君の声は最後まで聞こえる 4.

 玉野の葬式の終わった後、私はきよの部屋できよと一緒にいた。
 きよは泣いていた。
 玉野はきよの友達でもあったからだ。私はきよを慰めながら、きよって結構友達いるなって思っていた。友達がたくさんいるのって、どんな気持ちなんだろう。人間関係を管理したり整理したりするのが大変じゃないのかなって思ったりしていた。私には分からないけれども、でも友達はたくさんいるほうが、つまらなくなくていいってきよはきっと言うんだろう。私には分からない。私にはあんまり友達はいない。知り合いなら、そこそこいる。でも友達はあんまりいない。
 きよは、もしも私が殺されてこの世からいなくなってしまっても、きっと誰か、きよのことを慰めてくれるんだろうなって思う。それだけはちょっと、私は、うらやましかった。
「恵美ちゃんはね、私の誕生日に、フクロウのぬいぐるみをくれたんだよ」
 きよが言う。
「いつの話?」
「小5」
「そんなに前なんだ」
「うん」
 遠い昔のことのようだ。十二歳か十一歳のころのことだから、四、五年前。でも玉野にとってはもう十五年も前。良子にとっては七年も前。私にとっても、本当は、きっとそれぐらい前。
「ベッドの下のぬいぐるみの秘密基地の中に今でも並んでいるんだよ」
 そのぬいぐるみの秘密基地のことは私は知っている。きよはぬいぐるみというか目鼻のついたものを捨てられない類いの人間で、捨てられないものはみんなその秘密基地の中に収めているのだった。
 私はきよのベッドの下をちらっと見る。その下にいるたくさんのぬいぐるみたちのことを思う。私ときよはずっと昔にそのぬいぐるみで遊んだのだ。ぬいぐるみの家を作り、ぬいぐるみの家族を作り、ぬいぐるみの国を作った。そのストーリーのいくつかを、私は今でも覚えている。
「恵美ちゃんはフクロウのぬいぐるみをくれたんだよ」
「それ、今聞いたよ」
「依ちゃん、依ちゃんは死なないでね」
 きよが急にそんなことを言うのでどきっとする。きよが私と玉野が話したことや、私たちを狙っているかもしれない殺人者のことを知っているとは思えなかったから、たぶんこれは本当に本心からきよが思っているだけのことなんだろう。私はきよの頭をぎゅっと抱き寄せる。本当に、私のことを思って言ってくれてるんだって思えるから、私はきよがかわいそうになる。
「うん、たぶんね」
「たぶんじゃ困るんだよ」
「うん、たぶん」
「たぶんじゃ困るんだよ、私の友達、もう依ちゃんだけなんだよ」
「うそこけ」
 私は苦笑する。あんたにはたくさん友達いるでしょ、と思う。
「ほんとだよ、もう依ちゃんだけなんだよ」
 きよがどこか切実な調子でいう。私は繰り返し、しょうもない嘘を吐かないでよきよって思う。私なんかよりずっとみんなから好かれているあんたが、私だけしか友達がいないなんてこと、ないでしょ、って。
 言いかけて、ハッとする。
 宝船ちよ。
 五十嵐公乃。
 串良良子。
 そして玉野恵美。
 彼女たちみんな、きよと仲の良い女の子だ。
 どうして今まで気づかなかったんだろう。どうしてきよが彼女たちが死ぬたびに泣いていたことを、きよの交友関係が広いだけって思ってしまったのだろう。
 彼女たちが死んだのは繰り返しに気がついたからだと私は思っていた。でも、そうではなかったのか? 彼女たちの共通点って、まさか、きよの友達だと言うことなのか?
 きよがまた泣き始める。「ほんとだよ、依ちゃんしかいないんだよ」って繰り返し言う。泣きながら私のことを抱きしめる。
「きよ、離してよ」
「いやだよ、依ちゃん」
「死なないよ、私は」
 言いながら、血の気が引いていくのを感じる。
 きよの友達なのか? 殺されていたのは、気がついているからとか、犯人の邪魔をしているからとかではなくて、“きよの友達”という条件だったのか?
 でもなぜ? どうしてきよの友達が殺されるのだ?
