「NOを言える人」になりたいひとへ
ひょんなことから「メンタルヘルス」「生きづらさ」「自己肯定感」というテーマにライフワーク的にかかわっているのだけど、クリニックをやるようになって、もっともっと面白く感じられるようになってきた。
(もちろん、全く笑えない時もそこそこあるのだが、総じて面白い。)
さまざまな事情で他人の人生を生きさせられているひとが、人生を「回復」していく過程はとてもロマンティックなものであり、そういうのを間近で拝めるのはとてもラッキーなことだ。そういうのを多少なりとも後押しできるような場所がいいなーとおもって、クリニックを運営している。
ある日、編集者さん(Kさんとしよう)がぼくのインタビュー記事を見てクリニックを訪ねてくれた。
「40〜50代向けビジネスパーソンにキャリア不安とメンタル不和の警鐘を鳴らす本を書きませんか」という企画をいただいたのだが、普段メインで関わっている方と違うのもあって、あまりピンとこなかった。その企画はいったんお断りしたものの、その場でしばらく雑談をしたのだが、これが楽しかった。
「今の時代に幸せになるのわりとムズイっすよね」みたいな話で盛り上がったのを覚えている。あと、生きづらさからの「回復」について話していた。
人生における回復とは、じぶんの人生を取り戻すことであり、それは刷り込まれた「べき」(他人の価値観)を手放し、自分本位の感情に裏打ちされた、固有の幸福観を構築していくことが必要だという話をしたときに
Kさんが「それは、現代の多くの人に必要なことですね」と強く共感していただいた。
「先生の言葉をいちばんいい形で世の中に届けられるような形にしたいので、企画はいったん持ち帰ります。」
と言っていただき、その日の打ち合わせは終わった。
Kさんは、年齢は近かったが、明らかにただ者ではない感じのひとだった。
こういう聡明な方が、ぼくから感じ取ってくれた何かを、どういう風に切り取って形にしてくれるのか、とても楽しみになった。
多くの方に届けるためには、心理書ではなく、ビジネス書の棚に置かれるものであることが必要だということで、Kさんはそのためのワーディングを何ヶ月も考えていた。
4か月くらい経って、Kさんが持ってきてくれたタイトルが
「NOを言える人になる」
だった。
そのタイトルを初めて目にしたとき、編集という仕事の凄みを感じた。
ぼくと世の中のつながり方を、Kさんの視点でデザインし、こうした表現で提案したのだということがまずとても面白かったし、「すげっ!」「なんか売れそう!」とじぶんでもおもってしまった(笑)
僕のまわりはNOを言いたそうなひとばかりだからね。
そして、このテーマはまさに、ぼくがここのところずっと考えてきて、向き合わざるを得なかった「自他の境界線」そのものだ。
ぼく自身、ここ2年くらい境界線のあり方に苦悩し、上手くいかずに痛い想いを何度もした。絶望的な気持ちになったこともあった。
健全な境界線をもった関係とは、「NOを言いあえるフェアな関係」でもある。それをつくりあげるのは、想像しているよりもはるかに難しいということを知った。
じぶんの人生を蹂躙されず、相手の人生を侵害しないですむことは、良き人間関係の基盤となるものだ。
それを、大切なひとたちから色々な形で教えてもらった。
ついこないだ最後の校正があり、熱が入りすぎて締切日の夜中5時に送ったところ、Kさんから
入れていただいた赤字、どれも最高でした。
細かなところに、ひとつひとつ温度があがる、
先生の人間性や魂が刻み込まれていくような
理想的でいちばん嬉しい赤字です。
人生でいちばん素晴らしい赤字をいただきました。
というメッセージをいただいた。
これまでもベストセラーをいくつも創っているKさんから、こうした言葉をもらえるのは、とても誇り高い気持ちになった。
本の内容は、noteのマガジンや、soarさんのインタビューなどでお話している内容をわかりやすくした感じなのだけど、すでに読んで欲しいなあというひとの顔が浮かびまくっている。
ビジネス書なので普段あんまりしない断定口調が多く、普段より圧強めな感じになってるかもしれないけど(笑)、しっかりと魂込めたので、読んでいただいたらとても嬉しい。
実はもう予約できちゃうのだ。
今日はこの本の「はじめに」を公開したい。
以前、ある媒体で書かせていただいた内容をリライトしたものなんだけど、この文章をとくにKさんが絶賛してくれた。
これは、当時懇意にしていた編集者さんの力を借りて書き上げたものだ。
ぼくの人生はいろんな節目で編集者という存在に、多大なる影響をいただいているのだなとあらためて気づいた。編集って、本当にすごい仕事だね。
