優生思想は絶対悪なのか?
RADWINPSのリーダーでボーカルの野田洋次郎氏のツイートが波紋を呼んでいる。
まあ、案の定、袋叩きである。
私もこういう考え方には同意しない。少し大げさに言えば、おぞましいとさえ思う。
だが、ナチス云々って言うのは違うんじゃないの?
そもそも、優生思想とは、19~20世紀は「優生学」と呼ばれ、れっきとした学問であった。物凄く簡単に言うと、「優れた遺伝子を後世に残し、人間(ホモ・サピエンス)の質を向上させよう」という考え方です。
なんか、これだけ聞くと、当たり前のことのように思える。
人は誰だって優れた遺伝子を求めている。
男性は容姿の優れた女性の遺伝子を求めているし、女性は腕力や知力に優れた男性の遺伝子を求めている。ああ、これはあくまで「傾向」の話です。ジェンダーがなんちゃら的な話は今は割愛します。
そう、誰だって多かれ少なかれ「優生思想」的な考えは潜在的に持っているのだ。優勢思想を100%否定できる人なんて、たぶんきっといないと私は思ってる。
ではなぜ、優生思想はここまで危険視され否定されるのか。
優れた遺伝子を後世に残そうという運動は、劣った遺伝子を排斥し、あるいは断種しよう、という思想に結び付きやすい。もちろん、これもあくまで「傾向」にすぎない。
そもそも、何が優れていて何が劣っているかというのは、多分に人の主観や運命にも左右されやすい。藤井聡太さんがもしも将棋のない世界に生まれていたら、もしかしたら「何を考えているかさっぱり分からない変人」だったかもしれないのだ。インドの天才数学者ラマヌジャンは、理解ある上司に出会わなかったら、ただの狂人として後世に名を知られることもなくひっそりと生涯を終えてたかもしれないのだ。
とはいえ、裏を返せば、優れた才能を持ちながら開花させることなくひっそりと生涯を終える人は、多分きっと我々が考えているより多いだろう。それは、誰のせいでもない、ある意味やむを得ないことだとは思う。
だが、その逆ベクトルである「何の才能もない劣った遺伝子」というレッテルを貼られ、排斥されたり断種されたりする側は、たまったものじゃない。
優生思想と言うとよく引き合いに出されるナチスだが、ドイツ民族を優秀な民族と定義づけたのは、まあ良いとしよう。むろん、ドイツ民族が他民族と比較して特別に優秀だというエビデンスは何もなく、科学的な主張とは言えず、単にドイツ国民を励ます程度の意味合いしかないとは思うが。
ドイツ民族が優秀だという主張を一応仮に受け入れたとしても、他民族を迫害したり断種したりジェノサイドしたりして良い理由にはならない。しかし、ナチスはユダヤ人の断種を目的としたジェノサイドを行った。これが、優生学、優生思想が強く否定される原因の1つである。
とはいえ、第二次大戦が終わってすぐに優生学、優生思想が批判されたのかというとそうではなく、日本で優生保護法が成立したのは、1948年。なんと戦後である。しかも、法案を提出したのは、今や優生思想批判の先頭に立っているリベラル勢力の源流である日本社会党の議員たちであった。背景には、戦後の混乱期に多発した強姦による望まない妊娠や、経済的理由などによって子供を産んでも育てられない女性を守るために、堕胎を合法化しようという動きがあったそうだ。
ちなみに、現在でも堕胎罪なる条項が刑法212条に存在している。しかし、この条項は、戦後に作られた母体保護法によって事実上無効化され、空文化している。
その後、色々あって1996年に優生保護法は廃止され、2018年には社民党(社会民主党)が同法案を70年前に推進したことを国民に謝罪した。なぜ法案廃止から22年も経ってるのに70年前のことを謝罪したのか?と疑問に思う人がいるだろうが、その2年前の2016年、植松聖事件(津久井やまゆり園事件、相模原障害者施設殺傷事件)が発生していて、優生思想に対する批判が過熱し、その矛先が社民党の前進である日本社会党にまで及んだことが影響したと思われる。
このように、優生思想はナチスのホロコーストや植松聖を産んだ思想ということで悪者扱いされているわけだ。もちろん、殺さなければ良いというものではなく、例えば現在、中国共産党の習近平政権が推進しているウイグル人への断種を目的とした強制不妊手術は、明らかに人道に反する罪にあたり、決して許されることではない。また日本でも、戦後長らく優生保護法に基づいて、身体障害者やハンセン病患者などに対して強制堕胎などが行われてきた事実もある。
このように、優生思想は差別と地続きの思想なので、非難され、糾弾されるのは当然だと思うかもしれない。しかし、話はそんなに簡単ではない。
現実問題として、生まれてくる子供が健常である場合と障害を抱えている場合では、同じ育児でも、両親の金銭的負担、労働負担、精神負担はいずれも比較にならない。故に、出産前の検査で障害を抱えていると分かってしまえば、堕胎したいと考える親が現れるのも無理からぬ話だ。
エコー検査も母体保護法もなかった時代、もしも障害児が産まれてきた場合、お産婆さんがその場で赤子の首を絞めて「間引いていた」という話もある。めちゃくちゃ大昔というわけでもなく実は昭和初期までそんなことが普通にあったらしい。もちろん当時でも違法ではあったが。
こういう議論をしていると「命ってなんだろう?」とか「動物の品種改良はOKなのにどうして人間の品種改良はダメなのか?」とか、頭の痛くなる議論に進みがちになる。それも、頭の良い人間ほどこういう罠に陥りやすい。良くも悪くも、馬鹿はこんなことで悩んだり考え込んだりしないから、植松みたいな犯罪は犯さないのだ。
ただし、だからといって、優生思想を「差別だ!」「ナチスの思想だ!」などとレッテル貼って全否定を続けていれば良いのかというと、それもまた馬鹿すぎて害悪でしかないと思う。
毒は薬にもなる。優性思想という毒も、上手に使えば薬となるのかもしれない。それでなくても、差別も優生思想も、そもそもは人間が好むと好まざるとにかかわらず潜在的に、本能的に内在しているものである。withコロナじゃないけど、with優生思想という考え方が必要になると思う。
話は戻るが、優生保護法の件で社民党が批判されたのも、社民党ら自称リベラル勢力が植松事件を出汁に先陣切って優生思想批判を繰り返していたからだ。アレも優生思想、コレも優生思想などと因縁を付けて、のべつまくなしに批判しまくってたら「そういうオマエはどうなんや?」としっぺ返しを食らうのは当たり前である。
優生思想問題に限らず、差別問題というのは、追及しすぎると必ず「そういうオマエはどうなんや?」という壁にぶち当たる。なぜなら差別は人が本能的に、潜在的に内在しているものだから。差別を絶滅させたければ人間を絶滅させるしかない。そうではなく差別の毒性を限りなくゼロに近づくまで毒性を弱めていこうという考え方が大事だと思っている。 #個人の見解です
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