「死んじゃうから、いつか死んじゃうから、みんな」
「私は死なないよ、きよ」
 私は、きよの震えがうつってしまったように手が震えてきて、でも、どうすることもできない。
 次に殺されるのは私なのか? 誰に? 何のために? 私がきよの友達だから殺されるのか? きよが関係している人間だから殺されるのか? それとも――
 繰り返しときよは、何か関係しているのだろうか?
 考えたくはない。考えたくはないけれども、でもそれは、可能性としては、十分くらいにありえることだ。
 私の肩に額を押しつけて泣いているきよが、急に、遠くなってしまったような気がする。誰かがすぐ近くにいるのに、その人がぜんぜん、いなくなったような気がすることを、私はもうずっと昔、お父さんとお母さんが離婚をしそうなときの家の中でしか、体験したことはない。あのときはだれもいなかった。家の中にだれもいなくて、私はだから、家の中にいたくなかったから、ずっときよと一緒に遊んでいた。依ちゃん、明日もうちに来ていいよってきよは言ってくれた。迷惑そうな顔もしないで、ずっとうちに来ていいよって言ってくれた。あのとき、きよが私とずっと遊んでくれたから、私は今の私があるって思っていた。後年、どうして私と遊んでくれたのって、ばかみたいな質問をしたことがある。依ちゃんのことが好きだから、友達だからって言ってくれたことを、私はたぶん、ずっと忘れないだろう。
 だから、きよが今、遠くなってしまったみたいに、私の肩で、離れてしまったみたいに泣いているのが、私はすっごく、いやだった。
「きよ」
「なに?」
「前も聞いたけど、もう一回聞くね」
「うん」
 きよのあごの形を、耳の形を肩で感じながら、私は聞く。
「もしさ、いま。ああ今じゃなくて、みんな、きよの友達が、まだみんな生きていたら」
「うん」
「夏休みがさ、ずっと永遠に続いたら、きよはどう思う? 楽しい?」
「え? そんなの」
 一瞬の間のあと、いつもの、完璧にいつもの調子で、きよは言った。

「最高じゃん、依ちゃん。いつまでも夏休みが、終わんなかったらさ」

 きよなのか。
 この世界を繰り返させているのは、平河きよなのか。
 私の頭がぐるぐるになる。
 きよのベッドの下の秘密基地の、たくさんのぬいぐるみたちを見る。フクロウ、ネズミ、猫、犬、虎、うさぎ、宇宙人のカエル、オオサンショウウオ、日本カワウソ、ジャコウネコ。たくさんのたくさんのぬいぐるみたち。
 私はそれらを見る。すべての世界が何回繰り返していても、変わらないぬいぐるみたちを見る。この世界があと百回、あと千回、繰り返しても、彼らは変わらないだろう。変わらないから、ぬいぐるみはいつまで経っても変わらないから、だから繰り返させても、きよは平気なのかもしれない。
 そんなこと、思いたくも、考えたくもないのに、私は考えることを止められない。きよのせいで、きよのせいで何もかも、繰り返しているんだとしたら、私は――


 帰り道、もう夜になっていて、きよは泊まってってって言うけれども、私はいろいろと頭がおかしくなって痛くなってきて、いったん帰るねって言う。それからまた明日会おうねって言う。
「明日、必ず会おうね」
 私は、でも、もしかしたら明日までに、誰かに殺されてしまうかもしれないけれども、って、半ば冗談めかして、半ば本気で、口には出さずに思ってしまう。
 今日は、八月三十一日日曜日。私にとっては十回目の繰り返し。十回目の八月最終週。でも、玉野恵美にとっては五百回目の、良子にとっては三百八回目の繰り返し。
 繰り返しが続けば、今日の午前零時には、私は十一回目の繰り返しに突入するだろう。
 そうしたら、私はまた夏休みの最後の週を始めるだろう。
 そうしたら、私はまた、きよと一緒に夏休みを過ごして、図書館へ行ったり、喫茶店へ行ったり、海へ行ったり、都内へ行ったりして過ごすのだろう。もう、きよの友達は私しかいない。だから、きよをほかの用事で、ほかの友達に取られる心配はないだろう。私はきよといつまでも過ごすことができるだろう。子供の時みたいに、心置きなく。
「依ちゃん、送ってくよ」
 玄関でクロックスを履いていると健兄の部屋から健兄が出てきて、もう夜だからか心配して言ってくれる。私はうれしくなる。正直、ちょっと心配だったから、健兄がついてきてくれることはすごくうれしい。
