君の声は最後まで聞こえる 3.

 繰り返しに気がついている人って本当にいないのだろうか? たぶんそんなわけはないだろう。良子が気づいていて、そして私も気がついているのだから、誰かしら気づいている人はいるはずなのだ。
 きよともそのことをもう一度話した。「私たちって、時間、繰り返してない?」。そう尋ねるときよは一切気がついていないことを表明するように、
「夏休みが無限に続くってことだよ、依ちゃん、それって、素晴らしくない? 宇宙の中で一番素晴らしい宇宙は、夏休みが無限に続く宇宙だよ」
と言った。
 それでも他の人だって大して代わりはしない。大佛さんとも、ゆりとも、吉山とも、須藤ちゃんとも話したけれども、誰も時間が繰り返していることに気が付いている気配はないのだ。
 私だけなのだろうか? 私と良子の二人だけしか、繰り返しには気が付いていないのだろうか?
 いや、気がついていないのであれば、それはそれで構わない。私はできれば、気がついている人間と、お互いの気苦労を話しあって、そしてできれば、何とかしてこの繰り返しから脱出するための作戦について、話ができればいいとは思っているけれども、気がついていないのだったら、それはそれで、何も不安に思ったりすることはないのだから、幸せな人生なのに違いない。だからそこを踏み越えてまで、誰かに気がつくことを強要するつもりはなかった。
 でも、そうじゃない人、たとえば、良子はたぶん、繰り返しに気が付いて、そしてそのことを気が付いているのが自分一人だけだと思っていたから、死んだんだ。
 だからもし、そういう人がいたら、私も気が付いているよって言ってあげたかった。言う必要があるように思われた。いつか、私自身がそうなってしまう前に、繰り返しているのはあなただけじゃないよって、私は伝えないといけないんだと思っていた。


 八月二十九日、私は同じクラスの玉野恵美に呼び出される。良子のこと、とのことだ。何だろう。
 場所は、市営図書館に併設されてる喫茶店。スタバとかドトールとかと違ってほとんど人もいないので勉強するのにはちょうどよく、私はたまに来て、勉強するふりをしてずっと本を読んで時間を過ごしていた。
 玉野が来るまで窓際の席に座って図書館を眺めている。ガラスが曇っているせいか、少し薄暗い図書館の中を、どこか精彩のない人たちが立ったり座ったり歩いたりしている。あの人たち、あの人たちはみんな、繰り返しに気がついていないんだろうかって思う。気がついていたらもっと深刻な顔をしているだろうなという気がするけれども、気がついていたって平気な顔をしていられる人もいるのかもしれない。
 なんとなく、自分自身の経験から、自分の置かれている状況が直に顔に出ている人のほうが多いような気がしていたけれども、実は案外そうでもないのかもしれない。良子の苦悩に気づけなかったみたいに、みんな、自分が困ったり不安に思ったりしていることを、表面に出さないようにして生きているのかもしれない。それはとても辛いことだとは思うけれども、でも世の中ってのはそういうふうにできているんだよって、大人だったら、言うのかもしれないな。
「すみません」
 玉野恵美が来て、私の前の席に座った。なんだか急に来た気がして、私は「ああ」とか「うう」とか言葉にならない感じの声を出す。夏休みだから、数日人と喋らないと、声が出ないなって思う。
 玉野とは、ふだんあんまり喋ったことはない。だから、呼び出されたのだってきよから聞いたからだし(きよ本人は別の用事があるから来ないという、来るだろ、普通)、別に仲良くなる理屈もない人間だ。
 言ってみれば優等生タイプ。私はどちらかといえば優等生タイプになろうとしてなれなかった人間なので、あまり玉野に良い印象はない。優等生タイプじゃないからって、優等生タイプにいい印象を抱けないなんていうのは、人としてはどうかと思うけども、でも私はたぶん、人間の器がみみっちいのだと思う。
 玉野は度のきつい眼鏡をかけている、ちょっとやせ気味で目つきも強い、私よりは顔がよくない女の子だけれども、眼鏡が似合うから、眼鏡をはたき落としてやりたいと思う(私は眼鏡が似合わないタイプの顔をしている)。
