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正々堂々

正々堂々と戦う。
これは、アスリートなら当然のことだと思っている人も多いだろう。

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ほとんどの大会の開会式では、選手宣誓という儀式が行われる。

選手代表が、主催者(大会長等)の前で、

「我々選手一同は、スポーツマンシップに則り、正々堂々と戦うことを誓います。」等と宣言するわけだ。

でも、冷静に考えて欲しい。

「正々堂々」って何だ?

というのも、勝負の世界は、「正々堂々」とは、真逆の考え方で動いているからだ。

例えば、5000mを走るときに、ラストスパートに絶対的な自信がある選手がいたとする。
彼が勝つための戦略を取るならば、終盤まで集団の中で待機して、最後に得意のラストスパートで勝負するのが最善と言えるだろう。

他の選手に引っ張ってもらって、疲れさせて、相手がへばったところで渾身のスパート。そんなことは、陸上競技においては日常茶飯事である。

しかし、これは果たして、「正々堂々」なのだろうか?

ペースメーカーの後ろを2人のランナーが走っていて、ラスト1周でその2人が抜け出してラストスパート勝負をするのであればまだ分かる。

でも、そうじゃない。
自分の敵に前を走らせて、風除けにして、ペースを作ってもらって、疲れてきたところで最後に仕留めて勝つ。

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いかに相手を疲れさせて、自分は楽をして、ズルく勝つか。

それを、勝負の世界では、「戦術」とか「戦略」、または「駆け引き」と言うのだ。

「正々堂々」なんて言っている場合ではない。

実力が拮抗していればしているほど、それは顕著になってくる。

逆にもし、ラストで負けることを覚悟の上で、前半から積極的に先頭を引っ張るランナーがいたとしたら、それはたしかに立派ではあるが、「勝つ気あるの?」と思ってしまう。

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これは、陸上競技に限ったことではない。

野球においても、強いバッターが出てきたときに、「敬遠」という作戦がある。

「敬遠」は野球のルール上認められていることで、バッターとの勝負を避けて、わざとボール球を投げることで一塁に歩かせる作戦のことだ。

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特に高校生の甲子園は、今日の試合で負けたら、明日の試合は無い。
ゆえに、勝ちにこだわるのは当然だし、そのために最善の方法を取るのは理に適っている。
しかし、それは「正々堂々」とは言われないことが多い。

縄文時代の狩猟を見ても、縄文人が獣と捕まえるときに「正々堂々」と戦っていたわけではないと思う。

「獣に真っ正面から向き合って戦う」なんてことをしていたら、やられてしまうか、逃げられてしまう。

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実際には、落とし穴を掘ったり、罠を仕掛けたり、飛び道具を使って、獲物を捕っていただろうし、相手をいかに陥れるか、どうやって確実に仕留めるかに尽きると思う。

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勝つため(生き残るため)には、「正々堂々」なんて言っていられないのだ。

そして、「正々堂々(せいせいどうどう)」は、元々は中国の古典「孫子」が出典の故事成語である。

「正正の旗を邀ふる無く、堂堂の陣を撃つ無し、此れ変を治むる者なり。」

「正正の旗」とは、旗が乱れずに行進している様子を示していて、「堂堂の陣」とは、大きな建造物のようなしっかりした構えを示している。

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つまり、孫子が言いたかったことは、

「正正の旗」の軍隊を迎え撃ってはいけないし、「堂堂の陣」の軍隊を攻めてはいけない。

ということなのだ。

なぜなら、こういった「正正堂堂」の相手と戦うと、負けるからである。

孫子では、「正々堂々」と挑んでくる相手とは、正面切って戦うべきではないと説いているのだ。

これは、自分より強い相手や、実力が拮抗した相手と戦うときは、真っ向から勝負をするのではなく、勝機を待って、絶妙なタイミングで勝負に出ることが大切ということを示しているのではないだろうか。

つまり、ラストスパートが得意なランナーは、終盤まで力を温存すればいいし、上り坂が苦手な相手には、上り坂で勝負を仕掛ければいい。

モータースポーツで例えるなら、コーナリングで相手を凌げるのであればコーナーで勝負すればいいし、ストレートの加速で相手を凌げるならば、そこで勝負を仕掛ける。

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そういうことだと思う。

実力が同等、もしくは自分よりも格上の相手と戦うときは、真っ向からの直球勝負ではなく、チェンジアップでかわしにいく。

それが、「正々堂々」の真意だと思う。

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牛山純一
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