はじめに
診察室の中だけでは解決できない「生きづらいという苦しみ」
僕は、都内で内科のクリニックをやっている医師です。
10年ほど前、身近な人の自死をきっかけに、医療職のメンタルヘルス支援活動を始め、以後、さまざまな「生きづらさ」を抱える人たちの話を聴いてきました。
その多くは、病気などにより、本来持っている「生きる力」が一時的に失われているケースなのですが、それとは毛色の違う、永続的に続くような深刻な「生きづらさ」を抱えているケースも少なくありません。
そうした人たちがもつ苦悩は、私が「医師」として診察室の中だけで関わるだけでは、解決に至ることがほとんどありませんでした。
もともと医師の職務としてではなく、友人や後輩など身近な人がたまたま発してくれたSOSに対して一人の個人として応えるという形でメンタルヘルスと関わるようになった経緯があるため、診察室の中ではなかなか体験できないような複雑でヘビーな関わり方や、忘れることのできない喪失や、奇跡のような変化に立ち会う経験をうっかり経験してしまい、いつしかそうした人たちと向き合うことがライフワークとなっていました。
そして、彼らが抱えている根源的な「痛み」の生々しい現実や、そこから人生を回復させていく鮮やかな変化の様子を見ながら感じたことを、SNSに投稿したり、文章にしたりしているのですが、中でも特に反応が大きいのが、「自己肯定感」についてのツイートやコラムです。
ふだん、普通に生活をしているように見えていても、心の奥に深刻な生きづらさを抱えながら、それを隠してギリギリで生きている人が相当数いるのだろうと強く感じています。
たとえば以前、次のような言葉を伝えてくれた、女性の患者さんがいました。
「先生、私は自分が生きる意味がわかりません」
「自分がこの世に生きてていいって、どうしても思えないんです」
彼女は、普通の人から見たら「恵まれた家庭」に生まれ、いわゆる「一流大学」を卒業した、誰もがうらやむような華やかな経歴の持ち主でした。
聡明で知的で、仕事においても「尋常でないほどの」努力家で、職場からも取引先からも全方位的に評判の良い人物でした。
しかし、そうした他者評価からは想像できないほど、自己肯定感を持てずにいたのです。
「自分に自信がほしくて、努力してきました。そのおかげで、行きたかった大学、行きたかった会社に行くことができました。でも、ホッとしたのはほんの一瞬だけ。今も、振り落とされないように必死でしがみついています」
「この先、幸せになれるイメージが、まったく湧かないんです」
泣きながら、絞り出すようにそう伝えてくれた彼女は、「存在レベルでの生きづらさ」を抱えているように思えました。
彼女は、「自分の物語」を生きられていませんでした。
自分ではない誰かのための人生を、誰かのための感情を、生きさせられているようで、その先の見えない苦しさにあえいでいるように感じました。
彼女のように、自分を肯定できずに苦しんでいる若者にふれるたびに、僕はこの時代に幸せになることの難しさと、「自分の物語」を生きることの必要性を痛切に感じるのです。
社会が豊かになると、人は「生きる意味」を見失う
この地球に誕生して以来、人間は常に生存の危機とともにありました。
戦争、飢餓、病気、差別など、その生命をまっとうできない危険性がある環境においては、動物的な生存本能が発揮されやすく、生きることそのものが目的たりえました。
しかし、社会が豊かになり、命の危険がないことが当たり前になってくると、「生きること」それ自体の意味を見つけることは難しくなります。
イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは、「人々の努力によって社会がより良く、より豊かになると、人はやることがなくなって不幸になる」と主張しました。
社会が豊かということは、人が人生を賭して埋めるべき大きな「穴」が無い状態です。
たとえば「国家」とか、「社会」とか、これをより良くすることに自分の人生をささげようと思えるような、「大義」が見つかりにくくなるのです。
そうなると、自らが生きるモチベーションは自分で見つけるしかありません。
そこで必要になるのが「自分の物語化」です。
自分の物語化とは、これまでの人生で連綿と起こってきた出来事に対して、自分なりの解釈をつけていくことです。
たとえば、大切な人と死別し、悲しみでやりきれなくなってしまったとしても、「この喪失の経験から得たものを、誰か他の人の役に立てよう」と思うことができれば、人は、また前に進むことができます。