 それから、面と向き合って、お互いに何か気まずい一瞬があって、私は私で、なんでこんなところで良子の話をしなきゃいけないんだ、って思って、たぶん不機嫌そうな顔をしている。ああ不細工な顔をしてるんだろうなって思う。
「串良さんと仲良かったんですか」
「え? うん。まあ」
 突然、玉野が話を始めるので、世間話とかしないのね、とか思いながら、それに、急に話しかけられるから、曖昧なことを言っちゃったじゃないの、と思う。私と良子の仲は「まあ」じゃない。仲良いよ。超仲良い。
「串良さんの最期、看取ったのが中静さんだって」
「その、たまたま、その現場に居合わせただけで」
「私、知りたいんです」
「何?」
「串良さん、どうでした?」
 店員が来て(私はアイスティーをもう頼んでいる)。玉野はちょっとメニューを見て、迷って、アイスミルクを頼む。
 それから私は玉野の顔を、ほとんど睨むように見て、ああ私はこいつが嫌いだと思い、なんでそんなこと聞くんだよ、と思う。
「なんで聞くの?」
「嫌ですか、答えるの、すみません」
「いや、なんで聞くの? 普通、答えるのって、嫌じゃんよ?」
「そうですよね、すみません、知りたいんです」
 聞くなよ。私と良子のことなんか。良子があんなになっちゃった時のことなんか。おまえの家の家庭の事情とか聞くようなものだろうが、って思いながら、アイスティーの中に入ったティーパックを水面から上げたり沈めたりする。アイスティーの暗紅色が揺れて、午後の光がティーパックにもつれてカップの中に散らばっていく。
「じゃあ、すいません、私、頭を――正気を疑われるかもしれないんですけど」
 私の、アイスティーをいたずらにかき回す手が止まる。
「それ言ったら、串良さんの最期の時の話、聞かせてくれますか」
「はあ?」
 私は、驚くのと、虚勢を張るのと、それからこの子、何を言い出すんだろうというおびえとで、自分の口元がゆがんで、口の端だけで笑っているみたいになってしまうのが分かる。この笑い方は、よくない、鏡で見たから知ってる、私はこの笑い方は不細工になる笑い方だって知ってる。でも気を抜くと、いつもそんな笑い方になってしまう。
 玉野はそれこそ、飛び降り自殺をする寸前のような、どこか悲愴な顔をして、一息で言った。
「私たち、時間を繰り返してるんです」
 八月三十一日午後十一時五十九分の、体の回転するような感覚を思い出す。
「ちょっと待って、何、言うの」
 私は指を持ち上げ、ティーパックを置いて、それから、何か思考の受け皿を探すような気持ちになって、図書館の様子に耳を澄ました。でも、頭の中は混乱している。
「でも、誰も気が付いていないんです」
「いや、そんな、そりゃ、そうだろうし、繰り返してなければ、そうだろうけども。あんたがそう思う根拠って、何?」
「根拠も何も、繰り返してるからです。八月二十五日から三十一日までの一週間。八月三十一日二十三時五十九分、そこから一分経っても、九月一日午前零時ちょうどにはならないんです。八月二十五日午前零時ちょうどに戻るんです」
「へ、へえ」
 私が考えているのは、どういうタイミングで玉野に返事をしようかということ。どういうタイミングで、信じてあげるふりをしてあげようかということだ。
 いきなり玉野に同意をするのは、なんだかできない。その理由は、“この子があんまり好きになれないから”ということだけれども、とりあえず今は、話を聞くだけ聞いてみようと思っている。
 玉野の顔を見ないで、アイスティーを見ながら、私は尋ねる。
「戻って、どうなんの?」
「また一週間が始まります。八月二十五日から、八月三十一日までの、一週間」
「それが過ぎたら、どうなんの?」
「また八月二十五日に戻ります」
「なんで?」
「それは私にも分かりません」
「繰り返してるって言ってるけど、何回ぐらい繰り返してんの?」
「私が気が付いてるだけで、五百回です」
 五百。
 五百回。多いのか? 多いだろう。良子の時はたしか、三百回。単純計算で、七日掛ける五百で三千五百日。約十年。……十年? じゃあ、玉野はタメに見えるけど私より十歳年上ってこと? いや、私も同じ時間、過ごしているんだから、同じ年齢ってことだと思うけれども。
