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「やさしさ」とはなにか(青魔道士になりたい話)

「やさしい」ってなんだろうね。
よく、ぼんやり考えている。

職業柄もあるけど「やさしいですね」って言われる機会がそれなりにある。
とってもありがたいんだけど、ときたま違和感を感じることがある。
じぶんでも「オレやさしいんじゃないかなぁ。うん。良いヤツだなっ。」って思えるときもあれば、「あーあ、全然優しくねえな」っておもうこともある。

これは「やさしさ」のことがわかってないからで、定義が曖昧で抽象度の高いことばを扱っているとそういうことが起こりがちなんだよね。


ぼくが「◯◯ってなんだろう?」って思ったときに、よくやる方法としては、

まずは人の意見(本)を見たり、「親切」とか「愛」みたいに関連しそうな周辺概念をいろいろ知ったり、頭がいい友達と対話したりして、じぶんにとっての「やさしい」とはなんだろうかの思考をすすめていく。

で、「まあ、自分的にはしっくりくるかな」っていう仮説をたててみて、それをもとに世の中の事象を検証してみる。
検証って視点で見ると、ちょっと視界がクリアになって理解がすすむ。
その繰り返しだけで、ご飯が何杯も行けてしまうほど楽しかったりもする。

そうそう、一連の「やさしさ」探索の中で出会った、「思いやり」についての考察が面白かった。
ゴリラの研究をしている山極先生によれば、霊長類は300種類くらいいる中で、人間だけに見られる行動がある。

それは、「赤の他人に餌をあげること」なんだって。

困っている人に手を差し伸べることは、「ヒト」としての脳が感じる快楽であり、人間の本質的な行動のひとつみたい。おもしろいよね。

尊敬してる友人クリエイターが、帰りの電車の中で「やさしくなりたいんですよね」ってぼそっと言っていた。そのことばが、アイロニックで尖った企画脳をもった彼女から出たことがとても印象深かったし、素敵だなあとおもった。


これ以外にも、自分のまわりの賢くてステキなひとたちが、「やさしさ」を志す現象が複数生じている。
これには、きっと意味があるはずだ。

和義さんも言ってるけど


たぶん、「つよくなりたい」とか、「やさしくなりたい」っていうのは人間としての本質的な欲求で、砂漠でオアシスとか天竺を目指すように、その方角に自然にすすんでゆきたいと思える、いわば「生きる道標」になりうるものなんだろう。


ダライ・ラマ先生はこういってる。

ふむふむ。やっぱり、やさしいと幸せになるらしい。
「やさしくなろう」とすることは、筋が良さそうだ。


水島先生はこんなことをいってる。

これよこれ。
まさに「自己肯定感」の文脈のはなし。

結局ぼくがなぜ「月刊 自己肯定感」をやっているかというと、それが「やさしくなる」ことの本質に近い確信がある。
そして、やさしくなることそれ自体が、自分の人生の幸福度を大きく高めるんじゃないかとおもってるからなんだね、とあらためて気付かされたよ。


で、ぼくなりに今打ち立てている仮説はこれ。


どうも、ひとの「痛み」を知ったり想像できることがやさしくなる方法としてけっこう筋が良さそうだ、という説。

ぼくが、ひとが抱えている「痛み」のはなしを聴くことが好きだし嬉しいのは、そこに自分が望んでいる方向性の成長を見出してるからなんだね。


これに気づいたときに、感じたのは「あ、これ青魔道士やん!」ってこと。

ぼくはやたら青い服が好きで、こないだもゲームマーケットに行ったときに魔道士みたいなバッグを買ってわりと愛用してたりするんだけど


「青魔道士」っていうは、敵の必殺技を受けて、「ラーニング」する。
覚えた敵の技を、食らうことで学び、次から自分で使えるようになる。
いろんな技を食らい、ラーニングすればするほど、強くなる。

それが、いろいろなつらさや痛みを覚えることで、少しずつやさしくなる過程に似ていて、好きなのね。

「透明人間の骨」とか、「ちひろさん」のように、「痛み」や「生きづらさ」を扱ったコンテンツが好きなのもたぶん同じ。
色んな種類の痛みを知ることで、その世界観を想像できるようになるから。


もうひとつ気づいたのは、ぼくが発揮したいのは、おそらく「わがままなやさしさ」だ。
青魔道士として力を高めたいのは、全世界を平和にするためじゃない。
ぼくがしあわせにしたい人を、しあわせにするためだ。
矛先が選別的な、きわめてわがままなやさしさだとおもう。


ぼくは、ユニバーサルなやさしさをまったく志向していない
(ここ、よく誤解されるポイントなんで、気をつけて!笑)
人によっては全然やさしくないし、むしろ守備範囲は狭いほうだし、なんなら社交性のかけらもないしすぐ帰る。

ただ、じぶんが幸せにしたい誰かを幸せに近づけるという行為によって、じぶんが幸せになろうとしているだけ。

それは、本質的な意味での「やさしさ」と言えるものではないのかもしれないし、それはまあ、どうでもいい。そのへんは、もうすこし「やさしさ」について学びを深めていったらどうせ明らかになってくだろう。行った先で「これ、やさしさじゃねえな」とおもったら、やさしくなるのを辞めたらいいだけだ。
ひとまずは、自分なりの定義がみつかればいいとおもってる。


それに、「やさしくある」ことで不幸になるなんて、本末転倒だ。
それじゃ『ポップな仇討ち』にならない。


「幸せになるために、やさしくなる。」
この順序が逆にならないように、じぶんなりのフィールドリサーチをつづけていきたい所存です。


それじゃ、きょうはこのへんで!

【追記】

青魔道士のつかう魔法で一番好きなのは「ホワイトウインド」。

じぶんのいまのHPと同じぶんだけ、味方のHPを回復する魔法。


つまり、自分のHPが高くないと(元気じゃないと)、ほかのひとを癒すことができない。

これ、現実と全くおなじだよね。

やさしくなりたいひとは、つねにじぶんのHPに余裕を持たせておかないと。

人を癒す前に自分にポーションをつかいましょう。


追記おわり。

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Dr. ゆうすけ
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