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愛の形

 東京に住む荒井夫妻が、今のマンションに引っ越してきたのは、八年前の秋の終わりのことだった。あのとき、部屋を探すのは本当に大変だった。前年、仲間内の定例会で知り合い、半年の交際を経て夫婦となった行雄、知子は、そもそもの計画ではまさにその結婚のタイミングで、新しい部屋に移るつもりだった。だが二人の求める条件に合う部屋はどこも空いていなかった。結婚前には結局いい部屋は見つからず、結婚後ももちろん探したが、ひたすら首を振られ続けた。そして状況は変わらないまま、結婚してからひと月が過ぎ、ふた月が過ぎ……半年以上が過ぎた。そんなある日だった。行雄のスマホが鳴ったのは。出てみると、相手は以前訪れた不動産屋だった。「この間の代々木のマンションあったじゃないですか」彼は言った。「あそこで部屋がひとつ空いたそうなんですよ。まあ色々あったみたいで。お二人がよければ、来月には入れるかなと思いますけど……」
 入居日のことを、夫婦は昨日のことのようによく覚えていた。傷一つない新居は彼らの目にキラキラと輝いて見えた。完璧な修繕をしたという大家の言葉は嘘ではなかった。明るい部屋を見ていると、夫婦には確かな実感が湧いてきた。自分たちが夢見ていた生活が今ここから始まるんだと。あの日、二人は本当に幸せだった。荷物を片づけている間もずっと笑い合っていた。そのうちに新しい部屋で初めての夜がやって来た。
「あっ、もうこんな時間じゃん」
「わっ、本当だ。外真っ暗だね」 
 二人ともが黙ると、沈黙が新しい部屋に広がった。張り詰めたような、ふわふわとしているような、そんな曖昧な沈黙だった。
「……ねぇ」知子が沈黙を破った。「ねぇ、聞いてる?」
「ん?」
「せっかく引っ越してきたんだからさ、しようよ」
「えっ、今?」
「うん、今」
「……分かった。いいよ」 

愛の形

 片付けの手を止めて、二人は立ち上がった。部屋の真ん中まで歩いていくと、そこで向かい合った。相手の顔を真っすぐ見つめたまま、ゆっくり呼吸を繰り返した。また沈黙。その時、階上でガタンと大きな物音がした。それが合図になった。
 反応が早かったのは知子だった。軽やかなステップで前へ出ると、彼女は夫の脇腹めがけて正確にボディーブローを放った。痛みに身をよじる行雄に、さらに追撃! だがその攻撃には行雄が反応を見せた。腕でパンチをガードし、反撃の右ストレート。知子は落ち着いてそれを受け流し……。そんな調子で夫婦は、段ボール箱がまだいくつも残る部屋の中央で、殴り合い、蹴り合い、つかみ合った。
 やり合いは十分近くも続いた。それは夫婦のそれまでで一番長いファイトだった。終わった後しばらく、二人は床の上に仰向けのまま動けなかった。身動きすると身体中が痛んだ。気分は良かった。最高だった。いつもファイト後に彼らの内側を満たす昂揚感や熱が、生の実感が、その日は特に内側だけでなく、空間ごと彼らを包んでいるようだった。
「良かったよ、すごく」鼻血まみれの妻の顔に、行雄は手を伸ばした。「痛っ」知子は顔をしかめた。「あっ、ごめん」「ううん、大丈夫」しかめ面はすぐ笑顔に変わった。「私も良かった。本当に」彼らはしばらく床に寝たまま、揃って天井を見上げていた。まだカーテンを付けていない窓から入ってきた光が、真っさらな天井の上に複雑な模様を映していた。時間という形のないプリズムを通り、奇妙な屈折を起こして、過去や未来の光が重なり合っているような複雑な模様を……。
 引っ越してきてよかった、とそのとき彼らは改めて心から思った。「ファイト可」の部屋に越してきて、本当によかったと。