 十年も同じ一週間を繰り返す気持ちって言うのはどうなのだろう。ぜんぜん、想像はつかないでいる。
「もしかしたら、私が気が付いてないだけで、もっと繰り返してるのかもしれないですけど」
 玉野は慎重に言葉を選んで言っている。私はその態度が、少なくとも真剣そうだなって思えて、当初の印象よりは、気にくわない相手、とは思わなくなっている。
「でもそれって、あんたがそう思ってるだけじゃないの? だって私は繰り返してないよ」
「中静さんだけじゃないです。ほとんどの人は、繰り返しに気が付いてないです」
「どうして?」
「すみません、分かりません」
 分からないのかよ。私は心の中で毒づく。もしかしたら玉野は分かっているのかもしれないって、淡い期待を抱いていたからだ。玉野はこの繰り返しについて何もかも知っていて、玉野に相談すれば、この繰り返しから逃れる方法も分かるんじゃないかと思って、でも、それははかない夢だったので、少しがっかりする。
「でも、私はこう考えてます。暫定的にそのことを“調整弁”と呼んでいます」
「調整べん?」
「中静さんをはじめとしたほとんどの人たちは、調整弁の働きによって、自分が繰り返ししているということに気が付いていません。それが調整弁の働きです」
「だから、何それ」
「中静さん、一週間前の今日、今、何してたか覚えてますか」
「一週間前って、えーと二十二日?」
 危うく二十九日と言いそうになる。私もだいぶ、繰り返しになじんでしまったのかもしれない。
「日付はこの際置いておいてください、一週間前の今日、何してましたか」
「たぶん、きよ、平河とプール行ったけど、市民プール」
「そのことは憶えてるわけですよね、中静さん」
「覚えてるよ、そりゃ、何?」
 試すように言われて私は少しかちんとなる。別に玉野に怒ったって仕方がないのに。
「すみません。じゃあ仮に、中静さんが今、私が言ったように、八月最後の一週間をずっと繰り返していると想定してください。一週間前は二十二日ですね。一週間後は今日、二十九日です。さて、さらに一週間後は?」
「えーと、九月五日?」
「はい、九月五日になってるはずなんです。でもなってない」
「だって、繰り返してるって設定なんだったら、そりゃ、なってないでしょ」
「すみません違うんです。そうじゃない。私が言いたいのは、一週間、記憶が継続したままであるなら、中静さんはいずれ、時間が巻き戻っている、ということに、思い至ってしまうはずということなんです」
 ぽかんとする。言っている意味が、一瞬、よく分からない。よく分からないのは私の頭があんまりよくないからで、たぶん、玉野の物言いから理路整然と説明をしているのだということが分かるから、分からないのは、私の頭が悪いからだ。
 ちょっと待って、と玉野にジェスチャーで言い、漠然と上の方を見ながら玉野の言うことを頭の中でなぞる。
「いずれみんな、繰り返しているということに気が付いてしまう、ということです。記憶が継続しているなら、そうなるはずなんです。でも、私以外、誰もそのことに気が付いていない」
 やっと玉野の言っていることの意味が飲み込めてくる。私は繰り返しに気がついてしまっているから、かえって玉野の言っている意味が分からなかったのだけれども、仮に、繰り返しに気がついていない人たちの目線から見れば、それは、そうなるのか。
 そりゃそうだ。当たり前の話だ。八月三十一日の次の日が八月二十五日に戻ったら、それは、正常な認識力を持っている人だったら、誰だって繰り返しに気がついてしまう。気がついてしまわないのは、そこで何らかの、記憶や認識が外的な力によってゆがめられてしまっているからだ、そういうことを、玉野は言いたいのだろう。
「それが調整弁ってこと? あんたが言ってた」
「はい。ただ、それが人為的なものなのか、時間の巻き戻しに付随した現象なのか、分かりません。繰り返しが起こっている、そのことに気が付かないように、私たちの認識を調整している力があるんです。そのために、私たちは、繰り返しに気が付いていない」
「ふ、ふーん」
