日本語で学ぶアメリカ史 第一章

第一章:新世界

出典:L. D. Burnett et al., ‘The New World,’ in “The American Yawp,” eds. Joseph Locke and Ben Wright (Stanford, CA: Stanford University Press, 2019): pp.1-27

http://www.americanyawp.com/text/01-the-new-world/


I. 序 p.1

ヨーロッパ人はアメリカ両大陸を「新世界」と呼んだ。だが、彼らが遭遇した何百万人ものネイティヴ・アメリカンにとっては決して新しくはなかった。1万年を超えて人類はアメリカに生きてきたからである。活発にして多種多様なネイティヴ・アメリカンは何百もの言語を有し、何千もの独自の文化を築き上げた。彼らは定住地を作り、季節に従う移住パターンを形成し、同盟によって平和を維持し、隣接地域と戦争し、自給自足経済を確立し、広大な交易ネットワークを有した。独特の芸術形態を育み、精神的価値観を築いた。血縁関係が共同体を結束させた。だが、ヨーロッパ人の到来は人、動物、植物、病原菌のグローバルな交換ー学者はオブラートに包んで「コロンブスの交換」と呼ぶーをもたらし、1万年を超える地理的な分離状態を解消し、暴力にまみれた数世紀の始まりを告げ、前代未聞の生物的テロが生じ、世界の歴史に革命を引き起こした。それは人類史の中でも最も重大な発展の一つを動かし始めたのであり、アメリカの長い雄叫び(yawp)の最初の一章の始まりであった。


II. 最初のアメリカ人 pp.2-11

アメリカ史は最初のアメリカ人から始まる。だが彼らの物語はどこから始まるのか?ネイティブ・アメリカンは数千年に渡り自身の創造物語を語り継いできたのだが、それは固有の信仰の輪郭を明らかにしてくれる。例えば現在のカリフォルニア州のサリーナン族(Salinan)は白頭鷲が粘土から最初の男を、羽毛から最初の女を生み出したと伝える。レナペ(Lenape)族の伝統では、大地は空の女(Sky Woman)が水に満ちた世界に落ちた時に生まれ、ニオイネズミとビーヴァーの助けを受けながら亀の背中へと安全着陸したことで、亀の島、すなわち北アメリカ大陸ができたとされる。チョクトー族の伝統は南東部諸部族の起源が偉大な母なる丘(Mother Mound)ーヌニーマーヤ(Nunih Maya)の土塁の内側、つまりミシシッピ峡谷下流域にあるとする。ナワ族(Nahua, Nahuatl)はその起源を七つの洞窟(Seven Caves)とし、現在のメキシコ中部に移る前にそこから祖先が現れたとみなす。アメリカの現地民は多様な始まりの物語を文字にせよ口頭にせよ語り継いできた。これらは創造と移住の歴史を共有している。
 一方、考古学者と人類学者はネイティブ・アメリカンの移住の歴史に焦点を当ててきた。遺物、遺骨、遺伝子的特徴を研究して、専門家はネイティブ・アメリカンにとってもかつて「新世界」だったという物語をまとめ上げた。
 最後の氷河期は世界の大半の水を巨大な大陸氷河にした。2万年前は氷床、と言っても数マイルもの分厚さだ、が北アメリカ大陸に広がっており、南は現在のイリノイ州にまで達した。世界の水がほとんど氷床になっていたので地球の海面は低く、アジアと北アメリカを繋ぐ陸橋がベーリング海峡に存在した。2万年から1万2千年前の間にネイティブ・アメリカンの祖先は氷河、海域、表出した陸地を渡った。この動き回る狩猟採集民は小集団で行動し、野菜・動物・海産資源を活用して北アメリカ北西端のベーリングツンドラ帯に持ち込んだ。DNAのエビデンスによると、この祖先達は恐らく1万5千年ほど、アジア-アメリカ間の広大な地域に留まっていた。他の者は海を渡り、太平洋海岸を辿り、川を遡り、生態系が許すなら定住もした。氷床は1万4千年ほど前に後退し、より暖かい気候や新しい資源が待っている場所への道を開いた。南に進んだ祖先もいれば、東に移住した者もいた。現在のチリにあるモンテ・ヴェルデで見つかったエビデンスによれば、少なくとも14,500年前から同地で人類の活動が始まっていた。似たようなエビデンスから、フロリダのパンハンドル地帯でも同時期に人類が定住していたと示唆されている。多くの点で考古学的知見と伝統的知見が合流している。歯学、考古学、言語学、オーラル、生態系学、遺伝子学によるエビデンスがにより、膨大な数の集団が数千年に渡り定住と移動を行なっていたこと、恐らく各集団は多くの異なる起源から生まれたこと、つまりかなりの多様性が明らかになった。土、水、空のいずれから生まれたにせよ、創造者に作られたにせよ、移住してきたにせよ、現代のネイティブ・アメリカンは人類の記憶より遥かに前の歴史を語っているのだ。
 北西部では鮭が豊富な川が利用された。平原では狩猟民がバイソンの群れを追いかけ、季節のパターンに従って移動した。山間部、プレーリー、砂漠、森林部では地理的特性と同じぐらい多種多様な先史時代の文化・生活様式が発達した。こうした各集団は数百もの言語を持ち、固有の文化的慣行に従っていた。豊富で多様な食事は大規模な人口拡大を大陸中で支えた。
 農業は9千年から5千年前のどこかで始まり、両半球でほぼ同時期に始まった。現在のメキシコと中央アメリカに相当するメソアメリカでは栽培品種化されたトウモロコシが、紀元前1200年頃に最初の定住者人口拡大を支えた。トウモロコシはカロリーが高く、乾燥して貯蓄しやすく、さらにメキシコ湾海岸の肥沃で温暖な環境なら一年に二回収穫できることもあった。トウモロコシは他のメソアメリカ産食物と共に北アメリカに広がり、今日でも多くのネイティブ・アメリカン共同体において精神的、文化的重要性を有している。
