小説 人食い虎の妹と

 人食い虎になってしまった妹と一緒に暮らしていた。
 人食い虎になってしまったからにはもちろん人間を食べなくてはいけない。それでわたしは定期的に人間を持ってきていた。
「ただいま、ごはんだよ」 
「お兄ちゃんありがとう、そこに置いといて」と妹。
 わたしは一旦部屋を出て、妹が人間を食べているところを見ないようにする。
 がぶがぶがぶという音だけが聞こえてくる。それが人間がひとりいなくなっていくときの音だ。がぶがぶがぶ。
「ごちそうさま」とふすまを開けてこっちの部屋に来ながら妹。口元にはまだ真新しい血が付いていて、わたしは畳を拭かなくちゃなあと少しばかりうんざりしながら「そりゃよかったよ」と言った。なにがよかったのかはわからないけれども、でも心底そう思っていた。

 そんなふうにして日々を送っていた。けれども、そろそろと官憲の捜査の手が及んできてしまう。
 ある朝、唐突にインターホンを鳴らされたわたしは、寝ぼけ眼をこすりながらドアを開けた。
「ここに人食い虎が棲んでいるという通報がありまして」
 しかつめらしい顔をした警官が言う。わたしは対抗するように肩を竦めた。
「仮にそんな虎が棲んでいたとして、まずわたしが食べられちゃうじゃないですか」
「それはそうかもですね」
 警官はわたしたちの部屋の中をわざとらしく大げさに覗きこんでから、「もし虎の情報がありましたら、すぐに通報してください」と帰っていった。危ないところだった。妹には、襖の向こうからでてくるなとは言ってあるのだけれども、本当に警察が妹を探す気になったら、たちまち見つかってしまうだろう。
 いっそのこと、この手で殺してあげたほうがいいのではないか、と思いながら妹を見る。保健所の、なんというガスか知らないガスで殺されてしまうよりは、わたしの手で殺してあげたほうがよいのではないか。
 立ち尽くすわたしを見ないまま妹は「お兄ちゃん、早く次の人間を食べたいな」と言った。

 ある晩のことだ。
「お兄ちゃん、おさんぽに行きたいな」
 それで二人で外に出た。夏から秋に変わる頃の謐かな晩だった。魂が衣替えをして、なにを見ても哀しくなってしまうようになる季節の晩。
 人気のない住宅街を音を立てずに歩いていると、妹は、
「お兄ちゃん、わたしを殺すの」と尋ねてきた。
 とっさに、わたしは喉の下を撫でてやった。妹はぐるぐるっと喉を鳴らして地べたにごろんと横になった。そうしていればいい。そうしていればいつまでもおまえは無害な猫科の動物だ。おまえが誰かを傷つけるなんてことはありえないんだ。傷つけるのはわたしだけ。わたしだけが人間を誘拐し、人間を食べやすいように加工し、ご飯としておまえのところまで持ってきている悪人なのだから。
 おまえはなんにも悪びれる必要なんてないんだよ。
「そんなわけないだろ」
「お兄ちゃんに殺されるのだったら、わたしは構わないよ」と残酷なことを妹は言った。わたしは首を縦に振るわけにはいかなかった。空が光った。雷が空のどこかで放電したらしかった。わたしは音を聞かなかった。雷鳴はしない。
 わたしがなにも言わないでいるのを見て取ると、妹は自分の懐を漁って「ピストル」を取り出してきて、 
「はい」と何気ない調子でこちらに渡してきた。まるで食卓の向こうにある醤油差しを取ってくれといって、取ってくれたような塩梅でピストルを渡してきた。わたしは動揺する。
「こんなもの、どこで手に入れたんだい」
「ピストル屋さんで買ってきたんだよ」と妹。
 虎にピストルは売ってくれないだろうと思ったけれども、でも虎がピストルを買いに来たら、まともな神経の持ち主だったら震え上がってひとつやふたつ売ってしまうかもしれなかった。そういうこともあるだろう。
 ややあってからわたしは、妹の頭にピストルを突きつけた。
 妹の懐に入っていたピストルは鉄の塊なのにぬくぬくしていて熱いぐらいだった。どうしてそんなに熱いのだろうとわたしは思った。少し遅れて、その熱さは妹の熱さなのだということに気がついた。冷たいままだったらよかったのに。そうしたら、なにもかもつらいことを、みんな忘れられるような気がしたのに。
「なんかあるかい、言い残すこととか、辞世の句とか」
「ないよ。お兄ちゃんのことは大好きだよ。それぐらいかな」と妹。獣の顔に笑顔を作れるはずはないけれども、虎は笑顔を作っていたような気がした。 
 わたしは歯噛みした。お腹から嫌な味の液がどんどん分泌されていった。
 その時だった。遠くでホトトギスの鳴く声が聞こえた。はっとした。その声がふしぎと脳に染み入るように聞こえてきた。
 夜明けは遠い。そんな直感が脳裏をよぎる。わたしたちはずっと、この夜の路地の中に取り残されるのに違いない、そんな予感が、幾度も幾度も脳裏をよぎった。
 わたしはゆっくりと、ピストルを下ろした。
「お兄ちゃん」 
「なにも言わないでくれ、妹よ。わたしたちは散歩をしに出てきたんだ。それだけなんだよ。わたしたちはなんにも話さなかったんだ」
 妹はなにも言わなかった。そのことが、わたしにとって慰めだったのか、それともなによりも雄弁な罵倒だったのかどうかはわからない。
 帰路についた。わたしたちの長い影が舗装されていない道路のでこぼこに反映して、影は歪んだり伸びたりした。レモンイエローに光る妹の毛並みが、夜半に、蛍光灯のように輝いていた。