なぜ、あなたに息をしていてほしいのか
”気づくと息をしていた”
生きることの最小単位は、息をすることだ。
小さなころ、自分が息をしていることを一度意識しだすとずっと気になってしまう時期があった。
一回気にしだすと、不思議なことに、
しばらく吸って吐いてを自分で意識しながらコントロールしなければならない。
(試しに一回、吸って、吐いてを意識してやってみてほしい。
しばらく気になっちゃって呼吸に集中しちゃうから。
…と思って父にやってみてもらったら、全然通用しなくて、これは万人が共有する感覚ではないことを知った。十数年越しの驚愕。)
息を吸って、吐く。息をしていることをやめるわけにはいかない、だけど息をすることに集中しすぎると何もできない。
だから、僕は息をしていることをうまいこと忘れるために、
無為に掃除をしたり楽器を弾いたり、将来のために勉強したりなどした。
生きるということもこれに似ているように思う。
息をすることを意識しすぎると他のことができなくなるように、
生きることに向き合いすぎると他のことに手がつかなくなる。
「あなたはどう生きますか」
――そんなことばかり聞かれると、逆に何もできなくなる。
だから生きていることをうまく忘れる。
目の前の仕事に取り組んだり、家事をこなしたり、将来のための努力をしたりしていれば、いつのまにか生きていることは忘れられる。
だけど、そうしているとたまに、
そう、今度はたまに息切れしている自分に今度は気付く。
自分は生き物なのだと体が思い出したくなるみたいだ。
時には思いきり深呼吸したい日も訪れる。
せーのと息を同時に吸って、声をそろえた日を思い出す。
家族の寝息に安心して、再び眠りに落ちる日もある。
この人が息をしている。そのことに、たまらなく安心する。
息をしていることをこの人が忘れているその間に、
僕はこの人が息をしていることに気づいて安心して、
そしてまた僕が息をしていることを忘れた間に、
別の人が僕の呼吸に安心している…かもしれない。
誰かが生きているだけで、別の誰かに力がみなぎる。
僕らはみな、息をしている。