「自己責任」と「みんなで支え合う」って対立するものなの?

noteから「閲覧履歴からのおすすめ記事」なるメールが時々届きます。普段はメール自体を開かないのですが、ちょっと長旅で電車移動のあいだ暇だったので、暇つぶしに開いてみました。そしたら、こんな記事が。

この人の言ってることを否定するわけじゃないですが、そもそも「自己責任論」の定義が違うくないですか?自己責任って一人で歯を食いしばって耐えるってことなの?

YouTubeを見ていると時々、落合陽一さんが「自己責任おじさんが増えている」と否定的なニュアンスで語る討論番組の広告が流れてきます。

他にも、多くの有識者や著名人が、自己責任という単語に対して否定的なコメントを発信しています。

私は、彼らの「自己責任論」批判に、強い違和感を覚えます。

私は自分のことを自己責任論者だと思ってますが、自分の考える自己責任論と、否定的な人たちの自己責任論にはズレがあるように思います。

自己責任」を否定したい人の心理の根底にあるのは、おそらく2003年のイラクへの自衛隊派遣に対する否定的な感情です。

2004年、ジャーナリストなど日本人3名が、イラク国内の武装勢力に拘束されてしまいました。彼らは最終的には解放されたのですが、世論は彼らに対して「政府の警告を無視して渡航した結果捕まったのだから自己責任だ」という批判的な論調でした。

2014年に「イスラム国」に拘束され翌年に殺害された後藤健二さんは、事前にYouTubeに「何が起こっても責任は私自身にあります」というビデオ動画を残しています。

また、2013年には、辛坊治郎さんがヨットで遭難し自衛隊に救出されるという事故がありました。辛坊さんはイラクで人質になった人たちに批判的な立場だったため、その「言動不一致」を、主に左派の人達から非難されました。

このように、主に左派の人達からは「自己責任=助けない、見捨てる」というイメージ・文脈で語られているようです。

でも、それって自己責任って言葉の定義と違うと思いますよ。

私の考える自己責任とは

(助けを)期待はするがアテにはしない

というものだと思います。だってそうでしょ。イラクの人質にしても、後藤健二さんにしても、辛坊治郎さんにしても、救出の努力はするが、100%救出することを保証するものでも約束するものでもないでしょ。だとしたら、最終的には自分の責任で決断するしかないわけですよ。

例えば、宝くじを買う(という行動をする)のは自己責任ですよね。的中する保証なんて、当たり前ですが全くないわけです。しかし、的中することを期待する権利は当然あります。

ヨットで遭難するのも同じです。助けてほしいと願う権利は当然ありますが、必ず助けてもらえるという保証はないのです。

宝くじが的中するのは当たり前ではないからこそ、宝くじが的中すると嬉しいし、助けてもらえることが当たり前ではないからこそ、助けてもらったときに感謝の気持ちが湧いてくるのです。

「助け合い」は善意に基づいていなければなりません。

もしも、助け合いが善意ではなく義務だったら、こんな息苦しい社会はないですよ。

例えば、自分がお年寄りだとして、電車の座席を譲ってもらったときに、それが善意で行われることを期待していれば、その期待が叶ったときには、席を譲ってくれた方に対して感謝の気持ちが湧くはずです。しかし、座席を譲られるのが当然だ、座席を譲るのは若者の義務だと思ってる年寄りは、座席を譲られても感謝しないでしょうし、座席を譲られなかったら激高するでしょう。

自己責任社会と、助け合う社会は、矛盾するものではないし、対立するものでもありません。

自己責任社会だから、リスクを冒して冒険に出る自由があるし、自己責任社会だから、誰かを助ける自由もあるのです。世の中が、自由と善意に溢れている社会を理想とすることが、なんで批判されなきゃならないのでしょうかね。

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