 筋道は通っているし、なんだかスッとした思いがある。確かに、どうしてみんな気が付いていないのか、そして私もつい最近まで気が付いていなかったのか、その説明だったら納得がいく。
 繰り返しに気がついている人間以外は、違和感に気がつくことができないのだ。
「それで、すみません、勝手に言いましたけど、本題に戻りたいんですけど、いいですか」
「は? 何?」
「串良さんの最期の話、串良さん、何か言ってましたか」
 そうだった。
 この子は、良子の最期を聞きに来たんだ。
 玉野がじっと私の方を見つめる。私はそんなに見つめるなよと思い、少しだけにらみ返してしまう。いや、この子をにらんだって意味はないのだ。この子だって困惑して、戸惑っているのだ。私はこの子の力になれるはずなのだ。
 ちょっと迷って、さっきまで、玉野に対して敵愾心を抱いていた、自分の心を見つめ直して、心の中で首を振る。助けてあげなくちゃ、と自分に言い聞かせる。それはたぶん、良子の力になってあげられなかったということの後悔だ。私は良子の代わりに、この子を助けてあげなくちゃいけない、と思う。
「じゃあ教えてあげるけど、良子はね、そんなことを言ってたよ」
「そう、ですか」
 玉野は萎縮したようになる。自分が聞きたかった結果を聞いて、そしてそのことが本当に聞けてしまったから、返って、恐ろしくなってしまったのかもしれない。
「その、あんた、良子もそんなこと言ってたけど、でも」
 言葉を続けられない。私は、繰り返しに気づいてしまって、そしてその重みに耐えられなくなって、自殺してしまった女の子のことを知っているのだ。そのことを知っている以上、目の前にいる女の子に、なんて言葉を掛けてあげればいいのか、分からなくなる。
「ずっと繰り返して、同じ一週間を繰り返して、私、どうしたらいいか」
「うん」
 考えすぎじゃない、とか、病院行った方がいいよ、とか、そんなことも言えない。それが全部間違っていることを、私は知っている。
「だから、同じような境遇の人がいたら、話をして、落ち着けないかなって思って、私」
「そう、だったんだ」
 追加で注文したカフェラテが来る。良子を追悼している気分でカフェラテをすする。玉野も黙ってアイスミルクを飲む。カフェラテをすすり、無力だなと思いながら、すすり続ける。
 何か話さなきゃと思う。黙って飲んでる場合じゃないよと思う。でも何を言ってあげればいいのかが分からない。
 玉野はアイスミルクの入ったステンレスのコップを置いて、私の方を見ないままつぶやいた。
「もしかすると、なんですけど」
「うん」
「繰り返ししていることに気が付いた人から、死んでいってるんじゃないかって思ってるんです」
「は?」
 なんだそれ。
 玉野は堰を切ったみたいに、たぶんそれを言いたかったんじゃないかって思うぐらいに、急に早口になって言いはじめる。
「252回目の繰り返しの時に、宝船さんが車に轢かれて死にました」
「ちょ、ちょっと待った」
 宝船さんは、同じ学校の女の子だ。私は親しくないけれども、たしか、きよと話しているところは見たことある。確かに宝船さんは亡くなった。きよが取り乱していたところを覚えてる。
 玉野の話を信じるなら、あのことはもう、繰り返しが始まった中で起こったことだったのだ。もちろん、宝船さんの亡くなったことは憶えているけれども、でもそれが繰り返しの中で起こったことだとは認識できない(これが玉野の言うところの調整弁の機能ということだろうか?)。
「383回目の繰り返しの時に、公乃さんが薬を飲んで死にました」
 公乃、確か名字は五十嵐だ。五十嵐公乃。そういえば、確かにあの子も亡くなっている。薬を飲んで。警察は、自殺と他殺の両面から調べて、結局今も、どっちだったのかは、少なくとも私の耳には、入ってきていなかったはず。
「そして今度、498回目、串良さんが飛び降りて亡くなりました」
「偶然でしょ」
 思わず、強く言ってしまう。喫茶店の中が一瞬しんと静まり返るくらい。はっとなって、誤魔化すようにカフェラテを、わざと音を立ててかき混ぜる。