 ミシシッピ川から大西洋海岸までの間は東部森林地帯として知られるが、ここにある川谷の肥沃さによって農業が発達した。ここでは三姉妹の別名で知られる食物ートウモロコシ、マメ、カボチャーがとりわけ栄養豊富で、都市や文明を支えた。五大湖・ミシシッピ川から大西洋海岸に至る森林地帯で、ネイティブ・アメリカンは森林資源を管理していた。下草を燃やし、さながら森林開拓地のような広大な狩猟地、三姉妹を植える農地を作り出した。多くの集団が焼き畑農法(shifting cultivation)を行った。森を切り、下草を焼き、養分豊かな灰の上に種を撒く農法だ。土地の産出が下がれば別の場所に行き、その間にその土地の地味が回復し、森林が復活する。そうしてまた森を切り下草を焼き、と繰り返す。この技術は耕作しにくい土壌でとりわけ有効だった。だが肥沃な東部森林地帯において、ネイティブ・アメリカンは恒久的な集約農業を営み、ヨーロッパ的な鋤よりも手工具を用いた。豊かな土壌と手工具の使用が効率的で持続的な農業を可能とし、土壌に過大な負荷をかけることなく高い産出量を実現した。女性が農業、男性が狩猟・漁業という分担が森林地帯で典型的に見られた。
 農業は劇的な社会変化をもたらしたが、それは健康を損なう場合もあり得た。遺物の分析から、農業社会への移行期にはしばしば骨や歯が脆くなったことが明らかにされた。だがこうした衰退にも関わらず、農業は重要な利益を与えた。農業は狩猟より多くの食料が手に入り、共同体の中で他の技能を追求する者を養うことが可能となった。宗教指導者、熟練兵、職人が自身の活動に集中することも可能になった。
 北アメリカ先住民はいくつか広く共有された特徴があった。宗教的慣行、財産の考え方、血縁ネットワークのあり方はヨーロッパと著しく異なった。大半のネイティブ・アメリカンは自然と超自然を厳密に区別しなかった。精霊の力は世界に浸透する実在で近づきやすいものだった。それは訴えかけることも利用することも可能だった。血縁関係は北アメリカ先住民を結束させていた。大半は小規模な共同体に暮らし、それは血縁ネットワークで結びついていた。多くの先住民文化は母系文化、つまり家族や氏族意識が女系に沿っていた。父や息子ではなく母や娘に家系が沿うということだ。例えば父は母方の拡大家族にしばしば加わり、母の兄弟が生物上の父よりも子育てに直接役割を果たすことさえあった。したがって、母はしばしばローカルなレベルで絶大な影響力を行使し、男性のアイデンティティと影響力はしばしば女性との関係性に依存した。一方、ネイティブ・アメリカンの文化には一般にヨーロッパの文化よりも大きな性的自由、婚姻的自由があった。例えば女性がしばしば夫を選んだし、離婚も多くは簡潔にして明快なプロセスだった。さらに、大半の先住民はヨーロッパ人と異なる財産観を有していた。彼らは一般によく使われる道具・武器・その他品物に個人としての所有意識(ownership)を持ち、この原則は土地と農作物にも適用された。諸集団と個々人が特定の土地を活用し、他者を排除するため暴力と交渉を用いた。だが、土地の使用権は恒久的所有権を暗示しなかった。
 ネイティブ・アメリカンは多くのコミュニケーション手段があり、絵もその一つだった。この芸術的でコミュニケーションに用いられる技術の中には今日まで続くものもある。例えば、アルゴンキン語族に含まれるオジブウェ族は樺の樹皮で作った巻物を治療、レシピ、歌、物語などの記録に用いた。他の東部森林地帯の部族は植物の繊維を編み、ヤマアラシのトゲで皮に刺繍を縫い、複雑な儀礼的意味を持たせるよう大地に設計をほどこした。グレートプレーンズでは職人がバッファローの毛を編み、その皮を色塗りした。北西部太平洋地域ではヤギの毛が特定の模様を持つ柔らかい布地に編み上げられた。マヤ族、サポテカ族(Zapotec)、ナワ族の祖先はメソアメリカで植物性布地に彼らの歴史を色塗りし、また石に刻んだ。アンデス地方では、インカ族が糸の結び目であるキープ(khipu)を用いて情報を記録した。
 2千年前に北米で最も大きかった文化集団の一つがプエブロ集団であり、現在の大南西部(合衆国南西部とメキシコ北西部)に位置していた。また、ミシシッピ集団は大河であるミシシッピ川とその支流に、メソアメリカ集団は現在の中央メキシコ及びユカタン半島に位置していた。それまでの農業技術の発展で爆発的な成長が社会に起こり、メキシコ峡谷のテノチティトラン、ミシシッピ川沿いのカホキア、大南西部の砂漠地帯におけるオアシス都市などを生んだ。
 ニューメキシコ州のチャコキャニオンは紀元前1300-900年においてプエブロ族の祖先が暮らしていた。チャコキャニオンの複合住宅には1万5千人が住んでいた。洗練された農作業、広い交易ネットワーク、更には七面鳥すら家畜化したことが人口拡大を引き起こした。砂岩ブロックとかなり離れた場所から運ばれてきた木材によって巨大な居住建築物が作られ、数百人ものプエブロ族を収容した。そのうちの一つ、プエブロボニートは2エーカーもの広さがあり、五階建てだった。中には600もの部屋があり、銅鐘、トルコ石の飾り物、鮮やかなコンゴウインコに彩られていた。プエブロボニートにあるこうした家屋な中には小さくん掘られた部屋(kiva)があり、様々な儀式で重要な役割を果たし、プエブロ族の生活と文化にとって中心的な場所となった。プエブロ族の宗教意識は大地と空に結びつき、何世代にも渡って星座を辿り、太陽と月の通り道に沿うように家屋をデザインした。
