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「がんばる」を問い直す


こんばんは。
今日は「がんばる」という言葉について考えてみたいとおもうのです。


きっかけは、この本。



ご縁あってお友達からいただいたのだけど、とても素晴らしい内容で共感することしきりだった。


なんとなくうちのクリニックの空気感と似ているところがあるよなあ、と思って待合室の棚に置かせてもらったら、まあ手に取られることの多いこと。


実際に患者さんにおすすめしてみたり、貸し出したりもしているんだけど、漫画って疲れていても読みやすいから、ぶっちゃけ僕の本よりも紹介しやすいね(笑)


貸し出した患者さんも、「大切に読みました」なんて言ってくれて、ちょっとした治療的な使い方になっている。

読後感がとってもよかったので、あらためて、「がんばる」ことの意味や、がんばることとのつきあい方をもう一段掘り下げて考えてみたいなあとおもったのでした。


「がんばる」ことへのアンチテーゼ


「がんばることは、いいことだ」
という価値観を無条件に賛同する人はどんどん少なくなってきているように思う。

医師としても、「がんばってください」という言葉がずいぶんと使いにくくなった感じがするし、逆に「がんばらない」ことの価値について語られることが多くなってきた。
「がんばらなくても死なない」は、まさにその意義を物語ってくれているエッセイだろう。


僕も患者さんに

「がんばらないように、がんばっていきましょう」

なんて、言葉をかけることがある。ややこしいことを言っているようだけど、なんとなく意味は通じている。

「うつの人に『がんばれ』と言ってはいけません」

というのは、いまや医師国家試験で最もポピュラーな禁忌の選択肢のひとつになった。

(医師国家試験では、「患者の死や不可逆的な臓器の機能廃絶につながる選択肢」や「医師として遵守すべき法に抵触する選択肢」が禁忌肢となり、それを4つ選ぶと、他が満点でも不合格になるというシステムなのね。)


悪気のない応援の気持ちの「がんばれ」であっても、受け取った側は「人の気も知らないで」と重苦しい気持ちになってしまうことがある。
「がんばれ」と言われたときの、どことなく感じるプレッシャーのような押しつけがましさというのは、どこから来るのだろうか。


人間のミスコミュニケーションというのは同じことばをそれぞれ違った意味やニュアンスで使っているから起こるもので、こういうときはそもそもの視点に立ち返って「頑張る」ということばの意味を問い直してみる。
(ありがたいことに、こういうのを本気で研究してくれているガチ勢がいてくれるものだ。)


ちょっと調べてみると、案の定、言語学者の川岸克己さんという方が「頑張る」という言葉について、非常にユニークな論文を書かれているのを見つけた。

川岸先生によれば、辞書などで使われる「頑張る」という言葉の用法の変化などから、「頑張る」の意味合いが昔と変わってきているんだそうだ。

『日本国語大辞典』において、「頑張る」は「困難に屈せず,努力しつづける。忍耐してやりとおす。」と説明されており、これが従来の「がんばる」の意味あいに近い。
一方、『新明解国語辞典』においては,新しい記述が見て取れる。同辞典は「がんばる」の意味を3つに分ける。

① 外圧や困難に屈することなく,最後までやり信念を貫き通す。
② 持てる力をフルに出して,努力する。
③ ある場所を占拠して,絶対動かないという姿勢を見せる。

①はこれまでの辞書と同様の意味であるが,②の「持てる力をフルに出して」という記述は,他の記述とは明らかに異なる。

さきの辞書は,「困難」や「忍耐」という,いわば「辛抱」することによって,目的を達成しようというのが「がんばる」の意味であると規定しているものと思われるが,『新明解』のそれは「辛抱」という消極的な意味合いはなく,もっと積極的な,いわば「挑戦」とも言うべき意味合いを感じさせる。これは「がんばる」の意味を記述するうえで重要である。


要は、「がんばる」においては、「忍耐・辛抱」といった不快でネガティブなニュアンスを含むことが通例であったが、最近では辛抱のニュアンスを含まない、ポジティブな「挑戦」的な意味合いでの用法も増えてきたという。

この2つの意味の混同があるから、頑張るという言葉にネガティブな意味合いを感じる人とそうでない人がいる。
がんばるというよりは、語に含まれるこの「辛抱」のニュアンスを忌避する人が多いのだろう。辛抱してもそれに見合ったリターンを得られないケースがわりとあるからね。


で、前者の旧来的な意味での「がんばる」の位置付けを <活発/不活発> と <快/不快> の2軸を立てて構造化した図を紹介してくれている。

「がんばる」とは、「心情的には不快ながらも,活発な行動を起こす」という意味の語であるという位置付け。

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つまり、「がんばる」ことは <活発/不活発> でいうと <活発> ではあるけれど、<快/不快>だと不快なのでつらい。それよりも、もっとも理想的な状態は「がんばれる」(チクセントミハイによる「フロー状態」)であるとしていた。

それと、やっぱり自分の中の快・不快を無視して健康でいられないよね、という昨今の視点から、「不快で活発」な「がんばる」状態よりは、「快で不活発」な「がんばらない」状態のほうがよくない?という考え方が出てくる。


さらに、歴史人類学者の天沼香先生はこう言っている。

我われ日本人は,これまでのようにともすれば主体性を欠落させ,ただただ「頑張っ」てきた,あるいは「頑張ら」されてきたような方向性を改め,よりよいかたちで「頑張り」を発揮したり,がむしゃらに「頑張る」のではなく,時には「がんばらない」ことを志向するようになるのかもしれない。


天沼先生も、「頑張ること」のネガティブな側面と、主体性の欠如の関連を指摘している。それよりも、自分の快・不快の感覚に従った「がんばらない」のほうがむしろよくない?という主張。