 ステンドグラスの嵌まった窓から、夏の長い夕暮れの太陽が机の上に差し込んでくる。経年劣化した黄ばんだビニールで覆われた机の上に、橙色の、埃みたいな光のかたまりを落としている。私はその光のかたまりをじっと見る。見る。視線には何の力もない。
「分かりません。でも、もしかしたら」
「もしかしたら?」
「これ」
 玉野は本を差し出す。昔の少女漫画の文庫本だ。
「この話」
「なにこれ」
「すみません、読んでみてください」
「え今? このタイミングで?」
「すみません」
 言われて、漫画なんて読んでる場合? と思いながらも、しぶしぶ読みはじめる。
 短い話だった。その漫画は、やはり私たちと同じように繰り返している世界の話で、最初、主人公たちは自分たちが同じ時間を繰り返していることに気が付いていない。その漫画の中の繰り返しは、ある超能力者によって引き起こされているのだけれども、繰り返しの事実に主人公たちが気がつかないよう、その超能力者は主人公たちの記憶を操作しているのだ(このあたり、玉野が言っていた調整弁という考えに似ている)。
 だけどやがて、主人公たちは繰り返しをしている事実に気がついてしまう。
 問題は、なぜ繰り返しをしているかだ。漫画では、繰り返しが終わったら、その先、世界はなくなってしまうのだという事実が明かされる。戦争か、災害か、何かの理由で、人類はみんな死んでしまうのだということになっている。だからその漫画に出てくる超能力者は、超能力を使って時間を繰り返しさせているのだと。
 玉野が言いたいのは、たぶん、そのことなのだろう。
 本を閉じる。本をどうしたらいいか分からなくて、玉野に本をすっと差し出す。玉野はそれを鞄の中へ仕舞う。玉野は本に革のカバーなんかつけている。文庫本にカバーなんてつけるタイプなんだなと思う。私も、文庫本にカバーをつけるタイプだから、たぶん、こんな時でなかったら、私は玉野に、文庫本にカバー、つけるんだ、って言って、笑いかけたかもしれない。
「私たちも、その、この漫画と同じように、繰り返しが終わったら、みんな死んじゃうって?」
「分かりません。でも、それが怖くて、みんな死んだのかもしれません」
 良子はそんな弱い子じゃない。そう思いながらカフェラテを飲み干すけれども、でも、弱い子じゃない、なんてそう言い切れるだけの根拠は、私にはなかった。だって、三百回も同じ一週間を繰り返した後で、それでも正気を保っていられるかどうか、自信はない。自信はないけれども、私は反対しなくちゃいけない。
「死ん、いなくなった人たちが、繰り返しに気が付いたから、繰り返しが怖いから死んでるって、あんたは思ってるけど、でもさ、良子はそんなに弱い子じゃないよ」
「じゃあどうして、他に死ぬ理由なんて」
「ないんだったら、誰かに殺されたんでしょ」
 言ってから、一拍置いて玉野が青ざめる。それからさらに一拍おいてから私が(あっ)と思う。それは、次に殺されるのは、あんたかもしれないよ、って言ってるようなものだって気が付いて。
 それから――もしそんな殺人鬼がいるんだとしたら、私だって、狙われるかもしれないじゃん、ってことに気が付いて。
 押し黙る。
「でも、その可能性、あり、あり、ですね」
 玉野は心なしか震えながら言う。私は急に目の前の子がかわいそうになってきて「ごめん」って言う。玉野は下を向いて「いいえ」って言う。いや、違うか、玉野がかわいそうになったんじゃなくて、自分も不安になってきたからだ。私は玉野と不安を分かち合いたくなってきたんだ。
 喫茶店の中は静かだ。他には一組か二組か、人がいるぐらい。さっき、一人、人が出て行ったきり(知り合いだったような気もしたけど、玉野と話していたから意識が向かなかった)、ずっと誰も出たり入ったりしない。今になって気がついたけれども、BGMでクラシックみたいな音楽が流れてる。くぐもった音の寂しいピアノの曲が、どこかから聞こえてきている。
「玉野、あのね」
 私は、私もそうなんだよ、って、繰り返ししてることに気が付いちゃってるんだよ、って言おうとして、ぐっとこらえる。どうしてか、そのことは言ってはいけないような気がして、私は言葉を飲み込んだ。
「すみません、今日はありがとうございました」