愛の形

 そしてそれから時が流れた。八年という長い時間が。
 八年の間に、彼らの生活にも様々な変化があった。それぞれ一度ずつ転職をして、今ではどちらもそれなりに責任のある立場になっていた。仕事関係以外では、外食をあまりしなくなったし、とにかく夜は早く寝るようになった。だが何より大きな変化がほかにあった。最近はもう、夫婦はファイトをしていなかった。最後にファイトをしたのがいつだったか、二人には思い出せないほどだった。もう長いこと、夫婦は互いに痛めつけ合うこともなく、ずっと暴力と無縁の生活を送っていた。
 だが別に、ファイトをしなくなったからといって、彼らの仲が悪くなったというわけではなかった。どちらかといえば、彼らの関係は今も良好だった。少なくとも、冷え切った仲になってしまったとかではなかった。もちろん、小さな諍いはたくさんあったし、時々ふと、毎日のようにファイトをしていた昔の自分たちを思い出し、懐かしいような寂しいような気持ちに襲われることもあった。それでも、彼らは夫婦として、今でも互いを信頼していた。互いを一緒にいて最も楽な相手だと思っていた。だからファイトをしなくなった今でも、互いに強い不満を抱いていたりとか、特にそういうことはなかった。多かれ少なかれ、関係性というものは時とともに変わっていってしまうものだと、夫婦ともに多少冷めたタイプでもあった。
 問題があるとすれば、それは夫婦がファイトをしなくなったことではなかった。問題は、ファイトをしなくなった彼らが今も、「ファイト可」のマンションに住み続けていることだった。そこにはシンプルに何のメリットもなかった。ファイトはしないが、「ファイト可」の部屋には住むというのは単に、家賃の高さの割に、あまり広くも便利でもない部屋に我慢して住んでいるだけだった。騒音の問題もあった。隣室や階上から聞こえてくる、打撃音、足音、物が壊れる音は、彼らを幾度となくうんざりさせていた。もっと嫌なのは、マンション内で他の住人たちと出くわしてしまったときだった。全身包帯やアザだらけの隣人を目にすると、どうしてかそんなときだけ、夫婦は自分たちのことが恥ずかしく思われてしまい、こそこそ物陰に隠れたり、全然目を合わせずに横を過ぎたりしていた。
 先に音を上げたのは夫だった。音を上げたというか、堪忍袋の緒が切れたというか。

愛の形

「よーし、もう無理! 知子、引っ越そう!」箸をテーブルの上に投げ出しながら、荒井行雄は言った。その日もまた、すぐ上の階でドッシャンガッシャン、騒々しい音がずっと続いていた。天井に向かって、行雄は声を張り上げた。「うるさいんだよ! さっきからずっと! もう十分やっただろ!」
「そうだねえ」ブロッコリーを噛みしめながら、知子も溜息をついた。「面倒くさいんだけどねえ、引っ越し。でも、流石に私もしたいかも」
「だろ! はい、もう決まり! 引っ越しね!」
 荒々しく席に座ると、行雄は食事を再開した。そんな彼に対し、知子はテーブルの上で両手を組み、咳払いをひとつ。
「え、何?」と行雄。
「あのね」知子は言った。「ちょっと見てほしいものがあるんだけど」
 クローゼットの奥から知子がリビングに運んできたのは、とても大きな鞄だった。「よいしょっと」床に鞄を下ろすと、ドスンと重たい音がした。「ほら、手伝ってってば」妻が鞄から取り出し、手渡してくるものたちを、行雄は大人しく受け取って、テーブルの上に並べていった。金属バット、ハンマー、バール、ノコギリ……。
「強盗でもするの?」
「そんなわけないでしょ。ふざけないでよ」
 眉をひそめる夫に、知子は説明した。
「『ファイト可』の部屋って要するに、家の中でどんなにメチャクチャやってもいいってことじゃん。ちょうど上でやってるみたいに。だから、どうせ引っ越しするならその前に、自分でこの部屋をメチャクチャに叩き壊してみたい、ってずっと考えてたのよ。ほら、Youtubeに家の解体のビデオとかあるでしょ? あれ、自分でやったら気持ちよさそうだな……ってずっと思ってて。どう? この部屋の最後の思い出に。やらない?」