起こった出来事に対して、主観的に自分が納得できるような意味づけをしていくことで、挫折から前向きに立ち直ったり、成功体験を自信に変えたりすることができるわけです。
また、そうした「自分を編集するような作業」の中で、自分の生き方に物語性を見いだせれば、当面の生きる意味を得ることができ、生きやすくもなります。
自分の物語に納得することは、自己を肯定することとほぼ同義です。
ありのままの自分の人生を「これでいい」と肯定できないと、自分以外の誰かの価値観やルールを中心に生きざるをえません。
自分の物語を作ることは、自己肯定感の問題の中核にあると、僕は考えています。
「人は、自分の物語にすがりついて生きている」。
これは、臨床心理学者の高垣忠一郎先生の言葉です。
すがりつくべき物語がなければ、人は生きていくことができません。
たとえ、それが不幸の物語であったとしても、その人が生きていくためには必要なのです。
今、生きづらさを抱える人が増えている背景には、これまで信じられてきた「幸福へ続く物語」が、徐々に誰にでも当てはまらなくなってきたことが挙げられます。
少し前であれば、「いつかはクラウン」とか「郊外にマイホームを買って、大型犬を飼う」といった、幸せのモデルになるような明確なサクセスストーリーがあり、その物語に乗っかっていれば、誰もが幸せになれると信じられていました。
しかし、幸せとはそう単純なものではありませんでした。
アメリカの経済学者ロバート・ハリス・フランクは、「所得や社会的地位、家や車など、他人との比較優位によって成立する価値によって得られる幸福感の持続時間がとても短い」ことを明らかにしました。
つまり、かつてのサクセスストーリーの先にある「サクセス」は、私たちに永続的な幸せを与えてくれるものではなかったのです。
そうした時代背景の中で、「幸せに生きる」ためにはどうしたらいいか。
いま私が暫定的に定義している「幸せな状態」とは、「自分が紡いだ自分の物語に、自ら疑念や欺瞞を抱くことなく、心から納得し、その物語に全力でコミットできていること」ではないかと思っています。
死ぬまですがりつくことができるような「自分の物語」を生きることができたら、それはとても幸運なことです。
他人の「イケてる生きざま」が目に入る社会
しかしながら、現代社会で「自分の物語」を生きることは、かなり困難なことだと感じています。
人間が取得できる情報量は増え、知性はどんどん向上していくため、自分をだますことがどんどん難しくなっているからです。
他人の幸せそうな「物語」がSNSなどで流れてくるようになり、みんなが自分の人生の物語を疑う機会が増えました。
偶然目にしてしまった情報や、誰かのちょっとした一言をきっかけに、それまで全力でコミットできていた物語に、まったくハマれなくなってしまうこともあるでしょう。
「自分探し」がこれほど必要とされているのは、自分固有の物語を見つけることが困難を極めていることの証左だといえるかもしれません。
このような環境下で、他者の否定や自己批判に耐えうるストーリーを構築するには、どうすればいいのか。
それは、各個人が人生レベルで取り組むべき難題であり、簡単に語れるものではありません。
ただ、少なくとも「人生をレースに見立て、それに勝ち続ける物語」は、一生すがりつくには非常に脆弱であろうと思います。
なぜなら、人は永遠に競争に勝ち続けることはできず、一生のうちに必ず弱者の側に回る瞬間があるからです。
「力が強い」「頭がいい」「お金持ちである」「一流企業の社員である」「名誉がある」「容姿が美しい」……。
これらはすべて、競争の世界の中で明確に「価値がある」とされているものであり、現代社会ではこれらを望むことが良いとされ、これらをつかむことができれば多くの人から称賛されます。
しかし、これらを手にすることを自分の物語の中心に据えると、失ったときに身を寄せるものがなくなってしまいます。
競争的な価値観から適度に距離を置くことは、自分本来の物語をつくるうえでとても重要だと私は感じていますし、そうした世間の価値観(評価基準)を必ずしも満たしていなくても、「私はこう生きています」と自分の言葉で言えるようになれば、少なくとも不幸な人生ではないだろうと思います。
自分だけの「好き」に浸る
なお、冒頭に紹介した方のように、誰に対しても優しく品行方正な「良い子」であろうとする人は少なくありません。
そしてそのような人は、子どものときに、自分本来の感情を素直に表現したり、その感情を受容されたりした経験に乏しいという共通点があります。