 玉野は立ち上がる。注文票の書いた札をプラスティックの札差からぴゃっと取って「ここは私が」って言ってレジに歩いて行く。別にそんな、貧乏じゃないよと思ったし、何だよもうちょっとお話しようよ、と思ったけど、私は私で、誰かが殺して回っているんじゃないか、っていうことが本当のような気がしてきて、もしかしたら、という思いがぬぐえなくて怖くなってきてしまい、玉野を追いかけていけない。
 追いかけていけない。けど、結局私は、落ち込んでる玉野に、何にもアドバイスや、不安を分かちあったりだとか、そういう、メリットになるようなことをしてやれなかったな、って思ったら、急に自分が悪いことをしたみたいな気分がしてきて、それなものだから、ふとさっき思ったことを思い出して、
「ね、玉野、文庫本にカバー、付けるんだね」
って、玉野の背中に言った。
「え? ええ」
 玉野は、何を言われたのか分からないような調子で振り返る。私だって、何を言っているのか、分からないけれども。
「私も付けてるよ、玉野」
 私は鞄から本を取り出して、玉野に(おそろいだね)って示す。なんだか、友達の作り方を知らないやつが、精一杯、共通点を見いだしてそれをアピールしようとしているみたいで、なんだか不自然で、こっけいだったけれども、でも今は、そんなことでも、玉野に言ってあげたかった。
 玉野はちょっと、どういうリアクションをしたらいいのか分からないから、とりあえず愛想笑いをしておこうか、って感じで笑って、でも私は少し、その愛想笑いに救われて、玉野は頭をぺこっと下げて、喫茶店を出て行った。
 喫茶店のガラスのドアに付いているドアベルのからんからんと鳴る音が、なんだか玉野の今生の別れの挨拶みたいに聞こえて、きゅっと胃が縮こまる。一人きりになった喫茶店で、さっき飲み干したカフェラテの、カップの底の方に残ったカフェラテを、もういっぺんすするように飲んだ。
 それから、考える。
 良子はどうして飛び降りたのか、もちろん、繰り返しに耐えられなくなって、ということは説得力があるけれども、でも、良子はそんなに弱い子ではないのではないか、とも思うし、私もそうだと思いたかった。
 良子は繰り返しがあったってそこから逃げ出して自分一人だけで死ぬような人間ではないし、もっと言えば、良子はどうせ死ぬんだったら私たちにも相談して、できれば三人で死なない? あのマンションから落っこちようよ、っていうような相談をしてきそうな人間だ。あいつはそうだ。一人で寂しく死ぬわけはない。そんなのは間違いなのだって、私は強く断言できる。
 そうであるからこそ、さっき私がつぶやいた可能性、つまり、本当に誰かが、繰り返しに気がついた人間だけを殺している誰かが、良子や他の人たちを殺しているのだ、という可能性を疑う方が、まだ説得力はありそうな気がする。
 それに、あるいはその犯人こそが、この世界の時間を繰り返している張本人なのではないだろうか?
 玉野に読ませてもらった漫画のことを思い出す。漫画の中では、もしも繰り返しが終わったら、世界も終わってしまうのだ、という説明がなされていたけれども、もし仮にこの世界も漫画のように、繰り返しが終わったら世界が終わってしまうのだというような状況に陥っているのだとしたら、繰り返しをさせている張本人は当然、この繰り返しが終わらないよう手を打つだろう。
 仮に繰り返しに気が付いている人間がいたとしたら、その人間が何か余計なこと、たとえば、繰り返しを終わらせるような行動に出ないように、何とか繰り返しが現実に起きているということを否定するような行動に出るだろうし、もっと言えば、気づいているという人間そのものを、なんらかの手段で黙らせようとするのではないだろうか。殺人事件の現場を目撃された犯人が目撃者を殺そうとしてしまうように。だから良子は殺されたのではないだろうか。
 さっき、なぜ玉野に「私も繰り返してるんだよ」、と伝えなかったのか、なんとなく口ごもってしまったのか、その理由が遅まきながら自分でも腑に落ちてくる。
 私は誰かに、少なくとも私たちを殺そうとしている犯人に、自分が気が付いているということを知られてはいけないのだ。
