オーストリアの母、マリア・テレジア
スイス北部の一介の貴族から、世界に君臨するまで昇りつめたハプスブルグ家。
1273年、ルドルフ1世が神聖ローマ皇帝に選ばれてから、ハプスブルグ家の栄光は約640年続くことに。
その640年のなかで、唯一の女帝マリア・テレジア。
マリア・テレジアは1717年5月13日生まれ。
父親であるカール6世には、男の子がいたのですが、彼女が生まれる前に他界。
嫡男に恵まれなかった父親は、ハプスブルグ家の慣例を破ることに。
周辺各国の承認を得て、女子でも家督相続出来るように画策。
肖像画を見ると、マリア・テレジアの若き日の姿はとても美しい。
その美貌は周辺各国でも噂に。
1736年 マリア・テレジアは19歳で結婚。
9歳年上のフランツ・シュテファンは、彼女が幼少期に出会った時から憧れていた初恋の人。
当時 君主の子は政略結婚が常識。
ハプスブルグ家も、
「戦いは他の者にまかせ、汝は結婚せよ、幸多きオーストリアよ」
と、政略結婚で次々に領土を拡大してきた家。
彼女が初恋を実らせて結婚出来たのは、ほとんど奇跡でした。
彼女が4人目を懐妊したとき、父カール6世が急死。
23歳で領土を相続することに。
何の政治経験もない若い女性が、いきなり君主になることは、どれほどたいへんだったかは、想像を越えています。
オーストリア周辺の国々は、若い女王は何も出来ないと、見くびり領土を狙ってきました。
しかし周辺諸国のもくろみは外れます。
マリア・テレジアは、どんな過酷な運命にも負けない強い女性。
そして、ハプスブルグ家きっての才媛。
ハンガリー王を兼任していた彼女は、オーストリアの危機と、ハンガリー死守の決意をハンガリーに訴えたのです。
マリア・テレジアの訴えに、心を動かされたハンガリー貴族たち。
ハンガリーから3万の兵と軍資金を得て、オーストリア軍は宿敵プロイセン軍と互角に渡り合うことに。
オーストリアにマリア・テレジアあり
偉大で勇敢な女帝の名前はヨーロッパ中に広まることに。
一方で、マリア・テレジアは家族思いの良き妻、良き母であった女性。
夫フランツとは生涯とても仲良く、子供は16人。
忙しい中でも、シェーンブルン宮殿での家族団欒をとても大切にしていました。
順風満帆に思われた彼女の人生に悲劇が訪れたのは1765年8月。
最愛の夫フランツが心臓発作で急死。
夫を心の底から深く愛してた彼女は絶望。
はつらつとした行動力も、気力もすべて無くしてしまったマリア・テレジア
夫の死語、彼女は一生喪服を脱ぐことはありませんでした。
さらに、政略結婚でフランスに嫁がせた末娘の心配。
彼女の末娘は、あのマリー・アントワネット。
マリア・テレジア自身は恋愛結婚でしたが、子供たちに自由恋愛を許すことは君主としては出来ません。
母としては、きっと辛かったのでは。
だからこそ、結婚したあとの子供たちの幸せを絶対に願ったはず。
ヴェルサイユ宮殿で末娘マリー・アントワネットが贅沢三昧の生活。
民衆の反感をかっている噂がマリア・テレジアにも伝わってきます。
彼女は娘の身を心配して、何度も手紙を送っていました。
1780年 マリア・テレジア永眠。
その13年後、母の悲痛な思いは届かず、マリー・アントワネットは断頭台の露と消えました。
オーストリアの母マリア・テレジア
国民から愛された女帝。
オーストリアを愛し、オーストリアのために戦った女王。