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亡くなってから仕返しされたディオクレティアヌス帝

ディオクレティアヌスは、貧しい農家の出身ですが、軍隊で頭角を現し、39歳で皇帝に。

皇帝は弱体化してきたローマ帝国の建て直しに着手。税制の改革、貨幣経済の復活、そして四分統治制を導入。

四分統治制とは、ローマ帝国内外の敵に対応するために、帝国を東西に分けて、両方に正帝と副帝を置き統治する制度。

ディオクレティアヌスは、在任中に帝国を安定させた功労者。

一方で、キリスト教には、かつてない規模の大迫害という厳しい措置も。

改宗の強要や、国に従わない者は処刑。その数は数千人とも言われてます。

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305年、ローマ最大のディオクレティアヌスの浴場が完成。

敷地面積約14万平方メートル、収容人数3000人。

この巨大な浴場は、4万人にもおよぶキリスト教徒の強制労働で造られたものでした。

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現在、浴場跡の一部はローマ国立博物館になってます。通称「テルメ博物館」。

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浴場は、他の遺跡同様5~6世紀には廃墟に。

16世紀になり、建築家パッラーディオが遺跡保存を訴えた事がきっかけで修復がスタート。

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時の教皇ピウス3世が修復とともに、その地に聖堂の建設をミケランジェロに依頼。

ミケランジェロは古代の遺跡に敬意を示し、かつての浴場を活かす形で聖堂を完成。

教会の名は「サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ聖堂」。

浴場を建てるために犠牲になったキリスト教殉教者たちに捧げるためのものだったと伝えられています。

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ディオクレティアヌスの浴場跡もサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ聖堂もテルミニ駅から徒歩数分。便利な場所にあるわりには、観光客は何故か少なかったです。

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さて、皇帝即位から21年後、帝国再建を成し遂げたディオクレティアヌス帝は突然引退を決意。

故郷近くのスピリトに宮殿を建て、そこで余生を過ごすことに。宮殿での生活はディオクレティアヌスにとって心休まるひととき。

有能だったディオクレティアヌスのもとには、もう一度皇帝の座に戻って欲しいと、何度かローマから使者が。

その度に、彼は「自分の畑で大切なキャベツを育てるのに、私がどれだけ忙しいか、君は知るべきだ」と言い、復権することを断り続けました。

殺されたり、辞めさせられたりする古代ローマの歴代皇帝の中で、自ら皇帝を引退したのは、ディオクレティアヌス一人だけだったそうです。

ディオクレティアヌスの死後、宮殿は次第に寂れ廃墟に。

7世紀頃から、他民族の迫害から逃れてきた人たちが、宮殿の遺構を利用して、ここに住みつくことに。

ディオクレティアヌスの死後数百年後。

キリスト教徒たちの彼に対する大復讐が。

ディオクレティアヌスの霊廟は、キリスト教の聖堂に改築。

積年の恨みからか、霊廟にあったディオクレティアヌスの石棺は壊され、彼の遺体は行方不明だとか。

数々の改革で古代ローマ帝国の復興に尽力したディオクレティアヌス。本当なら、ローマの歴史上の英雄になっても良さそうだったのですが。。。

でも、キリスト教徒への仕打ちがあまりにひどかった。

キリスト教徒の多いヨーロッパにおいて、ある意味当然なのですが、ディオクレティアヌスは、今でも不人気な皇帝なのだそうです。

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スプリトで夏の日射しの中、宮殿跡を散策した後で、遺跡の中のおしゃれなカフェでお茶。 

いいなあ、行ってみたいです。






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