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じぶんの"want"の見つけ方 (じぶんの感情がわからないひとは、スターを集めようという話)


これは、「月刊・自己肯定感」のほうに入れようとおもったんだけど、ここ最近、ぼくの身の回りにこの「じぶんの本当の感情がわからない」問題に悩まされているひとがあまりにも多くて、みんなに読んでもらいたいから通常noteに書くことにしたよ。

「感じたとおり、感じよう」というノートにも書いたけど、自己肯定感を再構築するには、じぶんの本来の感情をとりもどすこと、ってはなしをマガジンでずーっとしている。


で、どうすればそれができるんだろうね、っていうのをサクちゃんとあれこれと書き散らかしてる感じね。



少し前にも、「じぶんのことがわからない」っていう子の話を聴いた。

その子は、ひとのグチをいろいろと聴く立場になってしまうんだけど、それが実はつらくて苦手で、じぶんのことを「ほんとうはひとに共感できない、冷たい人間だ」と、言って悲しんでいた。


たぶん、違うんじゃないかなーとおもった。
じぶんの感情がわからなくて、身の置き所がない不安を感じているのに、誰かの負の感情を受け容れる余裕なんてあるわけがないだろうから。


自己肯定感がないと、誰かのための感情を「演じて」しまうクセがつきやすい。

愚痴をしっかり聞ききって、共感的な態度を示さなければいけない、ということがその子の中で「決定事項」になっている。そうでなければじぶんに価値がないとおもい込んでいる。


そこに「いま、わたしはそれを聞きたくない」「共感できない」「くるしい」というじぶんの感情は一切考慮されない。
ずっと他人のための感情を演じることに慣れすぎていて、じぶん本来の感情がわからなくなってしまっている。


そういう子は、じぶん本来の物語を生きられていない。


「とても不安で、張り裂けそうだってことは理解できている。
でも、なんでそうなっているのか、じぶんの気持ちがわからないから、どうしたらいいかわからないんです。」

その子は、泣きながらそう言っていた。


おそらく、じぶん本来の感情を人生のかなり早いタイミングで置き去りにしてきてしまって、そのままになっているんだろう。


それで、押し込められた正体のわからない感情が膨れ上がって、圧力が上がって割けそうになっているんだ。


その子以外にも、「自分の本当の感情がわからない」というひとは多い。


周りの人間関係を俯瞰したうえで、じぶんがこのひとたちの中で何を言ってどう振る舞えば、最もみんなの期待に添えて最適でいられるか。
そうやって、まるでじぶんが盤上の駒であるかのように、場の最適だけを考えて、主観を欠いたコミュニケーションが習慣になっているひとがいる。


そういうひとは、仕事がとてもできるし、周りからの評価もとても厚い。
でも、そこに「じぶんのほんとうの感情」が差し挟む余地がない。



「人は自分の物語にすがりついて生きている。」

これは、高垣忠一郎先生のことばだ。

逆に言えば、すがりつくべき物語がなければ、ひとは生きていくことができない。

しあわせに生きるとは、じぶんの紡いだじぶんの物語に、疑念や欺瞞を抱くことなく、心から納得し、その物語に素直に全力でコミットできていることではないかとおもっている。

死ぬまですがりつくことができるような「じぶんの物語」を生きれていたらとても幸運なことだ。


でも、それはなかなか難しい。ひとの知性は常に向上しているから。
自己欺瞞っていうけど、じぶんを騙すのはどんどん難しくなっている。


ある日、偶然目にした情報や、だれかのちょっとした一言をきっかけに、それまで全力でコミットできていた物語に、まったくハマれなくなってしまうという事態がありうる。


突然夢から覚めたように、「あれ、わたし今まで何やってたんだろ」と、じぶんの物語が急に色褪せてしまう危険が、常に存在している。


そのくらい、ぼくらが生きている世界は急激に変化しているし、入ってくる情報は増え続けているし、SNSやらで(望んでもいないのに)他人の人生を垣間見る機会に恵まれすぎてしまっている。嫌でも相対化せざるをえない。