 チャコキャニオンのプエブロ族は生態系的な試練に立たされた。森林破壊と過剰灌漑は究極的に共同体の崩壊をもたらし、人々はより小規模な定住地に分散した。1130年からは15年にもわたる極端な旱魃が発生し、まもなくチャコキャニオンは放棄された。アパッチ族やナバホ族(Navajo)を含む新たな集団がこの空き地へと到来し、プエブロ族の慣習をいくつか取り入れた。プエブロ族を襲った旱魃は中西部と南部のミシシッピ集団にも影響したらしい。ミシシッピの先住民は現在のメキシコより北の方で最大の文明の一つを発展させた。約千年前、ミシシッピ最大の定住地カホキアは現在のセントルイス東部にあり、人口は最大で1万から3万の間に達した。それは当時のヨーロッパ都市に規模で劣らなかった。アメリカ独立革命以降までカホキアに勝る人口を誇るアメリカの都市は存在しなかった。カホキアは2000エーカーもの広さがあり、モンクスマウンドが中心にあった。これは10階分にも及ぶ巨大な塚で、エジプトのピラミッドよりも広大な基底部を有した。東部森林地帯と同様、カホキアの生活は星、太陽、月の動きに結びつき、儀式用の土盛りの建造物は重要な天体諸力の構成を反映していた。
 カホキアの政治体制は首長制で、氏族に基づく序列制度だった。指導者は聖俗両方で権威を有した。カホキアの規模とその影響圏が示唆するのは、カホキアは至高の指導者の元にあるより小規模な首長制集団に依拠していたことである。社会階層は頻繁な戦争によっても維持された。捕虜は奴隷化され、この奴隷は北アメリカ南東部の経済にとって重要であった。ネイティブ・アメリカンの奴隷制は人間を財産化するものではなく、むしろ血縁ネットワークが欠如した者と理解された。だから奴隷身分は恒久的ではなかった。頻繁にあったことだが、元奴隷は自分が捕まえられた共同体の一員に完全に統合されることが可能だった。養子や婚姻は奴隷が血縁ネットワークや共同体に入ることを可能にした。奴隷制と捕虜交換は、先住民共同体が再成長し、権勢を誇り維持する重要な手段であった。
 1050年ごろ、カホキアはある考古学者が「ビッグバン」と呼ぶ出来事を経験した。ほぼ一瞬で政治、社会、イデオロギーが一気に急変したのだ。たった一世代で人口はほぼ500%も増え、新しい集団がカホキアと傘下の共同体に吸収された。1300年までにカホキアは崩壊に繋がる一連の重圧に見舞われた。研究者はかつて生態系的な災害や移住による緩やかな人口減少を指摘していたが、新しい研究では戦争の増加と政治的内紛が強調されている。環境要因の指摘では、灌漑可能な土地に人口成長があまりにも負荷をかけすぎたとされる。燃料や建築材の需要が森林破壊、浸食、そして恐らく長期的旱魃をもたらしたとも言われる。砦柵を含む近年見つかったエビデンスによれば、支配エリート間の政治騒擾や外敵の脅威がかつて強大だったカホキアの終焉を説明できるかもしれないという。
 北アメリカの共同体は血縁、政治、文化によって結合され、長距離交易ルートにより維持されていた。ミシシッピ川は決定的な輸送・通信路だったが、水路自体が重要だった。カホキアの巨大化はミシシッピ川、イリノイ川、ミズーリ川に近かったのも一因だ。これらの川は五大湖から南東部に渡るネットワークを生み出した。考古学者は貝殻のような物体がカホキアへと千マイルを超えてやってきたと示すことができる。少なくとも3500年前、現在のルイジアナ州ポヴァティポイントにある共同体は、現在のカナダにある銅や現在のインディアナ州にある火打ち石を手に入れることができた。オハイオ川近辺の神聖なサーペントマウンドで見つかった一面に広がる雲母はアレゲニー山脈から、近くの土盛りにあった黒曜石はメキシコから来ていた。大南西部からのトルコ石は1200年前のテオティワカン(Teotihuacan)で使われた。
 東部森林地帯では、多くのネイティブ・アメリカン社会がより小規模な分散した共同体に暮らし、豊かな土壌と満ち溢れる川を利用した。デラウェア族の名でも知られるレナペ族はハドソン川とデラウェア川の低地、つまりニューヨーク、ペンシルヴァニア、ニュージャージー、デラウェアの流域を耕した。何百もの定住地がマサチューセッツ州南部からデラウェアに存在し、政治、社会、宗教的に緩くつながっていた。
 分散して比較的独立していたので、レナペ族の共同体はオーラルヒストリー、儀礼的伝統、コンセンサス型政治機構、血縁ネットワーク、共通の氏族制で結合していた。レナペ族の様々な共同体と氏族は血縁によって繋がり、社会は母系に沿って構築された。婚姻は氏族間で行われ、夫が妻の氏族に加わった。レナペ族の女性は婚姻、家政、農業に影響力を及ぼし、首長(sachem)と呼ばれる指導者の選出にさえ重要な役割を果たした可能性がある。分散した権威、小規模な共同体、血縁による組織は長期的安定と弾力性をもたらした。一人か複数の首長が民衆の同意によって統治した。レナペ族の首長は知恵と経験によって権威を得た。これはミシシッピ川文化の序列社会とは異なっていた。だが、大規模な会合は存在し、儀式や重大な決定の時に行われた。首長はいつもより大きな人々の協議会に語りかけた。そこには男も女も老人もいた。レナペ族は北のイロコイ族や南のサスケハナ族とよく緊張関係にあったが、防衛要塞が見つかっていないことから考古学者はレナペ族が大規模な戦争をしなかったと考えている。
 レナペ族がヨーロッパ人の来る何世紀も前から長続きしたのは、彼らが農業と漁業に優れていたからである。レナペ族の女性は三姉妹に加えてタバコ、ヒマワリ、ウリを栽培した。果実や木の実を採集し、多数の薬草を入手した。これは頻繁に使われた。レナペ族は共同体を作物育成期に合うよう、また食事の一部だった動物や家禽の移動パターンに合うよう組織した。作付け期と収穫期には大規模に集まり、共同して働き豊かな生産物を得た。有能な漁師として彼らは季節に従って漁業キャンプを作り、貝やシャッドを網で捕まえた。彼らは網、バスケット、敷布など様々な家事用品を川や海岸で見つかるイグサで作った。住居は東部森林地帯の肥沃な場所に建て、その技術で繁栄と安定を兼ね備えた文明を築いた。17世紀に入植した最初のオランダ人及びスウェーデン人入植者はレナペ族の繁栄を知るや友好関係を結び、彼らに依存した。
