小説 スパイダーマン(お騒がせのやつ)

 おれの軟禁されている部屋が地上三〇〇階ぐらいの高さにあるせいで、よくスパイダーマン(本物のやつではなく、高層ビルとかに登って最後には逮捕されてしまうお騒がせのやつ)が窓の外を通ったりするのでぎょっとする。
「危なくないの?」
「でもまあ、そこが醍醐味なので」 
 それでスパイダーマンはどんどん上の方に行ってしまって、最後には屋上で待ってるおまわりさんに捕まってしまうのだ。なにが楽しいんだかわからないが、なにが楽しいんだかわからないというだけで他人の行為を非難するのもなんである、ということで見て見ぬふりをしていた。
 そんなことが何度かあるうちに、たまに世間話もする仲にもなって、
「ビル登ってなんかあんの?」などとも尋ねてみたりするのだ。
「あなたも登ってみたらわかると思いますよ」 
 それで窓際に寄ってみた。スパイダーマンみたいにこのビルを自由自在に登り降りできたらここを脱出できるんだがなあと思いながら下界を見下ろしていると、風がブブッと吹き付けて「キャッ」と叫んでしまう。
「おれは高所恐怖症なんだ、だから無理だよ」
「ぼくもそうでした、でも、きっといつか慣れてしまいますよ」
 ニカッと笑うスパイダーマンの顔はなにやら爽やかだった。どうしてそんなに爽やかな笑みを浮かべられるのかわからなかった。たぶん、自分に待ち受けている運命と、そのとき浮かべることのできる表情とは、セットでなくてもいいんだろう。
 そんなふうな仲になってから、ぴたっとスパイダーマンのこない季節がしばらく続いた。冬と春と夏が過ぎて、おれは来る日も来る日も地上三〇〇階の家の中でぼんやりしていた。娯楽はあるから退屈はしなかったけれどもいつまでもおんなじところにいるのは気が鬱した。
 そんなとき、おれはよくスパイダーマンのことを思い出していた。
 べつにおれを助けに来たというわけでもない、たんに自分の楽しみのためだけに世間のお騒がせ者になる迷惑なやつだというのに、おれの部屋の前を通っていくというただそれだけの理由で、おれはもうなんとなく彼のことを好きになってしまっているのだった。
 どんなところだろうとすいすい登って、まるで散歩に行くみたいにいろんなビルを制覇していく彼のことを考えて、彼に会いたいなと思ってちょっと目頭が熱くなることもあった。そんなふうにして幾季節が過ぎた。おれは一人だった。ご多分に漏れず一人だった。
 だがある日のこと、窓の外を登っていく何者かの姿がちらっと見えて、慌てて「おいっ」と声を掛けた。スパイダーマンだった。
「久しぶりじゃん!」 
「ちょいとこれでして」と手錠をかけられたジェスチャーをするスパイダーマン。おれは苦笑する。そりゃそうだよ。
「今度は長かったね、でもよかったよまた会えて、おれ、暇だったからさ」
「わたしも会えてよかったです」
 スパイダーマンはにこっと笑った。爽やかな笑みだった。
 話は尽きなかった。ほとんどおれの方から話しかけていたんじゃないかと思う。おれがどのくらいあんたのことを待っていたのかっていうことを、自分でも恥ずかしくなってしまうくらい、つっかえつっかえ、真剣に話してしまっていた。ずっと暇だったんだよって、ずっと、自分でも、あんたみたいにビルを登り降りできたらいいんじゃないかって、そう思っていたんだよって言った。
 するとスパイダーマンはちょろっと下の方を見て、
「でしたら、わたしと一緒にここをでていきませんか?」と言った。
 言葉に詰まる。そんなことできるわけはない。きっとおしっこをちびってしまうだろう。おれが顔を真っ青にしてぶるぶる震えているのを見て取ると、 
「大丈夫、きっとできますよ」と笑みを向けるスパイダーマン。なんだか彼にそう言われると、できそうな気がしてくるのだった。
 それでおれは窓を出てスパイダーマンの隣に並んだ。風は強く、でもおしっこをちびってしまうほどではない。気を強く持って、下を見ないようにして空を見ると、遠く彼方には東雲の微かな気配の群青。明滅するパトカーのサイレンが空に朱を作っていた。
 思わずスパイダーマンの手を握ってしまう。スパイダーマンはにっこり笑っておれの手を握り返してくれる。大丈夫。そう言われているような気がした。そしてたぶん実際に、そう言ってくれているような気がした。
「どこかへ行こうと思えば、人はいつでもどこでもどこかへ行けるのです。たとえ地上三〇〇階でも」とスパイダーマン。
 壁のでっぱりに掴まる。手を離せばもう下には空気しかなくて、地上三〇〇階分の高さの生と死しかない。
 でも、ふしぎと悪くはなかった。
「では参りましょう、自由ってもんは大概ですが、まあ、自分の命を危険にさらすだけの価値はありますよ」
「そうだね」 
 そうしておれは長年軟禁されていた部屋を出た。地上を目指して、おれたちはビルの壁面にへばりつき続けた。
 そのうち力尽きて地面に落っこちてしまったりするかしれないけれども、でも、そのときはそのときだという気がした。