自分よりも、自分を評価する「誰か」(多くの場合は親)の感情を優先するクセがついていて、その「誰か」の感情を先回りして感じ、その人にとってのベストな反応を得られるような感情だけを選び取り、自分が本当に感じていた感情は心の奥底に封印してしまっているのです。
誰からも褒められる「良い子」を演じれば、一時的な承認を得ることはできますが、それは自分のリアルな心根の部分を承認されているわけではないため、すぐにまた「誰かに褒められる何か」をしていないと不安になってしまいます。
このような、他人の感情を優先する生き方から抜け出すきっかけの一つになるのが、誰にも遠慮をしない、自分だけの「好き」を見つけて追求することです。
ある知人は、これまでずっと「良い子」を演じすぎ、周りから信頼されてしまったため、面倒事をすべて引き受けざるをえなくなり、行き詰まっていました。
家族の目を盗んでカウンセリングに通うほどに追い詰められていた状況を脱出するきっかけとなったのが、「スプラトゥーン」というゲームにハマったことでした。
また、なんとなく「生きたくないな」と感じながら生活していた別の知人は、あるときお気に入りのバンドを見つけ、そのライブに一人で行ったときに、なぜか涙を流すほど癒やされたそうです。
彼らが苦しみの末に見つけた「好き」は、おそらく他の誰かのためではない、自分だけに向けられた感情だったのだろうと思います。
その感情に浸れることは、ふだん誰かのための感情を優先している人にとってはとても尊く得難い経験であり、自己の存在を肯定するきっかけとなる、根源的な癒やしにつながるものです。
「嘘のない物語」が人生を支える
ところで、自分の物語を編集するにあたって、もっとも警戒すべき現象の一つが「だからわたしはダメなんだ」病(DWD病)です。
前述のように、自分の物語は、これまでの人生で起こってきた出来事と、その解釈によって紡がれていきます。
どんなに素晴らしい「出来事」があっても、その解釈がネガティブであれば価値がゼロになってしまいます。
自分の物語をだめにする悪魔は、実は「解釈」のところに潜んでいるのです。
冒頭の彼女は、こう言いました。
「頑張って、夢だった大学に入れました。そこで自分が変われるような気がして。でも、ダメでした。大学は私なんかと違って、本当に優秀な人ばかりだから、本当は全然ダメな私であることがバレないように必死で取り繕っていました」
達成した目標の難易度がどれだけ高かろうと、どこからでも「だから自分はダメなんだ」という結論に至る解釈を見つけてきてしまうのが、DWD病です。
仮に合格した大学がハーバードやスタンフォードだったとしても、DWD病にかかっているかぎり、「自分はダメだ」という結論は変わらないでしょう。
自分の物語をつくるうえで、もっとも重要なことは、自分の感情に素直になることです。
怒り、嫉妬、悲しみなど、誰かに話すことがはばかられるようなネガティブなものもありますが、感じてはいけない感情はありません。
感じたままの感情だけが、自分に起きた出来事に納得するための解釈をもたらしてくれます。
それは、きれいなものであるとは限りませんし、むしろ「狂っている」とか「いびつだ」と言われるようなものかもしれません。
でも、それを自分固有のかたちとして、自分自身が納得して受容できたとしたら、それは誰にも比べられることのない「心強い物語」になります。
なぜなら、自分の物語を紡ぐことができるのは、自分の感情だけだからです。
他人の価値基準や誰かのための感情に基づいた物語は、本当の生きる力を与えてはくれません。
僕は、明確な答えのない今の時代において、人の心を動かすのは「弱き者の物語」だと思っています。
さまざまな作品において、いま「弱き者」が支持されてきており、そこに登場するキャラクターは、どこか弱く、格好悪く、人間臭い。
その嘘のないリアリティーこそが愛おしさの源泉であり、完璧でないわれわれに「それでも生きていていいのだ」と安心を与えてくれます。
いびつさは、その人の真骨頂であり、本質的な魅力そのものです。
自分の弱さ、いびつさ、未熟でかっこ悪いところを認めて、それをも引き受けた「嘘のない物語」は、ありのままの自分を「それでもいいよ」と肯定し、永きにわたって人生を支えてくれる「しなやかな強さ」をもたらすものになると思います。
この本では、みなさんに、「他人の価値観やルール」「他人の感情」を手放し、「自分の価値観やルール」「自分の感情」を発見し取り戻すための方法をお伝えしたいと思います。
みなさんが、真に自分らしく生き、「自分の物語」を紡いでいってくださることを、僕は心から祈っています。