小説 ハンドクリーム出しすぎ

 「ハンドクリームを出しすぎてしまったのでもらってもらえないか」という「ハンドクリーム殺法」で意中の相手の手を握り、あまつさえ揺すったりさすったりすることで何人もの恋人を射止めてきたわたしだったが、最近、同じハンドクリーム殺法の使い手が現れたのでたまったものではない。
「あなたはなんのハンドクリームを使っているのかしら。あら、安いやつなのね」とせせら笑うライバル。 
「ヒアルロン酸が入ってるって書いてあるからいいでしょうが」と歯噛みするも、ライバルの使っているハンドクリームは一本一万円もするいいやつで、匂いを嗅ぐだけで気を失ってしまいそうになるのであった。
 くそっ。このままでは鳶に油揚げをかっさらわれてしまう、ぼけっとしている場合ではないということで、早速わたしが狙っている相手のところに飛んでいって、勢いよくハンドクリームを出しすぎてしまうことにする。
「ブビョッ(ハンドクリームを出しすぎる音)。ごめんなさい、ハンドクリームを出しすぎてしまって、どうかもらってくれませんか?」と奇襲をかけるわたし。
「えっ、あっ、はい」とおどおどしながらもすっと手を出してくる意中の相手。
 決まった。このまま必殺のマッサージを行い、相手をメロメロにしちゃるわ、とほくそ笑みながら手を伸ばそうとした瞬間だった。
「お待ちになって!」とライバルの声が高らかに響いてきたではないか。
「ブビョッ(ハンドクリームを出しすぎる音)。わたくしもハンドクリームを出しすぎてしまいましたの。もらってくれないかしら?」
「明らかにいま出したじゃないの」
「ハンドクリームに先後関係はありませんわ! わたくしのハンドクリームのほうが高級ですわよ」とライバル。くそっ。それは否定できないけれども。
「田中さん(意中の相手)も困っているじゃない。あなたはあとからハンドクリームを出しすぎたのだから、今回は大人しく引き下がってもらえるかしら?」
「グラム単位でいえば500円分ぐらいのハンドクリームを捨てるのはもったいないですわ。あなたのその安売りドラッグストアで買ってきたようなハンドクリームこそ、ティッシュで拭き取ってしまってはいかが?」と一歩も引かないライバル。くそっ、埒が明かないぜ。
 意中の相手もわたしたちの勢いに若干引きぎみである。いったいどうしたらいいんだ、と頭を抱えていたそのときだ。わたしの師匠の幻影が脳裏をよぎった。
「もしも相手も同じハンドクリーム殺法の使い手だった場合、わたしたちの取りうる手段は何だと思う?」
「一旦撤退して、次の機会を狙う、ですか?」
「違うよ」と首をふる師匠。
「わたしたちの取るべき手段、それは相手の武器を奪うことだよ!」
 そのとおりだ。わたしはライバルに手を伸ばした。
「じゃあそのハンドクリームはわたしがもらってあげるわっ!」
「なにっ!?」
 驚愕の声をあげるライバル。わたしの右手はライバルの手のハンドクリームを掬い取る軌道を描いて迅速に迫った。このままライバルのハンドクリームを掬い取ってしまい、返す刀で意中の相手をぎゅぎゅっと握り締めてしまえばよい。完璧な作戦だった。
 だが、ライバルのハンドクリームにあと一歩まで迫ったその瞬間、ライバルの手のひらがくるっと反転したかと思うと、わたしの手のひらをがっしり握りしめてきたではないか。
「なにっ!?」
「かかりましたわね!」
 にやりとほくそ笑むライバル。罠だ! ライバルの手がわたしを包みこみ、たちまち、わたし自身にハンドクリーム殺法を仕掛け始めてゆく。
「うぬっ!?」
 ハンドクリーム殺法の高等技術、「小手返し」である!
「ほほほ、これであなたはわたくしにメロメロですわね!」
 やられた。まさかわたし自分がターゲットにされるとは……!
「ハンドクリーム殺法の使い手は、常に自分自身が殺法の餌食にならないように気をつけるんだよ」という師匠の忠告が虚しく脳内にこだました。
「おほほほほ、大人しく敗北を認めなさいな! そうすれば手を離してあげてもよくってよ!」
 と迫られるわたし。高級ハンドクリームのいい匂いとライバルの柔らかな手による巧みなマッサージによって、わたしはどんどんライバルのことを好きになっていってしまう。
「うぐぐっ……!」
 頭の中がライバルの素敵な笑顔で埋まっていく。もはや敗北を認めるしかないのか。
 そのときだった。霞みつつある意識の底に、またしても師匠の幻影が蘇ってきた。
「もしもハンドクリーム殺法の使い手が逆に仕掛けられてしまったときは、もはや覚悟を決めるしかないよ」
「そっ、それは一体?」
「それは――」
 仕方あるまい。わたしは残された手を使い、ライバルのもう片方の手を握りしめた。
「むっ!?」
 ライバルが動揺する。わたしのどこにそんな力が残っていたのかと訝っているのだろう。
 しかし、最後に残った正気を振り絞り、わたしはライバルの手をぎゅぎゅっと握りしめたのである!
「おっ、およしなさい!」と慌てだすライバル。
「ハンドクリーム殺法を交互に仕掛けてしまっては、お互いがお互いを好きになってしまう地獄絵図でしかありませんわ!?」
「構わない。あんたに勝つためだったら、わたしは構わないよ!」
「少しは構ってほしいものですわ」
 だがお互いに一歩も引く気配はない。手を離さなければまったく生産性のない恋愛が始まるだけだが、手を離せば敗北を認めることになってしまう。
 わたしたちはもはや、地獄に突き進むほかにはないのだ!
「くっ……」
 ライバルが歯噛みする。目と目が合う一瞬の交錯のうちに、わたしたちはお互いの矜持を悟ってしまった。こいつは絶対に自分からはイモを引かないという確信を。
「こっ、こうなればやってやるんですわ! あとで吠え面をかいても知りませんわよ!」とライバル。
「それはこちらも同じことよ!」 
 わたしもライバルの手を強く握りしめた。ハンドクリーム殺法の仕上げ。全精力をかけたマッサージのスタートである。
「うおおおお!」
「負けてたまるかですわ!」
 なお、意中の相手はもうとっくにどっかに行ってしまっている。わたしたちが自分でなにをやっているのかは、もはやだれにもわからなかった。
 わたしたちはお互いをメロメロにするべく究極の握手を始めた。誰も得をしない結末に向かって突き進むために。勝者の存在しない戦いの勝者となるために……!