 ドアを開けるとさっきまで雨が降っていたせいか湿気がものすごい。私は振り返ってきよに手を振る。きよは不安そうに手を猫みたいにして振る。
「依ちゃん、ごめんね、きよのやつ、不安定だったでしょ」
「しょうがないよ」
 しょうがない、と心底思う。仮にきよが本当の黒幕だったらとか、そういうことを全部置いておいたとしても、そう思う。みんな死んでしまったのだから、友達が死んでしまったら、人は不安定になってしまうし、そしたらそれを元に戻せるのは時間だけなのだ。きよにはたぶん、もっとたくさんの時間が必要なのだろう。たくさんの、無数の、数え切れないほどの、時間。
「依ちゃん、ちょっと寄り道していい」
「いいよ」
 健兄と一緒に歩く。中学生ぐらいの頃、きよに内緒で健兄と手つないでお祭の屋台を一緒に歩いたことを思い出す。ビニールの屋台を照らす白熱球。べっこう飴。金魚すくい。健兄は私にリンゴ飴を買ってくれる。私は本当はたこ焼きが食べたかったけど、健兄は気が利かないから、リンゴ飴を買ってくれて、私が喜ぶところを見たがった。私は少し喜んだけれども、本当はたこ焼きが食べたかった。とはいえ、健兄におごられることはなんであれ嬉しいから、嬉しかったことを。
 たぶんその時から、私はちょっと健兄のことが好きなのだ。あのときは確かまだ、健兄は病気にかかっていたりはしなかった。中学生の二年か三年ぐらいで、きよから病気の話を聞いたから、たぶんまだ健兄は健康だったのだろう。あれから長い時間が経って、健兄はその時よりはずっと痩せてしまった。骨だけになった鴉のよう。
 でも、とふと思う。同じ時間を繰り返している限りは、健兄の病状って悪くなったりしないのだろうか。
 仮に三百回、五百回、繰り返している彼女たちの言葉が本当だとすると、その間、健兄の病状は悪くはなっていない――死なないことを最低限のラインとすれば、だけれども――のだから、繰り返している限りは、おそらく、何かとてつもない刺激でもない限りは、健兄は死なないでいてくれるのだろう。そうだとすると、同じ時間を繰り返すことは、健兄のためにもなるということになるのだろうか。
 さっきの考えが甦る。殺されてしまっている人たちはみんな、きよの友達ではないかというところと、今の思考が繋がってくる。
 もしかすると、仮にきよが時間を繰り返している張本人なのだとしたら、健兄が死なないように、病状が悪くならないように、時間を繰り返しているということは考えられないだろうか? 健兄が死なないように、いつまでも永遠に生きられるように?
 考えられないことじゃない、と私は思う。
 夏の夜。蝉が鳴いている。かすかに離れた海の匂いがし、私は海が見たいなと思う。どこかで夏祭りがあるのか、盆踊りの太鼓のかすかな響きが夜の中にしていた。
 歩きながら健兄が、「どこから話したらいいかな」なんて、ちょっと重たいような雰囲気で言う。私はどきっとする。時間の繰り返しについて考えて、誰が犯人だなんて、そんなことを考えてばかりいたから、私は「なに、重たい話?」とわざと冗談めかして明るく言う。
 健兄はすぐには答えない。歩きながら、どんどん人気のないほうへ向かっていく。
 川のそば、町工場が一杯あるようなところ。昼間はもちろん人が働いているけれども、夜になると人気がなくなって、誰もいなくなるようなところ。川は堤防で遮られているから見えなくて、空と比較して真っ黒な塊があるからそこに堤防があるんだということが分かる。舗装がなくなって私はクロックスで来ているから、ベルトの当たっている足の甲がちょっと痛い。
「健兄、足痛い」
「重たい話。すごく」
 健兄は言う。私は眉間にしわが寄る気分になりながら、うなずく。
「前にさ、依ちゃん、聞いたよね、もしこの世界が繰り返してたらって」
「え? あっ、そうだったかな、どうかな」
 どきっとする。このタイミングでそれを聞くのかと思う。
 でも、かえってこのタイミングだからなのだろうか。もしかすると健兄も気が付いているのだろうか。殺された人たちが、きよの大切な人たちだと仮定するなら、もしかすると健兄だって狙われているのかもしれない。だとしたら、私たちは気をつけないといけないし、なおさら、こんな人気のないところにいてはいけないんじゃないかと思う。