 北西部太平洋地帯では、クワキウトル族(Kwakwakaʼwakw)、トリンギット族(Tlingit)、ハイダ族(Haida)など多数の部族が様々な言語を話しながら、温暖な気候、繁茂する森林、数多の川によって繁栄した。この地域では鮭が生存に不可欠であり、それ相応のものとして扱われた。トーテムポール、バスケット、カヌー、オール、その他道具に鮭が描かれていた。魚は宗教的に畏敬され、その図像は繁栄、生命、再誕を表した。持続可能な収穫慣行が鮭の個体数を守った。海岸部のセイリッシ族(Salish)などは、季節毎に最初の鮭を見つけると第一発見鮭のセレモニーを行った。長老達は川を登る鮭をしっかり観察し、十分な数を生んで戻ってくるよう収穫を遅らせた。男達は一般に網、釣り針、その他小道具を使って、卵を産みに川を登る鮭を捕まえた。巨大なヒマラヤスギのカヌーは50フィートもの全長で20人乗れるもので、太平洋へと広い航海が可能だった。熟練の漁師がそこでオヒョウ、チョウザメなどの魚を捕らえ、時には数千ポンドもの漁獲をカヌーに乗せて帰った。
 食料の余剰は人口成長をもたらし、北西部は北アメリカでも特に人口密度が高かった。高密度人口と豊富な余剰食料からユニークな社会組織原理が、ポトラッチ(potlatch)と呼ばれる洗練された祝宴を中心にして生まれた。ポトラッチは生命の誕生と結婚を祝い、また社会身分を規定した。宴は何日も続き、主催者はゲストを食事、芸術作品、パフォーマンスで楽しませることで富と権力を示した。主催者は与えれば与えるほど、集団内での権勢と権力を手にした。何十年も貯めてから豪勢なポトラッチを催し、共同体内部での敬意と権力を得た者もいた。
 北西部太平洋地帯の先住民の多くは、この地域に多いヒマラヤスギを使って厚板の家を建てた。例えばスカミッシュ族(Squamish)の老人の家(OlemanあるいはOld Man House)はプジェット湾の土手に建てられた。巨大なヒマラヤスギの木は動物などの形に彫刻され、また色塗られ、それによって物語が語られ自己アイデンティティが表明された。こうしたトーテムポールは北西部太平洋地帯の顕著な芸術品であるが、他にも仮面や木製品物、例えば手太鼓やラトル、を同地域の大きな木から彫り出している。
 共通性はあるものの、ネイティブ・アメリカンは差異も大きかった。新世界は多様性と対照性に彩られていた。ヨーロッパ人が大西洋を渡ろうとするまでに、ネイティブ・アメリカンは何百もの言語を有し、西半球の多様な気候の中で生きていた。都市生活もあれば、小集団の生活もあった。季節に従って移動する者もいれば、恒常的に定住する者もいた。全てのネイティブ・アメリカンは長い歴史と、数千年かけてよく作られたユニークな文化を持っていた。だが、ヨーロッパ人の到来は全てを変えてしまった。


III. ヨーロッパの拡大 pp.11-16

スカンディナヴィアの船乗り達はコロンブスよりもっと前から新世界に到達していた。東はコンスタンティノープルまで航海、南は北アフリカ定住地を襲撃した。アイスランドとグリーンランドにも限定的な植民地を作った彼らは1000年ごろ、レイヴ・エリクソン(Leif Erikson)に率いられ現在のカナダにあたるニューファンドランドに到達した。だが、古代スカンディナヴィア人(Norse)の植民地は失敗した。文化的にも地理的にも孤立した彼らは、限られた資源、厳しい天候、食料不足、先住民の抵抗によって追い返された。
 その後、コロンブスの数世紀前、十字軍はヨーロッパをアジアの富、力、知と結びつけた。ヨーロッパ人はギリシャ、ローマ、ムスリムの知を再発見ないし採用した。東半球における商品と知識の拡散はルネッサンスを促しただけでなく、ヨーロッパの長期的拡大の原動力にもなった。アジアの商品がヨーロッパ市場に満ち溢れ、新しい商品への需要を喚起した。この貿易は新たに莫大な利益を生み、ヨーロッパ人は互いに貿易の優位性を求めて闘争した。
 ヨーロッパ国民国家は強大な国王の下で強化された。英仏の一連の戦い、つまり百年戦争はナショナリズムを加速させ、国民国家の維持に必要な軍事・財政行政を育成した。スペインではアラゴン王国のフェルナンドがカスティーリャ女王イザベルと婚姻し、イベリア半島の二強国をまとめ上げた。十字軍はイベリアだけで終わらなかった。1492年、スペインが数世紀にわたる断続的戦争、すなわちレコンキスタをムスリムとユダヤ人のイベリア半島からの追放によって決着をつけた時、ちょうどクリストファー・コロンブスが西に航海していたからである。新しい力を得たこれらの新しい国家、あるいは新たに権力を拡大した君主はアジアの富に近づく道を渇望した。
 イタリアの船乗り貿易家は地中海を制し、アジア貿易を掌握した。スペインとポルトガルはヨーロッパの端にあり、ブローカー頼みで割高なアジア商品を購入していた。彼らはより直接のルートを求めた。だから大西洋に目を向けたのだ。ポルトガルは探検にかなり投資した。ポルトガルのサグレシュ半島にある地所は豊かな港で、ここからヘンリー航海王子(Infante Henry)、つまりビゼウ公爵が探索と技術開発に投資し、技術的ブレイクスルーを下支えした。彼の投資は実を結んだのだ。15世紀、ポルトガルの船乗りはアストロラーベ(astrolabe)という緯度を測る器具と、海洋探検に適したカラベル船を完成させた。どちらもブレイクスルーだった。前者は正確な航海を可能にしたし、カラベル船は比較的穏やかな地中海でも貿易に作られた一般の船と異なり頑丈で、喫水が深いため開けた海洋の航海が可能となり、しかも、同程度重要なことに、大量の船荷も積載可能になった。
