表現の不自由展実行委員会の中心人物「エロ・グロに表現の自由なんて認めない」
表現の不自由展は、元々、通説的な表現の自由を否定する趣旨(例えば会田誠とかは表現の自由に値しないという政治的立場の表明でもあり得る表現)なわけで、その内容に賛成するかどうかと、それを通説的な表現の自由の枠組でどう保障するかという、入れ箱的な試みにもなっているとこに意味があるのでは?
— 荻野幸太郎 / OGINO, Kotaro (@ogi_fuji_npo) July 13, 2021
あいちトリエンナーレの「二重」のキュレーションは、通説的な表現の自由に異議を唱える不自由展独自の観点のキュレーションと、美術館・美術展の自主規制問題を網羅的にやりたい津田さんのキュレーションとの、二重螺旋的な緊張関係があって、そこにもまた意義があったように思うんですよね。
— 荻野幸太郎 / OGINO, Kotaro (@ogi_fuji_npo) July 13, 2021
だから、反ヘイト活動で有名な法曹の先生が、その不自由な状態を打破するためには、歴史認識における正義や、目指すべきイデオロギーの正義こそを一義的には戦わすべきで、そこに表現の自由の保障なんて持ち出す意義はあまりないと論評されてましたけど、ロジックとしてはそれが正解なんですよねぇ。
— 荻野幸太郎 / OGINO, Kotaro (@ogi_fuji_npo) July 13, 2021
※反ヘイト活動で有名な法曹の先生=神原元弁護士を差すと推測。
逆に、その入れ箱の外側から、私たちの今の社会の秩序に意義を見出すのであれば、あれを表現の自由として保障して擁護してしまうしかないんですよ。本当であればね。
— 荻野幸太郎 / OGINO, Kotaro (@ogi_fuji_npo) July 13, 2021
『例えば会田誠とかは表現の自由に値しない』というのはどこから出てきた話なのだろう。
— たんそねこ (@tansoneko) July 13, 2021
会田誠作品がゾーニングされた件は知ってるし実際見たけど(成人なら簡単に見れた)、作品を取り下げられたというのは聞いたことがない。 https://t.co/drwb9Da0QJ
津田大介が、表現の不自由展に会田誠の作品を展示してはどうかと提案して、表現の不自由展実行委員会が拒否した事実はありますね(展示スペースなどを理由としていたとは思いますが) https://t.co/rKnJv3GQ72
— 在華坊 (@zaikabou) July 13, 2021
RT 会田誠を拒否する政治的理由を対外的に説明したら、参加作家から異議が出たかもしれないし、全体的に支持を減らす可能性は高いから、しなかったということなんですかね。このあたりの不透明さが、美術方面から冷ややかに見られている要因な気がする。
— 大野左紀子 (@anatatachi_ohno) July 13, 2021
‥‥というわけで、「森美術館のときに抗議した当事者側」だったという情報は自分がうっかり見落としていた。あの時抗議した側に対して美術業界は概ね批判的だった(それはまあ当然だと思う)。今回は政治的には批判もしつつ、開催する立場は擁護しなければならないという元ツイの話に戻った。
— 大野左紀子 (@anatatachi_ohno) July 14, 2021
美術関係者で、キュレーションや作品水準の話ではなく、彼らの表現に対する姿勢を根本的な位相で批判するような論を張っている人はいるのかな。「政治問題になってるからダメ」という意見はよく見たけど、そうではなくて「表現」そのものに対する意識を問う意見。
— 大野左紀子 (@anatatachi_ohno) July 14, 2021
あいトリ不自由展への批判者と森美術館の時の批判者は似ていると、前に書いておったわ。まさに自分たちが過去してきた批判を、全然別の角度でされていると言ってもいい。https://t.co/oqqUw6neOs
— 大野左紀子 (@anatatachi_ohno) July 14, 2021
会田家外すことに僕は納得が行かなかったのですが、不自由展実行委の中心人物が「会田誠入れるなら降りる」と言ってきたのでやむなく飲みました。ただ「このことは対外的に説明が付かない。会期始まったら不自由展のトークプログラムでこのことは公開するがいいか?」と聞いてその了承はもらいました。 https://t.co/ZgF6gtz0ui
— 津田大介 (@tsuda) July 13, 2021
権力者の暴力性や社会的な構造を批判することの表現の不自由と、
— 仁藤夢乃 Yumeno Nito (@colabo_yumeno) July 14, 2021
少女や女性などのマイノリティに対する差別や暴力を強化し助長し、承認するような暴力的な、弱者の尊厳を踏みにじる作品を展示すべきでない、
ということを同列に語るのはおかしいでしょ。 https://t.co/sC5zFbZ8BR
仁藤夢乃みたいな低偏差値の馬鹿がしゃしゃり出ると途端に議論の質が下がる。nowhereman134とかもそうだが、こいつらの考える「権力」って常に一方通行でトップダウンなわけですが、そのような権力が存在するのは一部の独裁国家だけであり、日本を含め全ての民主主義国はトップダウンだけではなくボトムアップの力も強く働いている、というかむしろボトムアップの力のほうがおそらく強い。
権力者の暴力性というが、そもそも人間は誰しもが多かれ少なかれ暴力性を秘めているものであり、権力者に限定する理由がない。フェミニストだって暴力性を秘めているし、「しばき隊」なんて暴力性を露骨に露わにしているではないか。結局、人間から暴力を完全に切り離すことなんてできないのだから、暴力を否定するイデオロギーは実践的ではない。暴力は否定ではなく適切に管理するしかないのだ。
