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映画感想②:ジョーカー フォリ・ア・ドゥ
よく考えて作られた映画だと思う。少なくとも、インターネットで言われているような「いい映画を作ろうとしていない」という批判は的外れなものでしかない。
これは「夢と現実」についての映画である。そのテーマのために、ミュージカルという形式を利用している。こうした大きな構造を考えたとき、観賞後に近いと感じた作品は『ダンサー・イン・ザ・ダーク』だった。あの作品ほど明確にではないが(まさにそのメリハリのなさこそ、今作に問題点があるとすればそれかなとも感じたのだけど)、この作品でも「夢=ミュージカル=他者にとっての理想の姿=ステージの人気者=ジョーカー」⇔「現実=アーサーとしての自己」というような対比が、ミュージカルの形式でもって描かれている。
「夢」、「ミュージカル」的シーンの中では、彼は基本的に「ジョーカー」として華々しく描かれ、舞台の上で歌い、踊り、観衆からの声援や羨望の目を集めている。しかし、「現実」でアーサーは、看守にひたすら叩きのめされ続ける、一人の弱い男にすぎず、人を魅了するようなカリスマ的要素など持ち合わせない、ただの精神病患者でしかない。
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そもそも1作目の「ジョーカー」は、「単なる一般男性による悲惨な殺人を、ドラマチックに描くことで、ヒーロー映画のように見せる」作品だった。「ヒーロー映画」全盛期と呼ばれる現在にあって、「タクシードライバー」や「キング・オブ・コメディ」を露骨に意識したような作品を、あえて「ヒーロー映画」として作ったら、世間にはどう受け入れられるのだろうという、作品自体が一種の社会批評であるような映画だった。その点で、今回の2作目に出てくる「ハーレイ・クイン(本当はただの一般女性)」をはじめとした「ジョーカー」のいわゆる信奉者たちは、そのまま1作目の映画を見て「ジョーカー」に魅了された人々の姿に重なり合う(ように描かれてすらいる)。彼らは1作目の解釈を間違えているのだ。自分たちが目にしたのは、巨悪(構造的に上位にいる者)を打ち倒す「ヒーロー」などではなく、一人の「孤独な男」にしか過ぎないんだということを、ドラマチックな演出に目を奪われ、ずっと理解できないままでいる。今作では、そういった信奉者たちの「幻想」がひとつずつ丁寧に暴かれ、最後には…、という構図になっている。その結果、「こんなのは『ジョーカー』の続編じゃない」という声が多く出てしまったというのは、物語内の展開とも対応していて、なんとも皮肉な話だ。