 経済と宗教が入り混じる動機からポルトガルは15世紀に大西洋岸のアフリカに砦を立てていき、ヨーロッパ人によるアフリカ植民地化の時代の幕開けとなった。ポルトガルの貿易砦は新たな利益を生み、更なる貿易と植民地化の原資になった。貿易場はアフリカ沿岸に広く建てられ、15世紀末までにヴァスコ・ダ・ガマが馬跳びするようにアフリカ沿岸を周り、インドや他の魅力的なアジアの市場に到達した。
 気まぐれな海流の変化と当時の技術的限界から、イベリア半島の船乗りは東のアフリカに押し戻される前に西の海洋に航海せねばならなかった。そうするうちに、スペインとポルトガルはたまたまヨーロッパとアフリカの沿岸から離れたところにいくつかの島々を発見した。アゾレス諸島、カナリア諸島、カーボヴェルデ諸島(Cape Verde Islands)などだ。ここは後のアメリカ植民地化の練習場になり、奴隷労動による最初の大規模な砂糖耕作の場にもなった。
 砂糖は元々アジアで自生していたが、ヨーロッパ貴族が消費する高級品で広く利益を出せる人気商品となった。ポルトガルは地中海沿岸でサトウキビを育てようとしたが、砂糖は生育が難しい作物だった。熱帯気候、毎日の雨、独特の土壌、14ヶ月の成長期間を要した。だが、ポルトガルは大西洋の島々に砂糖生産の新たな土地を見出した。人間と生態系を破壊する新たなパターンが現れた。ヨーロッパやアフリカの大陸から何千年も孤立していたカナリア諸島の原住民はグアンチェ族の名で知られたが、ヨーロッパ人が来るとすぐに奴隷化されるか死に絶えた。ポルトガルのプランターになる者達はこの育てにくい労働集約的な作物を耕す労動者を必要とした。ポルトガル商人はコンゴ、ンドンゴ、ソンガイなどアフリカの強大な王国と友好関係を築いたばかりだったところ、アフリカ人奴隷に目を向けた。奴隷制はアフリカ社会に長く存在していた。アフリカの指導者達は戦争捕虜ー慣習により戦闘で自由を失ったとされたーをポルトガル人の銃、鉄、製造品と交換した。大西洋海岸の基地の中では現在のナイジェリアにあったものが最大だった。そうした基地からポルトガル人は奴隷を大西洋諸島でサトウキビ畑の労働力にするため購入し始めた。こうして大いなる大西洋プランテーションが生まれたのである。
 スペインも航海技術の最先端にいた。スペイン人船乗りはカラベル船の熟達者だった。ポルトガルがアフリカの貿易ネットワーク掌握権と東向きのアジア海洋ルートの周回化を固めていくにつれ、スペインも独自に帝国への道を渇望した。クリストファー・コロンブスはイタリア生まれの熟練船乗りで、ポルトガルの航海士から学び、スペインの野望に応えると約束した。
 教育のあるアジア人と15世紀のヨーロッパ人は地球が丸いと知っていた。また、そやるゆえにヨーロッパから西に進めば理屈上はアジアに到達できる、イタリア人やポルトガル人のブローカーを介さずともということも分かっていた。だが、広大な地球はカラベル船をも飢餓と喉の渇きで滅ぼし、目的地にはたどり着けない運命だった。ところが、コロンブスは地球のサイズを実際の3分の2ほどに見積もっていたので、到達可能と信じていた。いくつかのヨーロッパの王朝への売り込みが失敗した後、彼はスペインのイザベラ女王とフェルナンド国王を説得し、三隻の小型船を支給され1492年出発した。コロンブスは驚くほど地球のサイズを間違えていたが、たまたま巨大な二つの大陸が道中にあるというこの上ない幸運者だった。2ヶ月の10月12日、ニーニャ号、ピンタ号、そしてサンタマリア号が90人の部下と共に現在のバハマ諸島に到達した。
 先住民のアラワク族、あるいはタイノ族と呼ばれる人々がカリブ諸島に分布しており、漁業とトウモロコシ、ヤムイモ、キャッサバの農業で生活していた。コロンブスは彼らを無垢と評した。「彼らはたいへん穏やかで、悪というものを知らないし、殺人や盗みのような原罪も知らない」と、スペイン王室に彼は報告している。「陛下はこの世にこれ以上素晴らしい人々はいないとお考えになるかもしれません…彼らは隣人を自分自身のように愛し、その話しぶりは世界一優しく穏やかで、いつも笑顔が絶えませぬ。」だがコロンブスは富を探しに来たのであり、それは見つからなかった。だがアラワク族は小さな金の装飾をしていた。コロンブスは39人の部下をイスパニョーラに築いた軍事砦に残し、彼がスペインに戻る間金の出所の発見と確保を任せた。12人のアラワク族が捕まり烙印を押された。コロンブスは帰還すると喝采を浴びたが、すぐさま再び航海に出た。スペインの新世界に対する動機は最初から明らかだった。装備一式を支給してくれるなら、スペイン王室に金と奴隷を持ち帰ると彼は約束した。彼曰く、「50人部下がいれば奴らは全員屈服させられますし、命令したことをやらせることが可能になりますよ。」