そもそもを言えば「権力者」も「社会的な構造」も人間の認識の中にしか存在しない。例えば、反アベ的な人たちは自民党を権力者だと認識しているが、選挙を棄権するような人たちは、自民党を自身の生活とは切り離された存在だと認識していると思う。皮相的には自民党=権力者と刷り込まれてるから「自民党は権力者か?」と聞かれればハイと答えるだろうが、自民党の権力を肌で実感するような経験はおそらく何も持ってないだろう。実は私もそうだ。庶民にとって身近な権力と言えば警察であり、あるいは会社の上司や先輩であり、学生ならば学校の教師だろう。もっと言うと、人が生まれて最初に出会う権力者は自身の肉親だ。いずれにしても「権力者」は人の認識の中だけにしか存在しないのだから、いくら反アベ的な人たちが「権力批判」をしても、その認識を共有していない人たちからの共感を得ることは絶対にないのだ。
そして、「権力者」と「社会的な構造」を、おそらく無自覚に並列しているのが興味深い。「社会的な構造」というのは、基本的には権力者が作るものではない。中には権力者自らが社会的な構造に手を加えようとすることもあるが、権力者が意図しない結果を招くことは往々にしてある。例えば最低賃金を強引に引き上げたら失業者が増えたとか、暴力団への取り締まりを強化したら半グレ集団が生まれたとか、そういった事例は枚挙に暇がない。それでも、これらの事例はまだ因果関係が分かりやすい。実際にはもっと因果関係が複雑な問題はいくらでもある。例えば現在の少子化の原因は多岐にわたり、何か1つの原因があるわけではない。ただ1つ言えることは、その原因を作った人たちが、少子化を望んでそうしたわけではないということだ。
個々のケースに於いては最適解であっても、それを全体に適用すると期待とは異なる結果を生み出してしまうことを合成の誤謬と言うが、仁藤のような偏狭な社会活動家に総じて言えることは部分最適だけしか見てないということだ。つまり、仁藤の言葉を借りると「少女や女性などのマイノリティに対する差別や暴力を強化し助長し、承認するような」ものを徹底的に排除し弾圧することを全体に対して行った場合、必ず別のところに弊害が現れるだけではなく、肝心の「差別をなくす」という当初の目的にすら反する結果しか得られない、という結果に陥りやすいのだ。
結局のところ、彼らは「権力と戦う」などとうそぶきながら、実際には会田誠氏や、宇崎ちゃんの作者のような、権力とは何の関係もない普通の市民を標的にしている。それは「不倫は許せない」という単細胞ロジックでベッキーや矢口真里を糾弾した鬼女どもと何が違うのか。スマイリーキクチをコンクリ事件の犯人だと盲信して誹謗中傷を繰り返したクズどもと何が違うのか。「性の悦びおじさん」を殺した人たちと何が違うのか。
反ヘイト活動で有名な法曹の先生は「正義が暴走して何が悪い」と主張して憚らないが(何が悪い?頭が悪いに決まってるだろ)、正義というやつもまた人間の認識の中にしか存在しないため、往々にして認識を共有できないことがある。つまり「正義を共有できない」ということだ。例えば「悪魔の詩」を翻訳した五十嵐一教授を殺害したヒットマンは、捕まってないので実際はどう思ってたのかは類推するしかないが、おそらく「正しいことをした」という認識を持っていた可能性が高いと思う。ウサマ・ビン・ラディンを殺害した特殊部隊の隊員たちだって同じだろう。誤解しないでいただきたいのは五十嵐教授を殺したヒットマンとビン・ラディンを殺した特殊部隊が同じだと言っているのではない。ビン・ラディンは何の罪もない市民を3000人も殺したテロの首謀者であり、五十嵐教授は単なる翻訳者であり物理的には誰一人として殺しても傷つけてもいない。しかし、それは我々の考える正義であって、アルカイダにはアルカイダの、我々には到底受け入れがたい別の正義がある、ということは、別に声高に主張しなくてもいいけど頭の片隅には置いておくべきだと思う。
結局、神原元や仁藤夢乃や、まあ要するに左界の症人たちが嫌われるのは、自分たちの正義を絶対的なものだと盲信し、他者と認識を共有しようとする努力もせずに一方的にワケのわからん正義っぽいものを押し付けてくるからであって、なぜ彼らがそうなるかというと、物事を多層的に考えることができない、要は頭が悪い、1bit思考、ってことですね。
作品の読み方を解説はしたが、「芸術だからいいんじゃない」などという単純なことは言っていない。あれが「雑駁な考察」だと言うなら、「会田誠の作品は単に「児童ポルノ+サディズム+自身の差別感情の満足」でしかない」ことを、あれ以上の客観性と密度で論評したらどうか。 https://t.co/nr83LDTBGL
— 大野左紀子 (@anatatachi_ohno) July 15, 2021
「表現の不自由」展が「質が低い」あるいは「稚拙」だったとするならば、それは出展作品そのもの質の低さに由来するものでは決してなく(平和の少女像は実際にみると造形的に質は高い)、一つの展覧会として表現の自由をテーマとして掲げながら、反アベ的な党派性に自閉・短絡していた点に尽きるのでは
— 山川冬樹 (@yamakawafuyuki) July 14, 2021
少し補足。「不自由展」実行委は「政治活動家」であることを優先し「芸術家」であることを徹底しなかった、というより、彼らは端的に「性」の問題を回避したのだと思う。「性」について「性暴力の糾弾」以外のチャンネルがないのだ。芸術家でも同じ観点で会田作品を忌避、批判する人はいるだろう。
— 大野左紀子 (@anatatachi_ohno) July 15, 2021