「うん、言った、もう忘れた? 依ちゃん、記憶力」
「うっっさいなあ」
 私は努めて明るく言う。それからちらちらと周りを見て、人気がないな、あそこの木の陰が暗くて怖いな、犯人がいそうだな、ってはらはらする。それに幽霊がいるかもしれない。
「ひひ、もしこの世界が繰り返してたらってさ、言ったんだよ」
「う、うん」
「そしたら依ちゃんはどうするって言ってたかな。別にいいか、だっけ」
「いやあ、別にその、まあいろいろと」
 町工場の裏の、何かドラム缶とかいっぱい置いてあるようなところの前で、健兄が立ち止まる。少し離れた街灯の青色LEDの灯りがかすかに差してくるようなところ。健兄は薄いガラスみたいな愛想笑いを浮かべて、少しうわずった私の声を聞いている。
「そうなんだよ、夏休みが続くんだったら、それでもいいかって、依ちゃんは言ったんだよ」
「う、うん」
「だから、僕とは相いれないねって言ったんだ。僕は夏休みとはいえ、繰り返すのはいやだからって」
 それから、健兄の肩がちょっと、いかったようになる。なんでそんなに力込めてるの、って思って、それから私の方から見えない右肩の先の手が、健兄の着ている麻の薄い茶色いジャケットの裏側にすっと伸びて、そこから何か取り出すのが見えた。一歩、健兄が、私の方に、私のパーソナルスペースまで近づいてきて、そんなに近づかれたら、どうしよう、困っちゃうな、ってぐらいまで近づいてきて、それから、ググッと、繊維の絡まるような感触が、私のお腹の内側からした。
 すぐにじわっと熱くなってくる。何だろう。火傷したみたいに熱い感覚が、自分の皮膚の内側から伝わってくる。
 私は、私を抱きしめるみたいに近づいてきた健兄が、泣きそうな顔になりながら、私に右腕を押し当てているのを感じた。
「ごめん」
 何いってるの、って言おうとして、私は舌が回らない。頭が真っ白になって、言う言葉が出てこない。どうなってるの、どうにかなってるのこれ、って思う。
「もうずっと前から、気が付いてたんだ。繰り返してるってことは。ごめん、何いってるのか、分かんないかもしんないけどさ、ずっと苦しんでたんだ。依ちゃん」
 混乱を隠さないまま健兄は言う。私の顔の前で、口が曲がったみたいに、頭に浮かんだ言葉を端からそのまま声に出してるみたいな調子で。
 でも、ぜんぜん分かんないよ健兄。もっと分かりやすい言葉で言ってよ。中学生の時みたいに。依ちゃん、手つなごうかって、たぶん健兄も、どきどきしながら言ってくれた時みたいに。もっと分かりやすく言ってくれよ。
 健兄。ほら。
「千回、八月の最後の週を繰り返して、それでおんなじ所を何回も、何回も、行ったり来たりしている、のが、もうっ、耐えられなくて。考えたんだ。たぶん、きよが、あいつが、繰り返してるってのは分かったんだ。あいつが繰り返してるってのは、だけど、何のためなのかが分かんなくて、最初は、夏休みがずっと続けばいいなんて、そんなことかと思ったけど、違うんだ。きよに聞いても答えない。あいつはたぶん、自分でも認識を調整していて、だから、自分でも本当に分かんないんだ。自分が繰り返させている張本人だってこと。だからあいつに聞いてもしょうがないんだ。本当に知らないんだから。問い詰めたって、答えない」
 目の前の私の置かれている状況とは遠いところで、冷静な私が(だからか)って納得する。だからきよはなんにも分かっていないそぶりだったのか。きよが中心になっていることはほぼ間違いないと思われたのに、何にも知らないふりをし続けているのは、あれはふりなんかじゃない、本当に知らなかったんだ。
「だから僕は、きよが、なんで繰り返してるのか、大切な人を守るためじゃないかって思って、それで、だったら、その人がいなくなれば、大切な人がいなくなればさ、きよも、繰り返させる理由はもうなくなるよなって思って、耐えたんだよ。僕は、もう千回も耐えたんだ。だけどもう、耐えられなくて、僕は未来に行きたいって、そう思って、きよの友達を、一人ひとり、殺したんだ」
 目が見開く。瞳孔が小さくなる気がする。私は健兄を見る。健兄の少し癖のある髪の毛を見る。手を当てて、手ぐしで、その髪の毛を撫でてみたいなって思う。何をやったって? って、聞きたくなる。健兄、何をやったって?