 コロンブスは17隻の船と千人を超える部下を支給され、西インド諸島へと再び舞い戻った(彼は新世界に4回航海した)。まだ東インドに着いたと信じていた彼はイザベラとフェルナンドの投資に報いると約束した。だが、物質的富の流入が遅いと分かるや、スペインはカリブ諸島から1オンスも逃さんとばかりにありとあらゆる富を搾り取る邪悪な行動に乗り出した。スペインはアラワク族をほぼ滅ぼした。バルトロメ・デ・ラス・カサスは1502年新世界を訪れ、後にこう書いた。「私はこの目で見た、スペイン人がその血塗られた性分を満足させるためだけ、他でもないたったそれだけのために、インディアンの男女を手足や耳を切り落としたのを」奴隷化された先住民が少ない金床を掘り尽くすと、スペインは彼らを巨大化新しい地所で無理やり働かせた。この地所をエンコミエンダ(encomienda)と言う。ラス・カサスはヨーロッパ人の蛮行を残酷なまでに詳しく書いた。原住民に人間性(humanity)はないとみなしたスペイン人だったが、自分達もそれを捨て去った。冷淡な暴力と人間性を削ぐような搾取がアラワク族を滅茶苦茶にした。インディアンの人口は激減した。たった数世代でイスパニョーラ島の住人はいなくなり、完全に滅ぼされた。歴史家の推定では、ヨーロッパ人との接触以前のこの島には100万人に満たないか800万もいたかとされる(ラス・カサスは300万人と推定した)。それが短い間にいなくなったのだ。「将来の世代の誰がこんなことを信じようか?」ラス・カサスは言う。「知ることができる目撃者として書いている私でもほとんど信じられないのだから。」
 ネイティブ・アメリカン人口の多様性といくつかの強力な帝国の存在にも関わらず、彼らはヨーロッパ人の到来に全く備えていなかった。生態的問題もヨーロッパ人の残酷さを増長した。旧世界の家畜動物や免疫獲得の歴史から切り離されていた彼らは、アジア・ヨーロッパ・アフリカで猛威を振るった恐るべき疫病を経験しなかった。だが、この幸運は今や呪いに転じた。ヨーロッパ人やアフリカ人が何世紀にもわたる大感染を経て獲得した免疫をネイティブ・アメリカンは持っておらず、そのためヨーロッパ人が到来した時、天然痘、チフス、インフルエンザ、ジフテリア、はしか、肝炎も持ち込まれ、ネイティブ・アメリカンを壊滅させることになった。戦闘や奴隷制の下で死んだ者も多かったが、感染症こそ山ほど彼らを殺した。ある学者達の推計では、総計でアメリカ両大陸の人口の90%が、ヨーロッパ人との接触から150年で死に絶えたとされている。
 疫病と戦争で滅茶苦茶にされたが、ネイティブ・アメリカンはいわば中洲を作り、暴力で抵抗し、植民地主義の試練に適応し、何百年にわたり新世界のあちこちで生活様式を形成し続けた。だが、ヨーロッパ人は到来し続けた。


IV. スペイン人の探検と征服 pp.16-23
スペインの征服の知らせが広まると、富を飢えたスペイン人が土地、金、権利を求めて新世界に殺到した。新世界帝国がスペインのカリブ海を足がかりに拡大した。動機は単純だ。ある兵士曰く「神と国王に仕え、あと金持ちになるために来た。」傭兵も征服に加わり、競って新世界の人間と物質的富を獲得した。
 スペインはエンコミエンダとして知られる法制度で労働関係を管理した。これは搾取する封建的取り決めで、これでスペインはインディアン労働者を巨大な地所に縛り付けた。この制度ではスペイン王室が個人に土地だけでなく特定の人数の先住民も与えた。エンコミエンダにより地所を得た者はその労働者を酷使した。ラス・カサスがスペインの暴虐を扇動的に描いた著作(『東西インド諸島人の破壊』)を出版した後、スペイン当局は1542年にエンコミエンダを廃止、レパルティミエント(repartimiento)に転換した。より穏当な制度のつもりだったが、実際にはエンコミエンダの暴虐性を多く引き継いでおり、略奪的ですらある先住民搾取はスペイン帝国が南北アメリカに拡大していく中でも継続した。
 スペイン新世界帝国の拡大につれ、スペイン人征服者は中央及び南アメリカで巨大な帝国と遭遇した。それらは北アメリカで見つけた何ものをも凌駕した。中央アメリカではマヤ族が巨大な寺院を建て、大規模な人口を維持し、複雑で長く保たれた文明を築いていた。文字があり、数学は発展し、目玉が飛び出るほど正確な暦を持っていた。だが、滅亡こそしなかったが、ヨーロッパ人の到来より前にマヤ文明は崩壊していた。恐らく旱魃と持続不可能な農業が原因である。しかし、マヤ文明の終焉は西半球に新たなる最も強大な先住民文明の台頭の幕開けを告げたに過ぎなかった。アステカ帝国である。
 メキシコ北部から好戦的な移住者としてやって来たアステカ族は南進してメキシコ峡谷に入り、道行く先々を征服し、新世界最大の帝国を作り上げた。スペイン人がメキシコに着いた時、彼らはテノチティトランを中心に不規則に広がる文明を見つけた。現在のメキシコシティ内に入るテスココ湖のど真ん中にあった自然・人工の島々の上に建てられた、畏敬の念を抱かせる都市だ。1325年に出来たテノチティトランは世界最大の都市に引けを取らなかった。この都市の大半は人工島(chinampa)の上に建てられた。この島は泥と豊かな沈殿物を湖底からさらい取り、それらを長い時間置いて土地の光景を新しくした。巨大なピラミッド型寺院(Templo Mayor)が都市中央にあった(今でもその遺跡がメキシコシティ中央にある)。到達したスペイン人は目の前の景色をほとんど信じられなかった。7万もの建物があり、恐らく20万から25万人を擁し、それらは全て湖の上に建てられていて、水路と運河でつながっていた。ベルナル・ディアス・デル・カスティリョというスペイン人兵士が後年回想して曰く、「とてもたくさんの都市や村が水上に、他にも大きな街が乾地に建てられていたのを見た時、我々はたいへん驚いてまるで魔術だと口にした…兵士の中にはその景色が夢ではないかどうか尋ねる者もいた…どう説明すべきか分からない。今まで見たことも聞いたことも、夢見たこともないものを目にしたのだから。」