だから、要所要所でじぶんの物語をメンテナンスし、再編集して、時代の変化や外界からの刺激に耐えてコミットし続けられる代物にしてあげる必要がある。

どうすれば、じぶんが愛することのできるじぶんの物語を組み立てることができるのか。


それは、「じぶんの感情に素直になること」でしかありえない。


ひとの物語を紡ぐのは感情だ。
そこに嘘をついて、じぶんのほんとうの感情がわからなければ、心からすがるべき物語を語ることはできない。


とくに大事なのは "want" だ。
"want" に結びつくような感情を紡いでいけば、じぶんの真ん中がだんだんつかめてくる。それはじぶんの物語の根本たる骨組みになる。


ただ、ひとつ大きな問題がある。
それは、"want" をみつけるのは、めちゃくちゃ難しいってことだ。
とくに、じぶんの感情を置き去りにしてしまってきたひとたちにとってはより難易度が高い。


それでも、それがみつかるヒントはある。
ぼくが「スター集め」と勝手に呼んでいる方法を、紹介したい。


ひとや作品に触れたとき、良きにしろ悪きにしろ、心が動く瞬間があるよね。その衝撃や摩擦から「感情」が生まれている。


とくに、心理的に反発感があったり、なにか不快な気持ちがあったときに着目する。
そのとき、心がなにかに「ぶつかって」いる。
だから、摩擦があり、葛藤が生まれる。
それは基本的には苦しいことなんだけど。


でも、「苦しい」と感じるということは、その裏側に「じぶんは、ほんとうはこう生きたかったんだ」「こうしてほしかったんだ」という「want」の欠片がある。
そこに、本来の感情を取り戻すヒントがある。


要は、「ぶつかれ」ってことね。「ぶつかり稽古」である。
(なかなかスパルタなことを言っている自覚はある)


マンガやアニメとかの演出で、出会い頭にぶつかったら頭から星が出てきたりするよね。

<参考画像「ありさんとありさんとごっつんこ」>


この星(スター)が生まれたとき、そこに感情の波風が立つ。
それを見つめることで、きっといろんなことがわかってくるから。
そこで得た気づきを、紙とかtwitterに書き散らかしていったりするともっと良いよ。


とりあえずこのスターを100個くらい集めたら、1UPするかも、みたいな。
そんなイメージ。
(それで本当に新しいじぶんが発見できたら、リアルに1UPだ。そこから新しい人生を生きなおすことができるから。)


誰かの主張を「のれんに腕押し」状態ですべて引き受けてしまうと、そこに反発のスターは生まれない。それがほんとうはイイのか、イヤなのか。
もやもやと感じているものがあるはず。それをことばにしてみよう。


生まれたときから主張がない、なんてことは絶対にないはず。
赤ちゃんのときに、「のどかわいた」とか「眠たい」とかを、泣いて全力主張していたはず。覚えていないだけで。

苛烈な環境を生きのびていくために、どこかで置いてこざるをえなかったものを、ただ取り戻しに行くだけなんだ。


ちなみに、「対話」っていうのは、お互いをリスペクトしたマイルドな「ぶつかり稽古」だとおもってる。じぶんにいろんな感情の気づきを与えてくれる対話相手は、一生ものの財産だから大切にしようね。


それじゃ、またね。



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サクちゃんとのマガジン「月刊・自己肯定感」はこんな感じのノリでやってまーす。もしちょっと気になったら、一度覗きにきてみてね。

お試しで見たいよって場合は、間違ってつくってしまった(笑)、2月分の9記事だけ入ってる「月刊・自己肯定感(2月)」もあります。



そして、今日の夜は cakes×note FESで、サクちゃん、スイスイさんとしゃべります。どんな内容になるんだろ、たのしみだなあ。

ぜひ声かけてねー。

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Dr. ゆうすけ
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