寄り添うとは、なんだろうか。
どうもどうも。
こないだは「cakes×note FES」だったよ。
サクちゃん、スイスイと「悩みに寄り添い、書き続けること」というテーマでおしゃべりさせてもらって、超楽しかった。
こんなふうに嬉しい感想もいっぱいもらって、すごくありがてえなあという気持ち。
テーマの方では、最初は三人とも、「あんまり寄り添えてはないよね」って言っていたんだけど、スイスイは相談に答える前に、憑依するようにいったん相談者になりきる、というプロセスがあるらしく、それは「寄り添っているなあ」とおもった。
ぼくも「寄り添う」ってどういうことかな、といろいろ考えながらしゃべったんだけど、あんまり頭の中が整理できてなかったのもあって、あの場で何言ったのかあんま覚えてないから(笑)、あらためてじっくり考えなおしてみた。
寄り添うとは、どういうことだろうか。
まずは考えたのは、寄り添いと「共感」について。
寄り添うことと、共感することはかなり近い領域にある言葉だ。
共感できるとは大きく分けて、「ひとの気持ちを汲んで」「寄り添うことができる」ことだ。
前半の「ひとの気持ちを汲む」の部分は、技術的な側面が強いんじゃないかとおもっている。
ひとの気持ちを精緻に汲むためには、知識や経験をとおして、相手の「痛み」についての理解が深いことが必要だ。医師や心理士などの対人支援職であれば、プロフェッショナルとして、頻出するケースとその対処法をパターンとして熟知しているってことだとおもう。
たとえばこんなやつ。
「○○のときにはこうしたほうがいい」
「○○においてはこれは役に立つ、役に立たない」
こういうのは、言ってしまえば単なる知識にすぎない。
それでも、知識を集めることでミスコミュニケーションが減り、相手のもつ苦悩のバリエーションに幅広く対応できるようになる。
それは、関わるひとの「共感する能力」を向上させ、より深いレベルで相手の理解がしやすくなるだろう。
これが、「共感」の技術的な側面としてのおはなし。
客観的な能力としての共感力は、向上させることができる。
一方で、後半にある「寄り添うこと」には、関わるひとの主体的な意志が必要だと感じるのだ。
「寄り添うこと」を考えたときに、一番しっくりきたのは、大好きな「透明人間の骨」という作品のなかのシーン。
主人公の花(あや)の精神的な拠り所である中山栞先輩が、じぶんを消したいと願って失踪した花を見つけだして、言った台詞。
「もし、私にできることがあったら、なんでも言ってよ」
「一人にならないで、私にも花ちゃんの闇を分けてよ」
「じゃないと、私が苦しい」
初めてこれを読んだとき、鳥肌が立った。
ぼくがFESで言いたかった、「寄り添う」ってこういうことなんだとおもう。
栞先輩の「闇を背負わせてほしい」ということば。
ここに、ぼくのおもう「寄り添うこと」の本質があるとおもった。
イベントのあと、尊敬する若い看護師さんとこのテーマについて議論したときに、やっぱり鍵になったのは「そのひとと、一緒に悩むことができるかどうか」ということだった。もっといえば、「それをじぶん自身が望むかどうか」だ。
「あなたの苦悩を軽くするお手伝いができます」と
「あなたの苦悩を、わたしの苦悩として一緒に引き受けます」は
まったく異なるスタンスだ。
技能としてあなたの苦悩に対処できるかどうかということではなく、ひとりの人間として「あなたの闇を背負いたい」とおもえるかどうか。
ぼくの場合でも、ほとんどの場合は前者で、ひとの助けになりたいという気持ちはあっても、「闇」まではなかなか背負えない。
でも、そうではないひとがたまに出てくる。
「このひとの闇はじぶんの苦悩であり、ともに背負うことはじぶんの人生」であると感じ、とことんまで関わりきりたい、とおもえるようなひとが。
その気持ちを駆り立てるのは、プロフェッショナルとしての「べき論」や「責任感」などといった知性的ものではなく、もっと感性的な、ただ「じぶんがそうしたい」という超主観的で利己的な欲求でしかなかった。
そして、その欲求の根っこにあるのは
「あなたという人間が知りたい」と、「そのことを通して、じぶんという人間をより知りたい」という、きわめて情動的な好奇心なのだと気づいた。
以前、三宅陽一郎さんが
「幸せとは、”世界”の一部として自分の機能がフルに活用されている状態」だと話してくれていたのを覚えている。
そこに「じぶんにしか照らせない闇」があったときに、それを追い求めることは、すごく自然で本能的な行為なんだとおもう。
その先には、自らの全力をもって「世界と接続している」という実感が得られる可能性がある。そんな幸せなことはそうそうないから。
「寄り添うこと」を考える上で、もうひとつ重要なのは、イベントでサクちゃんも言ってたように、「わかり合えない」という前提からはじまるってこと。
わたしとあのひとは別人格、という前提をもってはじめて、ひととしての境界を意識した、リスペクトをもった関わりができる。
共感の技術を持った人間の「わかりたい」という欲求にもとづいた関わりは、いきすぎると相手を飲み込んで、染め上げてしまうリスクがある。
ぼくの理想とする「寄り添う」とは
「わかりあえない」という前提と、相手の人格へのリスペクトのもとに
「共感する」ための技術を兼ね備えた人間が
相手を「わかりたい」という欲求に忠実に関わりきること
だということがわかった。
最終的にじぶんが決められるのはスタンスだけで、ほんとうに寄り添えているかどうかを決めるのは、相手である。
もちろん、これはぼくの完全プライベートなことばの定義であり、これ以外を認めないというわけでもなければ、そんな権利もない。ただ、あくまでもじぶん自身のために、人生において重要なキーワードだと感じた言葉を、しっかりと分別をもって大事に使いたいとおもったのだ。
なぜなら、言葉を選ぶことは、人生を選ぶことにかなり等しいとおもうから。
最近とくにそういう感覚があるなぁ。。。
というわけで、ある程度納得するまでしっかり考えることができて、すっきりしている。
これも全部、3人をブッキングしてくれて「悩みに寄り添い、書きつづけること」という素敵なテーマを与えてくれた盟友みずPをはじめFESを運営してくれたpiece of cakeのみなさん、一緒に喋ってくれたサクちゃん・スイスイ、会場に来てくれた方、質問くれた方、お話してくれた方、そしてtwitterやnoteでいつもぼくらのことばを受け取ってくれる方のおかげ!
みんなありがとう!
ことばとしっかり関わると人生がゆたかになるよねー。