小説 深夜の古本屋
終電を逃してタクシーで帰るほどのお金もない。徒歩で帰るかと悲壮な決意を固めていると、こんな深夜にも関わらず古本屋が開いていた。
店名を見た。吉武書店。すぐ、大学の同期の吉武君を思い出す。そういえば彼は、おじいちゃんの後を継いで、古本屋を始めていたのだ。
あとはどうせ家に帰るだけだし、久闊でも叙しますかということでお店に入る。硝子戸を引くと、帳場に座って何やら本の値付けをしている吉武君が顔を上げる。
「げっ。北見さんじゃん」
「げっとはなんだ。終電を逃しちゃったから、冷やかしに来たよ」
すると吉武君は諦めたように、
「どうせ深夜はお客さん来ないから、好きにしてていいですよ」と言った。
十二時を過ぎた古本屋にはたしかに人がいない。それなりに広い店舗だとはいえ、なんだか寂しい感じだ。
「なんで終電を逃しちゃったんです」
「就職に失敗したゆかいな連中で集まってお酒を飲んでたんだよ。大いに盛り上がっているうちに、最後の電車が行ってしまったんだ」
「かわいそうに。そこの均一棚から、なにか一冊プレゼントしてあげますよ。就職失敗祝いに」
「就職失敗祝いってなんじゃい」
それでも吉武君の好意に甘えることにして、文庫本を一冊選んで帳場に持っていった。
傍らのノートパソコンに何かを入力しているらしい吉武君を見ながら、
「そもそもお店、なんで夜にやってんだっけ」
「昼間はまだおじいちゃんがやってんですよ。だからおれは夜だけやって、まあ修行みたいなもんです。そのうちおじいちゃんが働けなくなったら深夜営業はおしまいにしようと思うんですけど」
「けど」
「深夜の古本屋ってのもなかなかいいもんなんですよ。おれは結構、この時間のこの場所が好きかな」
吉武君が耳を澄ますように口を閉じたので、わたしも釣られて耳を澄ました。
今日はもともと静かな晩で、お店まで歩いてくる最中も、町はひっそり閑としていた。だからだろうか、店内は本当に静かで、どこかで動いてる空調のほかには、何の物音も聞こえない。
「雪の降ってる日に外が静まりかえっているみたいに、深夜の古本屋って何の音もしないんですよね。おれ、昔から夜型だったんで、夜だけ働ければいいなと思ってたんだけど、まあ夢がかなったみたいなところはあります」
「いいなあ」
「よかったら、座ってください」と椅子を持ってきてくれる吉武君。
「いいの?」
「席代ってことなら、コンビニで飲み物でも買ってきて」
「はいよ」
コンビニで飲み物を買ってきて、吉武君にもひとつ渡してあげる。椅子に座って、もらったばっかりのコクトーの文庫本を読んだ。
こんな深夜に本を読んだら眠ってしまいそうなものだけれども、普段と違う環境のせいか、妙に目が冴えて読んでいくことができた。なるほどこれはなんというか、本好きには素敵な環境だなと思っていると、その時だった。
お店のどこかの片隅から、鳥の鳴くような幽かな音が聞こえてきた。顔を上げる。
「鳥でも飼ってるの」と尋ねると、
「いや、たまにあるんです。知らない音がするの」
「怖」
「たぶん、古本からしてるんだと思います」
「そんな、お化けみたいな」
「まあ話半分に聞いてくれていいんですけどね」と少しためらいながら吉武君は言った。
「古本って、古いものってなんでもそうだけど、来歴ってものがあるわけじゃないですか」
「うん」
「新品ってわけじゃなくて、誰かの手を伝って、誰かの家の本棚に一回収まって、誰かの家の空気を長い間呼吸してきた本ってやっぱり、ちょっと新品の本とはなんか違うんですよ。雰囲気がある、気配があるっていうの?」
「ははあ。そういう話」
「そ。そういう話です。だから最近じゃ、店の中で何かあっても、あんまり驚かないようにしてます」
「怖いことはないの?」
「まあ、慣れました。別にお化けが襲ってくるってわけでもないですしね」
肩をすくめる吉武君。嘘かまことかわからないけれども、と考えて、いや、きっと嘘ではないのだろうと思い直す。
古本屋の中の、たくさんの家の空気に浸ってきた本たちの空気に、わたし自身が浸っているせいかもしれないけれども、不思議と吉武君の言葉を否定する気持ちにはならなかった。
幽かな物音に耳を澄まし続けるような気分で本を読んでると、やがて硝子戸の外が明るくなってくる。ちょっとだけ、外に頭を出しながら、
「夜が明けるとこなんて見るの久しぶりかも」
「この仕事やってれば毎日ですよ」
「悪かないね」
「北見さんもアルバイトするといいですよ、うちで」と声をかけてくれる吉武君。
「うーん、考えておくよ、本当に」
本当に、考えるつもりだった。この場所の、深夜の古本屋の居心地があんまり良かったものだから、そんなことを考えてもいいと思えてきたのだ。
「じゃ、また来てくださいよ、夜に。暇なんで」
「やっぱり暇なんだ」
「今度はちゃんと本を買ってくださいよ」
「うん」
本の鳴いてるところも、また聞きたいしね、と思いながら外へ出て行くと、朝も早くから出勤するサラリーマンたちがちらほらと、足早に歩いていくのが見えた。
彼らの一人になれなかったわたしは、これまでは取り残されたような気持ちで眺めていることしかできなかったのだけれども、もしどこにも就職できなかったら吉武君に雇ってもらえばいいかという、妙にすがすがしいような気持ちのせいか、今は達観して見ていられる気がしたのだった。