愛の形

 次の引っ越し先は、特に問題もなく、拍子抜けするぐらいすんなり決まった。
 そして退去が翌日に迫った土曜日の夜。荷造りや片付けを済ませたあと、夫婦はリビングにそろった。全身ジャージに帽子、マスク、軍手、手にはバットという恰好で。二人は最後にもう一度、自分たちが八年間住んでいた部屋を見回した。
「なんかさ、ちょっと変な感じだね」
「……そうだね」
 夫婦は互いの顔を見て、頷き合った。それから二人してバットを振りかぶった。
 飛び散る木片、ガラスの破片。壁に凹みや穴ができ、シーリングライトが割れ、テーブルの脚が折れる。棚が勢いよく前に倒れ、折れた引き出しも床に転がり、エアコンが落下する。行雄はバールを使って、ドア枠の板を無理やり剝がした。知子ははさみでソファの革を切り裂き、めった刺し。クローゼット内の仕切りも、カーテンレールも彼らは壊した。古くなっていたオーブンも、テレビ台も打ち壊した。
 そうやって二人は、ただひたすら自分たちの部屋を破壊していった。すさまじい音とともに。彼らの「作業」はあまりにもうるさかったので、「ちょっと夫婦で久しぶりにファイトを……」なんて嘘は通用しそうになかった。それでも彼らは気にしなかった。気分は最高だった。最高! こんなに爽快な気分になったのは久々だった。夢中になって夫婦は部屋の破壊を続けた。つい先ほどまでずっと当たり前だった全てを、自分たち自身の手で、ひたすらバラバラにしていった。徹底的に、不可逆的に……。
「あっ!」という妻の大きな声が聞こえたのは、彼女がたくさんの道具と鼻歌とともに、リビングを出て行った数分後だった。声を聞いて、行雄は手を止めた。

愛の形

「知子ー?」呼びかけながら、行雄も廊下に出た。「どうしたの? 大きい声したけど、大丈夫?」返事はすぐあった。「あーっとね。……あんま大丈夫じゃないかも……」彼女の声は洗面所からしていた。「ちょっとこっち来てくれる?」
 あちこち叩き壊された洗面所の奥、隣室と自分たちの部屋とを隔てる壁、そこに大きな穴が開いていた。人ひとりは余裕で通れるような巨大な穴が。
「どうしたらこうなるのよ」行雄は呆れて言った。
「いやー……」知子はバツの悪そうな顔をしていた。「ちょっと、思いっ切り、こう、ね?」
「どうすんの。だってこれさ、三村さんたちに謝らないと」
「確かに。あなた謝んないとね……」
「えっ! 俺だけ?」
「今三村さんたち、家にいるかなあ」知子は夫を無視して、穴に近づいていった。穴をくぐりながら、彼女は呼びかける。「三村さーん、失礼しまーす。入りますねー。泥棒じゃないでーす。荒井でーす。三村さーん。こんばんはー。いますかー?」
 大きく溜息をついたあと、行雄も壁に開いた穴をくぐった。彼女の「あれ……?」という声が聞こえたのは、ちょうどそのタイミングだった。
「ねえ……」潜めた声。「ちょっと来てくれる? なんか変なんだけど」
 真っ暗な廊下を通って、行雄は妻の声がした方へ向かった。隣室内は妙な静けさに満ちていた。全然人がいる気配はなかった。三村さんたちはきっと留守なんだな、と彼は思った。廊下の端に知子が立っていた。困惑した表情を浮かべていた。無言のまま、彼女は奥を示した。妻の指した先を見て、彼も驚いた。

愛の形

 隣室のリビングはめちゃくちゃに荒らされていた。それも単に荒らされていたのではなかった。そこは破壊しつくされていた。ちょうどさっきまでいた、彼らの部屋と同じように。チャリチャリとあらゆる破片を踏みしめながら、夫婦はゆっくりと中に入っていった。不穏な空気が漂っていた。何が起こっているのか、二人とも訳が分からなかった。「これ……」知子が床から何かを拾いあげた。それは大きく欠けた、見覚えのあるマグカップだった。「私のだよね……?」行雄は頷いた。マグカップだけではなかった。そこら中に崩れて、損壊して転がっている、テーブルもソファも本棚も、空気清浄機もステレオも掃除機も、全てが間違いなく彼らのものだった。彼らが自分たちで壊した、彼ら自身の物たちだった。行雄は壁に手を伸ばした。大きな穴がそこにあった。彼はその穴も覚えていた。ついさっき彼自身がバットでそこに開けた穴だった。
 二人が今いるのは、隣の三村たちの部屋ではなかった。ここは彼らの部屋だった。
「でも、どうして……」知子は混乱していた。「だって、私たち、絶対、さっき穴を通って、隣りの部屋に来たじゃん……。三村さん家に来たよね……。でしょ?」
「そう思ったけど……」行雄は答えた。「そうじゃなかったみたいだね……」
「どうして……。なんで……。だって……。そんなわけ……」
「おれにも分かんないってば……」
 何事か知子は考え込んでいた。それから突然、出口の方へ歩き出した。行雄は無言で彼女の後をついていった。妻がどこに行くのか彼にも分かった。目的のドアの前まで来たあと、彼女は勢いよくそれを開けた。そして中を見て、息を呑んだ。「やっぱり……」彼女の背中越しに行雄も「この部屋の洗面所」を覗き込んだ。まったく同じだった。この部屋の洗面所もまた、「自分たちの部屋の洗面所」と同じように荒らしつくされていて、奥の壁に、ついさっき通ってきたのと同じ大きな穴が開いていた。
「すごーい」知子が言った。「どうなってんだろ、これ……」