「快・不快」という本来の自分の感覚に従って行動する、ということが「主体的」である、というのは、まさにぼくの好きな表現である「自分のニーズを満たす」というのと同じで、我が意を得たり〜という感じだ。


がんばることと主体性の関連を鑑みつつ、もう一回、「がんばる」の新旧のニュアンスの違いに戻ってみると

 「がんばる」は,2つの意味要素を持つということがわかった。ひとつは,従来からある典型的な「がんばる」で,もうひとつは,新しい「がんばる」である。前者は,困難に耐え忍んで,何事かを遂行すべく努力を続けることでり,後者は,取り組むべき課題に対して,心躍らせながら,何事かを遂行しようと努力することであった。

 「がんばる」の2つの意味要素 
・「辛抱」...自分が望まない方向への流れに抗い,自分が望む方向への流れを掴もうとする「変化への希求」
 ・「挑戦」...自分が望む方向への流れを掴もうとする「変化への希求」

この両者に共通するのは,「現状を打開する変化を希求する」ことである。「がんばる」に内包された本質的な意味要素は,まず現状に満足しないこと,そしてそのうえで,変化への希求を持っていること,である。これが「がんばる」のもつ意味の本質である。

がんばる:現状を打開する変化を希求する。

結論として,「がんばる」というのは,何らかの「変化への希求」であるといえるだろう。


そうだよね!!、とここで大きく膝を打った。


「がんばる」ことの本質的な意味は、「将来の自分にとって好ましい変化を望むために行動すること」なのだ。そこに、辛抱や苦痛に耐えることは必須ではない。


しんどくてもなかなか休めない人に、「休むことをがんばりましょう」というのは、休んでも自分を責める気持ちが湧いてこない自分になったほうが、将来的にその人にとって好ましい変化だろう、という見込みによる。


動けないほど疲弊した自分にさらに鞭を打ってがんばらせようとのは「辛抱」であるが、それは本質的な意味での「頑張る」とは異なる。
不安や罪悪感にとらわれて自分に鞭を打たないざるをえない生き方をやめるということが、その人にとって望ましい変化なのであり、その変化を推進できるようなアクションをとること(例えば、休むこと、遊ぶこと)が、「頑張る」に該当する行為といえる。
まさしく「がんばらなくても死なない」自分になれることが、「頑張る」ことにつながる。



生き方を変えるというのはとても困難なことなので、旧来のやりかたを変えずに「辛抱し続ける」やり方を続けていた方が、体力的にはきつくても精神的にはむしろラクなのかもしれない。
「やり方を変える」というのは、とにかくめんどくさい。
それに、「うまくいかなかったらどうしよう」という不安がつきまとうから、できればやりたくないよね。


そして、さらにややこしいのは、「生き方を変える」と決めたら、その過程において、「がんばる」のベクトルはこれまでと逆になる。
これまで「がんばって」辛抱し続けていたものを、今度は「辛抱しない」ようにすることが頑張ることになる。


こうした「フォーム改造」の時期は、まるっきり対極にある価値観に綱引きのように引っ張られることになるので、とくにしんどい。
「前のやり方」のほうが慣れているので、どうしても引き戻されてしまう。


だからこそ、「自分は本当に、どちらの方向に変化していきたいのか」ということを自分の意思で決めて、それを確認しながらすすめていくことが大事になるんだね。


今日もね、「いまここでがんばらないことは、逃げにつながると思うんです」と、心身がボロボロになりながら言っていた人がいたんだよ。

そのひとに、僕はこう問いかけた。


「あなたのその『がんばり』は、あなたにとって本当に必要で、本当に望ましい変化をもたらすものですか?」


あなたにとって本当に必要なのは、「自分の身体の言うことをきく」ことだったり、「うまく休むこと」だったり、「人の期待に応えないすぎないこと」だったり、「働きかたを考える」ことだったり、「自愛」ができるようになったりしませんかね。


そういう技術や思考を新しく身につけて、インストールしていくことが、この先のあなたにとって「望ましい変化」じゃないのかな。


「いまここで辛抱し続けることが、自分の望ましい変化につながらない」と感じるなら、その環境から離れたり、休もうとしていることは、逃げではなく、むしろ「攻め」だとおもう。


僕が「がんばらなくても死なない」でいちばんおもしろいなとおもったのは、「英語には『がんばれ』に該当する言葉がない」というエピソードだった。


日本のように「がんばる」ことが日常化していないから、気軽に使える用法がないのだそうだ。



竹内さんは「がんばって」という気持ちで使うのは "Good Luck" がいいのではないかと提案していた。"Luck"の要素が入っているのは素敵だよね。


僕だったらなんと言うかな〜と、言いそうな場面を考えてみたときに、”Take Care”(お大事に) とか "Please take good care of yourself"(ご自愛ください)あたりを使いたいと思った。


職業柄よく言うというのもあるけど、「ご自愛」はもっとカジュアルになってほしいなとおもうし、実際自分を大事にしたりするのはけっこう難しいから、うまく身に付けられるよう「がんばって」ほしいよね。


というわけで、今日はこの辺で。

Take Care〜





<おしらせ>


このノートは竹内さんの作品への返歌のような感じで書いていたんですが、書いてる間に光栄にも竹内さんからお声がけいただいて、なんかいろいろと企画を一緒にさせていただけることになりました。


まずはうちの診療所の2周年のイベントでライトなトークセッションに遊びに来てくれることに。たのしみ〜


あと、このようなプリティーなイラストつきエッセイをtwitterにあげてくれています。不定期でやっていきます〜


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Dr. ゆうすけ
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