 は?
「僕が殺したんだ、宝船さんも、五十嵐さんも、串良さんも、玉野さんも、みんな、僕が、殺したんだ。きよが、繰り返す理由をなくすために、大切な人がいなくなれば、もうきよは繰り返すはずはなくなるんだって、そう思ったから、一人ひとり。でも違った。宝船さんも、五十嵐さんも、串良さんも、玉野さんも、きよの、一番大切な人じゃなかったんだ。僕だって分かってた。分かってて、認めたくなかった。だってそうなったら、僕は、依ちゃんを、こう、しなくちゃいけなくなるから」
 絞り出すようにそう言った。
 今、してるじゃん、って私は思う。今そうしてるのに、そんな、今もためらってるみたいな調子で言わないでよって思う。そういうところ、本当に、優柔不断で、私は嫌いだけれども、でも、そういうところが、私はたぶん、嫌いじゃなかった。
「ごめん、依ちゃん、君のこと、本当に。でも、繰り返しを、繰り返しを続ける限り、僕らは、だから、僕は君を、いけなくなって」
 ぐっとお腹の内に刃が押し込まれる。痛さはあんまり感じない。熱さがある。私はこの熱さが、夏の夜の熱帯夜のためなのか、刃物によるためなのかが、よく分かんなくなる。私は健兄を突き飛ばして逃げようと思う。けれども、できない。健兄を突き飛ばせない。こんなに、私を殺そうとしてるのに、こんなに弱々しいものだから、突き飛ばしたら、倒れて骨が折れて、骨が肺に刺さって死んじゃうんじゃないかって思ってしまう。
 でも、ああ、別にいいかなって思う。健兄に殺されるんだったら、いいかなって、そんな、自分に酔ってる訳じゃないけど、でもこんなに、この人、弱くて、苦しんでいて、繰り返しから抜け出そうとして、なんとか頑張ってるんだったら、別に殺されてあげてもいいかなって思って、だったら、良子にはできなかったみたいに、玉野にはできなかったみたいに、健兄を安心させてあげられるような言葉を、掛けてあげられればそれでいいかな、なんて思って……
 でもその時だ。うっと声を上げて、健兄は急に胸元を押さえて苦しみだして、私の足元にくずおれた。そのまま、全身の自由が利かなくなってしまったみたいに、びくびくと震えはじめる。
 なんだろう、と一瞬思って、すぐに記憶が蘇ってくる。病気の発作だ。見たことがある。遊園地に行ったとき、コーヒーカップの中で倒れてしまった健兄のこと。助けを呼びたいのに、ぐるぐる回るばかりのコーヒーカップのこと。健兄の病気が、いま、始まってしまったんだ。
 健兄から離れる。お腹の痛みが今になって痛みとして襲ってきて、私はTシャツと、そこに突き刺さっているナイフを見る。Tシャツが血に染まって真っ赤になっている。頭が真っ白になる。死んじゃう、と思って、慌ててナイフを引き抜くと、こういうとき、筋肉が弛緩してナイフって簡単に引き抜けないんだよな、っていうことを、どこで知ったのか不意に思い出してきて、ナイフが抜けなかったら嫌だなって思ったら、思ったよりも簡単にナイフが“スッ”と体から抜けてしまう。
 あれっ? って思って、よく見たら、ナイフはぜんぜん刺さってない。刃先がちょっとだけ、皮ふの中に食い込んでいて、それでシャツの繊維が絡まって、抜けにくくなっていただけだったのだ。
 腹が立つ。馬鹿じゃないのかこいつ、って思って、私は健兄の目の前でナイフを地面にたたき付ける。健兄はもう口も利けなくなっていて、顔色は真っ青で汗をかいていて、でも、ナイフの音で目を開けて、私の方を見た。
 私はいらいらして、悲しくなって、ばかばかしくなって、大声を出して、
「刺さってないよ、健兄、ぜんっぜん」
って言った。
「刺さってねえよっ、馬鹿この馬鹿、くそっ」
って言った。
 健兄はたぶん、聞いてくれたと思った。私のことを殺してないんだと言うことを、私は健兄に言いたかった。もう死にそうな人に、これ以上、辛い思いをさせたくないからって思って。自分でもバカだなって思うけれども、でも、健兄にそんな思いはして欲しくないから、「刺さってないよ」って、声に出して言った。何回も言った。
