あいちトリエンナーレとベルリンの慰安婦像と日本学術会議
みなさん既にご存じかと思いますが、ベルリンの公共スペースに設置された「平和の少女像」が速攻で撤去されることになりました。
私は、このベルリンに設置した経緯が、あいちトリエンナーレに非常に似ているな、と感じました。
・「芸術」を隠れ蓑にしている。
・事前に設置を公表しない。または事前の説明と設置内容が異なる。
要は「これは芸術作品です。戦時下における性暴力の悲劇を訴える作品であり、政治的意図や、特定の国や勢力を批判する意図はありません」と説明して、慰安婦問題に詳しくない相手を丸め込み、しかも日本サイドに知られないようにコソコソと設置する。設置さえしてしまえばもうけもの。日本が抗議してきたら「日本は反省してない」と問題をすり替えて居直る。
ですが、もはやこの手法も通用しなくなりつつあります。フィリピンでも慰安婦像が相次いで撤去されましたし、今年は正義連や尹美香議員、さらには自称・元慰安婦の李容洙さんにまで様々な疑惑が噴出して、韓国側の主張は説得力を失いつつあります。また、2015年の慰安婦合意も地味に効いているのではないでしょうか。
ところで、あいちトリエンナーレに対する抗議の声や補助金の不支給を「表現の自由に対する弾圧」と言ってた抗議していた人たちは、ドイツ政府に対しても同じように抗議しないのでしょうかね?
これでもうわかったでしょう。これは表現の自由とは関係ない問題です。公共スペースを特定の政治的意図を持ったグループが私物化してはいけませんよ、という問題なのです。ベルリンの問題も、あいちトリエンナーレの問題も、まったく同じです。
左派の人たちは、安倍政権に対しては「政治の私物化」などともっともらしい理屈をつけて批判していましたが、何のことはない、政治を私物化しようとしているのは左派の活動家の人たちのほうなのです。あいちトリエンナーレなんて津田大介氏個人によるイベントの私物化以外のなにものでもありませんでしたし、今問題になっている日本学術会議の問題だって、「学問の独立」の美名の下に政治権力の及ばない聖域を作って国民の血税をしゃぶりつくしているだけでした。
あいちトリエンナーレと日本学術会議の構造も実はよく似ています。「芸術」と「学問」の違いはあれど、要は「政治は介入しないでください」と言って自身の聖域化を図りながら、自分たちは好き勝手に政治的主張をしまくる、というものです。
もっと言うと、この手法は「マイノリティー」「弱者」「被害者」を聖域化して批判を封じ込め、一方的に相手を攻撃する手法ともよく似ています。
なぜ、彼らは正々堂々と戦わないのでしょう。なぜ、いつも卑怯な手段ばかり使うのでしょう。