 テノチティトランからアステカ族はメソアメリカ中部と南部を広く支配した。定期的に貢物をして服属する部族らの非集権的ネットワークを通じた支配だった。貢物はトウモロコシ、豆、その他食物など最も基本的な品物から、ヒスイ、カカオ、金のような高級品まであった。また、軍人も貢いでいた。だが、アステカ帝国の足元では動揺が進みつつあり、そこへヨーロッパの征服者が巨万の富を求めてやって来た。
 エルナン・コルテスは34歳の野心溢れるスペイン人で、キューバ征服で豊かになり、1519年にはメキシコ侵攻を組織した。600人の部下、馬、大砲と共に航海したコルテスはメキシコの海岸に到達。先住民通訳のドーニャ・マリナを頼りに(メキシコ民衆は彼女をラ・マリンチェ[訳注:malinchista「外国勢力に味方する」に由来か]と非難している)、コルテスは征服の準備で情報と味方を集めた。計略、暴虐、そして深刻な政治分裂の利用を通じて、彼は数千人もの先住民の味方から支援され、スペイン人競争相手を打ち負かし、テノチティトランに進軍した。
 説得と、恐らくアステカ族の中にはコルテスをケツァルコアトル神と思った者もいたため、スペイン人は平和的にテノチティトランに入った。コルテスは帝王モンテズマを捕らえ、アステカの金銀貯蔵庫と鉱山ネットワークの掌握権を得るため彼を利用した。結果的にアステカ族は反乱を起こした。モンテズマは裏切り者扱いされ、反乱者は街に火をつけた。モンテズマはコルテスの部下の3分の1と共に殺された。この出来事を「悲しみの夜(la noche triste)と言う。スペイン人は多数の地元反乱民を押し退け運河を渡りテノチティトランを脱出すると軍を再結成し、より多くの先住民を味方につけ、スペイン人増援を捕らえ、1521年にはテノチティトランを包囲した。85日に渡る包囲戦は食料と新鮮な水を枯渇させた。しかも天然痘が街に吹き荒れた。あるスペイン人曰く、それは「大いなる破壊として人々を襲った。身体中が疱瘡に覆われた。顔、頭、胸などだ。凄まじい荒廃もあり、大勢死んだ…動けないし、目を向けることもできなかった。」コルテスや部下のスペイン人、それに味方の先住民はテノチティトランを略奪した。寺院も略奪され、1万5千人が落命した。2年にわたる戦いの末、百万人の帝国は疫病、政治対立、千人のヨーロッパ人征服者によって転覆されたのだった。
 さらに南へ、南アメリカのアンデス山脈に沿って進むと、ケチュア族、又の名をインカ族、が広大な山脈帝国を運営していた。アンデス高地にある首都クスコから、征服と交渉を通じて、インカ族族は現在のエクアドルからチリ中部及びアルゼンチンに至る、南アメリカ大陸の西半分に広がる帝国を打ち建てた。彼らは山の側面に段丘を切り開き、肥沃な土壌で農業をした。そうして1400年代までに千マイルに及ぶ、恐らく1200万人もの人々を結びつけたアンデスの道を管理した。だがアステカと同様、インカ族と被征服民の間に生じた動揺は緊張関係をもたらし、インカ帝国は侵略者に弱くなっていた。天然痘が1525年、スペインの侵略前からインカ帝国を直撃した。伝染病は人々の命を荒らし回し、人口は半減、帝王ワイナ(Huayna)・カパックとその家族の大半も病死した。後継者争いは激しい戦争になった。コルテスのメキシコ征服に刺激を受け、フランシスコ・ピサロは南に進むと混沌に引き裂かれた帝国を発見した。168人の部下を引き連れた彼はインカ帝国の指導者を騙し、帝国の支配圏を握ると首都クスコを1533年に確保した。疫病、征服、奴隷制がインカ帝国の残骸を吹き飛ばしてしまった。
 メキシコとペルーを征服して、スペインは新しい帝国を樹立した。広大な行政体ヒエラルキーによって支配された。王室から任命された者が広大な領地とインディアン労働者を監督し、役人が金銀の採掘を統制し、またガレオン船で太平洋を渡り金銀を輸送するのを管理した。一方、スペインから移住者が新世界に押し寄せた。16世紀だけで22万5千人が移住し、3世紀に及ぶスペイン植民地支配全体で75万人が移り住んだ。スペイン人移住者は多くの場合若い独身男性で、土地、富、社会的上昇と様々なものを求めてやって来た。労働者、職人、兵士、事務員(clerks)、聖職者が大勢太平洋を渡った。だがインディアンは常にスペイン人より数が多かったので、スペイン人は必要にかられて、あるいは意図して彼らを植民地の暮らしに取り込んだ。しかし、この取り込みは平等を意味しなかった。
 精緻な人種階層が新世界におけるスペイン社会の特徴だった。中世の慣行を起源とするが制度化されたのは1600年代半ばの血統制(Sistema de Castas)が人々を、「純血性」とされるものによって様々な人種集団へと編成した。スペイン植民地社会では精密な階層群が社会的・政治的上昇の必須条件だった。イベリア半島人(Peninsulares)が政府の最高レベルを独占し、最大の地所を誇った。その子孫である新世界生まれのスペイン人はクリオーリョ(criollos)と呼ばれ、次に高位の地位を占め、イベリア半島人に富と機会の点で匹敵した。後に続いたのがメスティーソ(mestizos)で、スペイン人とインディアンが混淆した人を指した。
 後の北アメリカにおけるフランスのように、スペインは人種間婚姻を許容し、時に支持さえした。単にスペイン人女性が新世界に少なすぎて、純スペイン人を保つ自然成長率を維持できなかったのだ。カトリック教会は人種間婚姻を庶子問題や強姦への倫理的防波堤として擁護した。1600年までにメスティーソは植民地人口の大部分を構成した。1700年代初頭までに、全体の3分の1よりも多くの婚姻がスペインとインディアンの溝を埋めた。イベリア半島人とクリオーリョから富と影響力によって切り離されたメスティーソは、典型的にはスペイン新世界社会の中間的地位を占めた。彼らは完全にはインディオではなかったが、純血(limpieza de sangre)ではなかったので純血のスペイン人から外された。十分な富と影響力のあるスペイン人の父はメスティーソの子を人種偏見から守った可能性があるし、裕福なメスティーソの中には家系を「白くする」ためにスペイン人と結婚した者もいたが、彼らはスペイン新世界の中間的地位に閉じ込められる方が多かった。奴隷とインディアンは社会の梯子の最下層を占めた。