 目をつぶって、胸を押さえたまま、健兄はそれきり動かなくなった。体をくの字に曲げたまま、舗装のない砂利敷きの地面に横たわって、健兄は死んだようになった。
 私は、屈んで、健兄の体に触れようとして、はっとする。もうすぐ十二時になる。もし十二時になったら、きよはまた繰り返しを始めるだろう。止めなくちゃ、と思う。いますぐ、きよを止めなくちゃと思う。
 きよの家へ向かって走った。ここに居たくないというのもあったし、きよに確かめたいということもあった。本当にきよなのか。何のために繰り返しているのか。だれのために繰り返しているのか、確かめたいという気持ちもあった。
 走りながら、健兄のいろんな思い出が巡った、部屋できよと一緒にゲームをやっている思い出、きよの一家と一緒に海に行った時の思い出、二人で屋台に行った時の思い出、今晩夜光虫がでてるらしいから海に行こうよって言われて、こんな時間から行くのって思って別の、恋愛的なことも期待して、それで蓋を開けたら本当に海に行って本当に夜光虫が光っているねって健兄がちょっと興奮した感じで言って、本当にそれだけで終わったんだけど、でも夜光虫が光っていて、すごくきれいだった時の思い出。
 その全部がいっしょになって蘇ってくる。私は殺されかけたのに、健兄がへたれすぎて度胸がなさすぎたせいで殺されなかった。その健兄の思い出が、いっぺんに襲ってくる。
 泣いていたかもしれない。泣いていなかったかもしれない。自分の感情や顔面の状態がよく分からなかった。お腹から出ている血が血管を巡って顔から出てきているような気もした。走っている間に涙が乾いてしまったような気もしたし、あるいはその反対に、顔全体が湿ってしまっているからもう感じられなくなっているような気もした。
 私はただ、みんないなくなってしまったと思っていた。
 みんないなくなっちゃっただろ、きよ。って思った。
 私はきよの家へ走った。そこへ行ったら、何か、みんな、生き返るんじゃないかって思いながら、きよの家へ走った。


 私はスマホできよを呼ぶ。
「いま家の前にいるよ」
『どうしたの依ちゃん』
 ドアを開けて、きよが出てくる。さすがにもう制服は着ていない。でも黒い服を着ていて、たぶん喪服を意識しているんだと思うけれども、その服が似合っていて、玄関の明かりを背にして立っているきよが、どこか神聖なもののように思える。
「いま、時間ある?」
「どうしたの依ちゃん、上がってよ」
「ううん、外」
 きよは困惑するけれども、でも、私のただならぬ様子に、最後には外に行くことに同意してくれる。
 外へ出る。夏の夜の蝉の声が聞こえる、蝉って夜も鳴いてるんだよねときよが言う。こんな時にそんな普通のこと言うなよと思う、それにその話、前もしただろと思う。でもきよは言うだろう。こんな時でも。たぶん不安だから。私が何をしようとしているのか、きよも不安だから。
「きよ、こっち」
「あんまり暗い方行ったら、依ちゃん」
「大丈夫、平気、だって」
「だって?」
「殺人犯は、死んだから」
 死んだから、って自分で言って、その言葉の辛さとか、重さとか、そういうのが胸に来る。死んだからって、なんだよって思う。死んでないよ。健兄は死んでないよって思う。いや、死んだんだけどさ。
「え? どういう?」
「前に言ったよね」
「なに? なに?」
「もし夏休みがずっと続いたらって」
 歩きながら言う。きよが気づいてくれるようにって。全部言わなくても、きよが言いたいことを察してくれるようにって。
「なに?」
「私、気がついてるんだよ。この世界を繰り返させてるのって、きよでしょ」
 でもそんなことは、たぶん、ない。健兄の言葉が本当なら、きよは気づけない、自分がこの世界を繰り返させてるってことに。だから健兄は苦労したんだし、みんな、殺されて――
