には、須恵器、土師器、鉄矛、製塩土器、鍛冶滓《かじさい》、埴輪、甲冑などの小札《こざね》、銅地銀張りの耳環などがあったそうで、塩づくりに関係する、また朝鮮半島との交流も考えられる一方で、これまでに牛窓エリアでは「鉄」に関係するものがなかったのになぜ?という謎が解明されていません。しかしながら、おおむね槌ケ谷の主は二塚山の主の次のクラスの人であろうと推定されています。
で、問題はこの「子持装飾付脚付壷」。全国に出土している同種の壷と比べると、まず、全体の形がスマートかつしなやか、作り慣れたプロの技を感じさせます。そして人形等は数が絞られていて(注:他に何体かあった痕跡はあります)、シンプルで素朴ながらどこか優美な感じがします。専門家の見立てでは、「相撲を取る人物と行司と思われる人、動物と騎馬像のほか、坐して手を前に出した女子像、猪とそれを追う犬がある。」とのこと。なにやらここに、想像を楽しむヒントがありそうですね。
相撲と言えば、日本書紀に「垂仁天皇の時代に、強者自慢の当麻蹴速《たいまのけはや》をいさめるために野見宿禰《のみのすくね》を出雲から呼び寄せて試合をさせたのが始まりと言われています。勝ったのは当然、野見さん。野見さんは賢い人で、「古墳で人を生き埋めにするのは止めましょう。代わりに埴輪を作りましょう」と勧めた人でもあります。野見さんの子孫は土師氏(菅原道真も)、葛城氏として歴史に名を残しています。
そして垂仁天皇と言えば3世紀から4世紀頃の人で、初めて屯倉《みやけ》を作ったと言われています。屯倉、ポイントですよ!
さて、壷が作られた6世紀に戻りましょう。天皇は536年から宣化天皇、蘇我稲目《そがいなめ》が大臣になり、屯倉を諸国に作ります。539年から欽明天皇、次に572年から敏達天皇になりますが、稲目さんが亡くなり、子の蘇我馬子が大臣に。2代続けて短命の天皇の後、593年からは推古天皇、聖徳太子と馬子さんが補佐する時代。で、歴史的に見逃せないのが、あまたある屯倉のうち、稲目さんや、のちに馬子さんが直接現地に指導に行ったとされるのは白猪《しらい》屯倉(吉備ではあるが、地域は諸説あり)と児島屯倉だけということ。力の入れ方が半端じゃない感じです。556年には「田令《たつかい》」として葛城山田直瑞子《かずらきのやまだあたいみずこ》が現地を任され、569年には副官として白猪胆津《いつ》が配属されます。稲目さんは戸籍を整え、屯倉という天皇の財政基盤を整えて重臣としての権力をつけていくのですが、元々、お父さんは蘇我高麗《こま》(別名は馬背《うませ》)、御祖父さんが蘇我韓子《からこ》……蘇我氏自体が渡来人や製鉄に関わりの深い葛城氏との関係が深い一族。それから562年、大伴連狭手彦《おおとものむらじさでひこ》が高句麗を破った時に、七織帳や宝、武器は欽明天皇に、五色幡や武具と美女媛《おみなひめ》と侍女吾田子《あたこ》を稲目さんに献上したとか。 屯倉、馬、鉄、女性……揃っているから、槌ケ谷古墳は稲目さんのお墓と言いたいの?というと、それは違います。主が稲目さんとするには古墳が小さすぎますし、稲目さんにはもっと確実性の高いお墓があります。1辺40mの方墳、都塚《みやこづか》古墳(奈良県明日香村)です。興味深いことに、この都塚古墳は5段石積み、別名「金鶏塚」ですって。驚きですね!ちなみに長船町にも金鶏塚古墳があって、出土したとても珍しい青銅製の馬鐸《ばたく》が東京国立博物館に収められているそうですよ。馬鐸?何それ?ですよね。豪族が権威を示すために儀式のときに馬の胸に下げる鈴だそうです。見た感じは銅鐸にも似ていますし、神々しい素晴らしい音がしたんでしょうね。
では、槌ケ谷古墳は誰のお墓と言いたいの?ですよね。全くの妄想ですけど、槌ケ谷1号墳が美女媛さん、2号墳が吾田子さん……羽島さんが583年に日羅を百済から連れ帰す際に、二人の美女は、こっそり便乗、高句麗とまではいかずともせめて朝鮮半島まででも連れて帰ってもらおうとしたが、途中で命が果て、牛窓に埋葬された。二人に韓の言葉を習っていたので羽島さんは百済の符丁が解り、日羅を連れて帰ることができた、よって羽島さんは二人の女性を憐れみつつ、守りたいと考え、亡くなった後、二人の近くに埋葬するよう遺言していた……という物語はいかがでしょうか。同種の装飾壷の中でもとりわけ女性的な印象からそこはかとなく敬意を感じる女性像が見え隠れするんですよね。牛窓には同じ頃にもう一つ、12m級の乙佐塚古墳があり、須恵器、製塩土器、鉄鎌、ハマグリ、紡錘車が収められていて、主は須恵器工人の統率者?という説もありますが、ハマグリは浜も近いし、好きだったのね……は、ともかく糸巻き??もしかして女性も?なんですよね。また、槌ケ谷の耳環は銅製銀メッキ。郡司と言えども副葬するなら金製かと。もちろん、金のアクセサリーもあったけど、盗掘の憂き目にあってしまったのかもしれませんが。
ロマンティックな想像は置いといて、フィギュアの馬のしっぽの形状が似ていると言われる兵庫県小野市の勝手野古墳群出土の装飾須恵器は猪、矢が刺さった鹿、騎馬人物、相撲風景をあらわす小像が巡らされていて、『播磨国風土記』に見られる神話的伝承と通じるものもあり、葬送儀礼を考える上で貴重な資料だとか。……猪を追う犬というと麻奈志漏《まなしろ》ちゃん。『播磨国風土記』に「応神天皇の狩犬である麻奈志漏が猪と戦って亡くなり、応神天皇は麻奈志漏のお墓を作った」話があります。そのお墓は犬次《いぬつぐ》神社(兵庫県西脇市)になっていますが、壷の犬が麻奈志漏とすると、馬に乗っているのは応神天皇かしら?播磨とのつながりも興味深いですね。
ともかく、この、伝槌ケ谷古墳出土の「子持装飾付脚付壷」に瀬戸内市に里帰りしてもらい、「坐して手を前に出した女子像」や「猪を追う犬」を特にゆっくり眺めたいものです。
参考文献--------------------------------------------------------------------------
『牛窓町史』、『邑久町史』、東京国立博物館HP、
奈良文化財研究所HP 監修:金谷芳寛、村上岳 文:田村美紀