愛の形

 結論からいうと、「この彼らの部屋」の洗面所の壁の穴も、また隣の「彼らの部屋」につながっていた。そうして行った「次の彼らの部屋」もまた、部屋の中はぼろぼろに破壊しつくされているし、洗面所の壁には穴が開いていて、その穴の先にもまた「彼らの部屋」があった。そうやって洗面所の穴を通じ、次から次、隣からまた隣へと、自分たちの部屋が無限に続いていた。夢中になって部屋を破壊している間に、彼らはこの奇妙な、歪んだ空間の中に囚われてしまったということだった。
 何十と穴を抜けたあと、夫婦は状況が変わるのを諦め、少し休むことにした。
「参ったねえ」リビングに倒れていたソファを起こし、どさりと腰掛けたあと、知子はぽつりと言った。「とんでもないことになっちゃったねえ」
「いや、本当に……」行雄は隣に座った。「何が何やら……」
「でもなんだかんだ、私はなんか、おもろくなってきたけどね、この状況が」
「どこが面白いんだよ。玄関のドアも、窓も全然開かないし、俺たち一生、この部屋の中に閉じ込められたままになるかもしれないんだよ……」
「まあ、なんとかなるって」
「なんでそんな前向きなんだよ……」
 ふふん、と彼女は笑った。それから二人はしばらくの間、黙ってソファに座っていた。ぼろぼろになった自分たちの部屋を見ながら。このマンションで、いつもならこの時間、隣や階上から聞こえてくる様々な音が、奇妙な空間の中に来てしまったからかまったくしないので、部屋はとても静かだった。世界中が静まり返っているようだった。
「でも本当になんで」妻が再び口を開き、独り言のように言った。「こんなことになっちゃったんだろうね、私たち」
「分かんないよ」行雄は答えた。「……こんなことって、何? どんなこと?」
「だから、この状況よ。流行りのインディーホラーゲームみたいな、この状況」
「ああ、そっちか」
「そっちってどっちよ」
「何でもない」
「言いなよ。気になるじゃん」
「何でもないってば」
 また二人とも黙り込んだ。
「そうだ!」突然、知子は大声を上げた。「逆に行ってみるってのはどう? だってさ、私たちずっと同じ方向、同じ方向に穴を抜けて、ここまで来ちゃったたわけじゃん。でも逆ってまだ試してないよね。もしかしたらなんか変わるかもしんないし。どう?」
 うーん、と行雄は反対の意を示した。「まあ確かにそうだけど、同じだと思うけどね、逆に行こうが何も変わんないと思うけど。まあ、でもじゃあ、後で試してみようよ。もうちょっと休んでから。なんか、めっちゃ疲れちゃったからさ」
「またおじさんみたいなこと言って」知子は笑った。「じゃ、私先行くわ! 先行って、どうなるか見てくる。行雄はここで待ってて!」
 そう言うと、彼女は立ち上がり、あっという間に部屋を出て行った。バタバタと廊下を走る音が、次第に遠ざかっていき、やがて消えた。
 そしてそのまま、彼女は戻ってこなかった。

「知子?」しばらくしてから、さすがに遅すぎると思い、行雄はソファを立った。「知子ー!」声は空しく暗がりに吸い込まれていった。
「おーい、知子! 知子!」
 穴から穴へ、部屋から部屋へ、彼は妻の名を呼びながら走った。だがどこまで行っても、同じ景色が無限に続くばかりで、その中に妻の姿はなかった。ずっと同じ、壊れた景色。他ならぬ自分たち自身の手によって、叩き壊してしまった愛の形。徹底的に、不可逆的に。どうしてこうなってしまったんだろう。再び彼はそう思った。「知子ー!」返事は相変わらずなかった。それでも彼女がどこかにいてくれるはずだと信じ、自分たちはまだ何も失ってなんかいないと信じて、彼は繰り返す結末の中に妻を探し続けた。

愛の形

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