「何、何言ってるの依ちゃん、何」
「きよ、思い出して、私たち、ずっと、同じ一週間を繰り返してるんだよ」
「思い出せるわけないよ、何言ってるの、どうしたの依ちゃん急に」
 混乱した調子で声を震わせながら、きよは言う。私はぐいぐいきよを引っ張っていく。どこまでも。
「健兄はね、きよに、そのことをずっと思い出してほしがってたんだよ」
「なんでお兄が出てくるの? そこで?」
「健兄はこう思ったんだ。この時間を繰り返しさせてるのはきよで、きよが時間を繰り返しさせてるのは、夏休みが終わった後で、きよの大切にしている人が、ひどい目に遭ってしまうから。だから、夏休みが終わらないように、ずっと時間を繰り返させてるって」
「依ちゃん、何言ってんの、全然わかんないよっ」
 きよは私の腕を引っ張って歩みを止める。普通、きよは、そんな人に暴力を振るうようなことを連想させるようなことはしないのに、本当に動揺しているのかもしれない。
「だから健兄はこう思ったんだ。もし、その人がいなくなったら、きよの大切に思っている人がいなくなったら、きよが繰り返させる理由もなくなって、繰り返しも終わって、夏休みの先へ行けるんじゃないかって」
 きよは黙った。私はきよの手をふりほどいて、また引っ張って進んでいく。
「だから健兄は、きよの友達を次々と、殺していったんだ」
「え?」
「全部、健兄がやったことだったんだよ、きよ」
 きよが私の腕を強く握りしめる。それは握りしめるというよりも、つぶそうとするような強い握力で、私はちょっと痛みを覚える、でも、仕方ない、そんなこと言われたら、自分の大切なお兄さんが人殺しだって言われたら。
「依ちゃん、何言ってんの」
「健兄は、きよが大切に思ってる人を全員殺していって、最後に残ったのが、私だったから、最後に私を殺そうとしたんだ」
 町工場の影、ついさっき、私と健兄が、向き合っていた場所。そして、健兄が私を殺そうとして死んだ場所へ、きよを連れて行く。
「でも、健兄は、病気で、倒れて、だから、私のことは殺せなかった。もしかしたら最初から、私のことは殺すつもりはなかったのかもしれないけど、でも、健兄は未来へ行きたいって、未来へ行きたいってずっと、言ってた」
 街灯の下に、健兄が倒れているのが見える。私はきよに見えるように横にずれる。きよは、はじめ、人が倒れていることは分かるけれども、それが誰なのかは分からなかったみたいだった。でもすぐに、きよの背中がびくっと伸びる。
「え、お兄、えっ」
 きよは健兄へ駆け寄る。私は時計を見る。十一時五十九分、もう一分で、時間が戻る。
 私はきよの背中に言った。
「きよ、お願い、私も、もう繰り返すのはいやだ」
「だってそんな、お兄、なんで」
 回転が始まる。時間の戻る前兆を感じる。私の中の三半規管が、地面がぐるぐるしてるよって、私に言い始める。
「きよ、お願い、戻さないで」
「依ちゃん、何言ってるの、依ちゃん」
 私はきよにスマホを突きつける。八月三十一日十一時五十九分五十九秒。回転が始まり、空が渦巻いていき、虫の鳴くような声がする。三半規管がぐるぐると回転するような感覚が体中に走り、私は立っていられなくなって、でも、座り込んでしまわないように踏ん張って、きよにスマホを突きつけ続ける。
 そして――時間が元に戻った。ぶれないように、スマホがぶれないように、きよに突きつけながら、私は聞いた。
「きよ、今は、何月何日?」
「だって、いまは、いま」
 きよが震える声で言う。
 八月二十五日。今日は、九月一日じゃない。いまは、八月二十五日だ。
「きよ」
「依ちゃん、私」
 不意に、きよは健兄に取りすがるのをやめて、力なく、一瞬だらんと腕を垂らして、そうしてから何か、悪いことをした子供が叱られてしまったような顔をして、私の方を見て、笑顔と、渋い顔が、混ざったような顔をして、
「ごめん」
 いたずらがばれたみたいに、きよは言った。
「私だったね、依ちゃん」