 多くの人々が血統制を、自身と子供のために利益を得るよう巧みに利用した。例えばメスティーソの母親はメスティーソの娘を実はカスティーサ(castizas)、すなわちインディアンのクォーターだと主張し得た。もしその娘がスペイン人と結婚すれば、法律上は「純粋な」クリオーリョの子供を産むことになり、その子はスペイン人と同じ完全な権利と機会を得られるのだ。だが「通り抜け」(passing, [訳注:生まれによって規定される人種と実際の肌の色から判別される人種が異なっている者が、その肌の色によって人種の壁を通り抜けること])はごく僅かの者だけの選択肢だった。スペイン新世界帝国の大多数の先住民は文化・人種混淆(mestizaje)を、英領北アメリカを凌駕するレベルで行なった。西領北アメリカは完全にスペインでも完全にインディアンでもないハイブリッド文化を形成した。スペインはテノチティトランの上にメキシコシティを建てただけでなく、食事、言語、家族も原住民の基盤を元に作り上げた。1531年、フアン・ディエゴという貧しいインディアンが語るには、彼の元に聖母マリアが訪れたのだが、マリアは肌黒くナワ語を話すインディアンだった。メキシコ中に奇跡の話が飛び交い、グアダルーペの聖母(Virgen de Guadalupe)が新たなるメスティーソ社会の国民的アイコンになった。
 メキシコからスペインは北進した。金と別のテノチティトランが約束されているとして惹き寄せられたスペイン人は北アメリカで別の豊かなインディアン帝国を探し回った。あたかも動く広大な共同体のような大規模探検隊が結成され、数百人の兵士、開拓者、聖職者、奴隷から構成されていた。膨大な数の家畜を引き連れて彼らは北米大陸を動き回った。フアン・ポンセ・デ・レオンはプエルトリコの征服者で、1513年フロリダに到着し富と奴隷を探し求めた。アルバル・ヌーニェース・カベサ・デ・バカはナルバエスのフロリダ探検隊に10年経って加わったが難破し、メキシコ及びテキサス湾を通ってメキシコに至る目覚ましい旅を数年に渡り強いられた。ペドロ・メネンデス・デ・アビレスは1565年フロリダにセントオーガスティンを建てた。この街は今でも、継続的に支配されてきたヨーロッパ入植地のうち、現在の合衆国の中で最も古い都市である。
 だが、メキシコの豊かな金銀鉱山、プランテーション経営に適した気候のカリブ諸島、あるいは搾取できる潜在性を秘めた巨大なインディアン諸帝国に当たるのがなく、北アメリカはスペインの官吏にほとんどインセンティブをもたらさなかった。それでも、スペイン人探検隊は北アメリカを虱潰しに調べた。フランシスコ・バスケス・デ・コロナードは南西部を略奪して回った。エルナンド・デ・ソトは南東部で拷問、強姦、奴隷化をして回った。まもなくスペインは、どれだけ弱くとも北米中に足掛かりを得たのだった。


V. 結論 pp.23-24
アメリカの「発見」は悍しい出来事をもたらした。殺人、強欲、奴隷制をもたらした破壊的搾取と死という堕落した道にヨーロッパ人は乗り出した。だが、疫病はヨーロッパのいかなる武器庫よりも致命的だった。人類史で前代未聞の規模で大量の死者が出た。コロンブス以前のアメリカの人口推計には幅がある。1億人いたとする者もいれば、200万人と低く見積もる者もいる。1983年にはヘンリー・ドビンズが1800万人という数値を打ち出した。正確な推計が何であれ、ほぼ全ての学者がヨーロッパの疫病のもたらした大破壊を語っている。ドビンズの推計では1492年から最初の130年で95%のネイティブ・アメリカンが死に絶えた(ヨーロッパの黒死病の死亡率は最悪でも25-33%だった。このアメリカ先住民人口への大災害に匹敵する歴史事象はない)。一万年の疫病の歴史が新世界に一瞬でのしかかったのである。天然痘、チフス、腺ペスト、インフルエンザ、おたふく風邪、はしかが一気に襲い掛かった。パンデミックが南北アメリカの人々を荒らし回った。絶え間ない疫病の波が押し寄せた。疫病は共同体全体を混沌に陥れ、完全に破壊し尽くすこともあった。
 疫病は東西半球の暴力、文化、貿易、民族の交換、いわゆるコロンブスの交換の中で最も恐るべきものだった。例えば世界の食事が変化した。アメリカのカロリー豊富な作物は旧世界の農業に革命を起こし、世界的な人口ブームをもたらした。現代の食物と地理の繋がりの多くはコロンブスの交換の産物に過ぎない。アイルランドのジャガイモ、イタリアのトマト、スイスのチョコレート、タイの胡椒、フロリダのミカンは全てこの新しい世界的な交換の現れである。一方、ヨーロッパ人は家畜を新世界にもたらした。豚は南北アメリカで栄え、両大陸に広がると景色を変えていった。馬も普及し、これに適応したネイティブ・アメリカンの文化を変化させた。貿易、ヨーロッパ人による失敗した探検の残骸、そして盗みによってインディアンは馬を手に入れ、広大な北アメリカの平原における彼らの生活を変容させた。
 ヨーロッパ人の到来は二つの世界を繋いだが、それまでの一万年はベーリング海峡の封鎖以来互いに独立していた。どちらの世界も変容した。もはや元に戻ることは叶わなかった。

第一章 完

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