 そしてその犯人が玉野ではないということを、現時点では断言できない。だから、玉野にさえ伝えることは危険だと考えなければならないと思ったのだ。
 喫茶店を出た玉野が窓ガラスの外からこっちを見て、私と目が合って、さっきお別れを言ったばかりの相手と目が合った気まずさからか、ぎこちなく笑いかけてきた。玉野はまだ信用できない。でもちょっと、その印象が最初とは違って、かわいい女の子じゃないかって私は思う。勉強ばっかりできてこしゃくな女の子じゃなくて、少なくとも、玉野が犯人じゃないかどうか、もうちょっと話してぼろを出さないかどうか確かめていようよ、って思うくらいには、私の心のわだかまりも消えたんじゃないかって、今更のように思ってくる。
 迷いがある。もし本当に玉野がただおびえているだけの女の子だったら、もう少し玉野とおしゃべりをして、玉野の不安を取り除く手伝いをしてあげたってぜんぜんいい。逆にもし玉野が犯人だったら、玉野がぼろを出すまで玉野を突き詰めて問いただしたっていいはずだ。そう考えると、どちらにせよ私はもっと玉野と話をする必要があるわけだな、と思いなおして、私はスマホを取り出してメッセージを送ろうとする。
 “もうちょっと”、と画面を指でついついしながら――それからふと、もう一つの可能性に気がついてしまって、じわっと汗が出てくる。
 もし、もしも私の放言が本当で、繰り返しに気がついている人間を殺している犯人なるものが実在するのだとしたら、そしてそれが玉野以外の人間なのだとしたら――次に狙われてしかるべき被害者は、玉野本人じゃないのか。
 いやいやいや、そんな馬鹿な、と思う。でも私は頭の中で、喫茶店を出ていった玉野が、出ていった次の瞬間に、ピストルで撃たれているような、そんなばかげた映像のことを思い浮かべている。そんなすぐに犯人が行動したりはしないだろうとも思うけれども、どちらにせよ、玉野は今、帰しちゃいけない、と思う。
 玉野の不安を取り除くためでも、玉野を追求してぼろを出すまで問い詰めるためでも、どっちでもいいから、私は玉野を一人にしちゃいけないんじゃないかって思って、慌てて席を立った。
 鞄を引っかけて喫茶店の外へ出ようとして、ガラスの扉にぐっと手を掛けた。その瞬間。
 扉の外で大きな、鈍い音がした。
 ぱあん、という、風船のはじけるような音。私は一瞬、良子の飛び降りてきた時のことを思い出して、全身がすくんでしまう。
 それから、車の走っていく音がした。それから、あんまり甲高すぎてすぐには人の声だと気づけない、誰かの悲鳴が聞こえてきた。お店の中がしん、となって、その一瞬の静けさが、すごく、恐ろしくなった。
 喫茶店のガラスの扉から外を見る。喫茶店は、図書館を通らなくても外へ出られるから、図書館の中の様子も見える。図書館の中の人たちも、何が起こったのかと窓から通りを見つめている。
 私は喫茶店のドアを開ける。強い日差しが目を打つ。蝉の鳴き声が、まるで夢でも見ているようなわざとらしい調子で耳の中に飛び込んでくる。
 空。空は真っ青で、夏で、遠くにおもちゃみたいに小さい雲がある。空のすごく低いところには、薄い霞がかかっている。
 それから女の子。
 倒れている。
 みんな立ち尽くして、その子のことを見おろしている。
 眼鏡が飛んでいる。眼鏡って、飛ぶもんだなって思う。私はかけてないから分からないけれども、もっと眼鏡って、体に密着しているような気がしていた。眼鏡って、そんなに飛ばないんじゃないかって思っていたけれども、飛ぶもんだなって、思う。
 玉野。
 玉野恵美が、倒れている。
 肩に掛かっているバックから、カバーを掛けた少女漫画の文庫本がこぼれているのが見えた。私は、その本を見たくなかった。カバーかけてるから、おんなじだね、なんて、言わなきゃよかったって、いま、心底、後悔していた。
 私は玉野に近づく。どうしちゃったの、って言おうとして、でも、何を言ったって、もう、玉野には届かないであろうことは明白で、即死しているんだなっていうのが分かるくらいで、私は、最期の言葉を聞いてもあげられないんだなって思って、だったらもっと、玉野に優しくしてあげればよかったなって、心の底から、後悔していた。