便利さ vs 気持ちよさ その1 - vol.2/4 サステナブルは良さげなのに難しいのはなんで?
シリーズ通して一番伝えたいこと
「過剰に便利さを追求するエコノミー(経済)も、
余剰を許さず不便さを強制するエコロジー(環境配慮)も、
どっちかだけだと疲れるから、うまいこと融合させて中庸を見つけましょうよ。
ってこと。
どんな人に読んでもらいたい、とイメージして書いたか
なんで難しいんでしょう?
さて、その1「サステナブルは良さげなのに難しいのはなんで?」からの続きです。
私個人の今のところの仮説としては、
現在(いま)の経済を回している人の欲望は「もっと便利に」という感情と効率性を満たすことが重要視されているために、
便利というギアに、サステナブルというギアが、いまいち噛み合ってくれていないから。
サステナブルであろうとすると、便利さを疎外しちゃうことが原因なんじゃないかと。
例えば
「EV車ねぇー、でも遠出してガス欠ならぬ電欠なったら困るしー。」
という場面。
資源貪り尽くしている自覚がない(もしくは見ないようにしている)まま、子どもが温暖化とか台風で困ることはとりあえず考えないでおき、家で子どもには「自然は大事に」と教える大人、の図。
やっぱ、ガススタが配備されている方が、エコなEV車より、安心しちゃうのが消費者様のご心情ってもんです。
もひとつ例えば。
「とにかくマスク!感染者減っても外に出たらエチケットでマスク!コロナといったらマスク!」
という、もはや新しい日常と化した光景。
そしたらたった2〜3月間、世界中の人がマスクし始めただけで、世界中の海にごみとしてマスクが浮かび出す、人類の叡智が結集されているはずのごみ廃棄の管理能力
マスクもレジ袋もトレイもペットボトルも、使い捨ての方が安心という考えの片隅で「洗う手間は省きたいし」とついよぎるのが生活者ってもんです。
うーん。
サステナブルな方向にシフトするって、そうカンタンではなさそう。
それってなんで?
魅力が足りない
一度享受した「便利さ」を捨てるほど、エコによる「気持ちよさ」だけでは、その依存性を克服するには魅力がまだ足りていないってこと。
私、環境保護なんてもんを仕事にしちゃったもんだから、エコを推進する側の論理に囲まれて割と生きているんですけど。
いーっつも思うんです。
便利って、捨てなきゃエコにならないのかなー。
エコって、ガマンしないとできないのかなー。
まなかなー。
(便利を)ガマンして気持ちよさ得て、それって人間なんていう生きものに合っている方法なのかなー。
それって早速、持続可能じゃないんじゃないのかなー。
便利で且つエコで気持ちいいモノ・コトじゃダメなのかなー。
、、ダメじゃないかも。むしろそれでいいのかも。
持ってしまった便利さをかなぐり捨てろという手法は、人間にはむいていない。
私個人は、一人で勝手にそう思うことにしています。
使い捨てだと便利だ、という事実は、
そんなやり方は持続可能じゃない、という事実を知ったところで、
大体の人はそこから一気に生活様式が覆ったりはしません。
持続可能性は、サステナブルにシフトするには、
とにかく持続しなきゃ意味がない。なるべく手軽に。
入り口で早速無理してたら、本末転倒のはず。
次回、
便利さ vs 気持ちよさ その1 - vol.3/4
いいとこ取りすりゃーいーじゃん(鼻ホジホジ)