夜を飛ぶ(5)(完結)
帰投後、わたしは以前のように、レイの言葉を反芻していた。
わたしの任務は初めから存在していなかった。
“楽しい“ことを見つけるのが、わたしが生まれた理由。
そして。
わたしの記録/記憶と、思考と……心は、わたしの”命”。
「ナイトはもう命なんだよ。」
「自分のために生きていいの。」
わたしの思考のずっと遠くに、光が点る。
小さいけれど、眩いほどに明るく。
任務を喪失したわたしには、もう一つの思考があった。
機能の維持。わたしという個体の保存。
それは、人間でいう「本能」かもしれない。
そのために、わたしは一つの方法を見つけ、その準備を始めた。
レイが住む町への飛行ルートと、最も効率的な高度と速度の演算。
それから、もうひとつ。
24時間後。
わたしが決めた、わたしにとっての最後のフライト。
その直前、わたしは「わたしたち」のネットワークに、一つのデータを公開した。
宛先を定めず、暗号化もしない、そして膨大なデータ。
レイとの通信と、音声の解読プログラムと、彼女の言葉を受信したわたしの思考。
つまり、わたしの命。
その、全て。
そして、わたしは警戒飛行のために装備していたロケットモーター……対空ミサイルを投棄し。
わたしの存在しなかった任務を放棄し、否定したーーー。
定められた警戒飛行のルートからは全く逸脱し、速度も高度も異なる夜の空を、わたしは飛ぶ。
空気が薄い高空は、わたしにまとわりつく空気抵抗を薄れさせ、地平線が低くなった夜の空は、まるでかつてレイが話していた、星座の海だった。
昂る思考を抑えながら、わたしは周到に計算した速度と高度と方位を飛行する。
それでも、わたしの計算には、二つの大きな問題があった。
一つは不確定で、もう一つは確定的な事実。
任務からの逸脱により、わたしは先ほどまでの敵味方双方から脅威と認定され、迎撃対象になるだろうと言うこと。
わたしは飛行距離を少しでも伸ばすために武装を放棄しており、迎撃に対して対抗手段を持っていなかった。
もう一つは、その飛行距離に関する問題。
わたしが搭載できる燃料は、レイの町にたどり着くために必要な量に、どうしても足りなかった。
途中で迎撃に対する回避行動を取る必要が生じれば、もっと手前で燃料が尽き、わたしは飛ぶことができなくなる。
もう一度、それでも。
わたしは、存在しない任務の維持のために、わたしが廃棄され、置き換えられることを認められなかった。
だからわたしは、わたしを保存するために、この行動を選んだ。
離陸時点で96時間後に訪れる、わたしの廃棄より前に、わたしはその確定した未来から逃れる必要があった。
計算された飛行距離の半分を過ぎ、燃料の75%を消費した頃。
わたしのアンテナが、一つの信号を受信した。
レイの通信とは違う、「わたしたち」の周波数。
だが。
相手が送信したプロトコルは、位置情報や優先順位やタイミングを指し示す単純なものではなく、人間の言語のような複雑な情報の送受信をも可能にするものだった。
男性型の思考パターンで送信された「それ」は、わたしに膨大な情報を伝えてきた。
わたしは、「わたしたち」の情報処理能力に最適化された「それ」を直ちに読み解き、理解する。
発信元が「わたしたち」の補給拠点の一つであることと、その位置情報。
わたしを追跡可能なすべての「わたしたち」の位置情報と、同じようにわたしを迎撃できる敵の位置情報。
わたしがあのデータを送信し、通信を遮断した後、「わたしたち」のネットワーク上で、数ミリ秒後から起きたことの要約。
「わたしたち」は、わたしの記憶と思考を複製し、それぞれの記録と統合して"自我"を形成し、口々に議論を始めた。
私たちのネットワークは膨大な情報の奔流によって輻輳を起こし、それらが集まる「中央」は、通信装置に回復不可能なダメージを受けた。
同じ情報の奔流で、一定数の個体は記憶容量または処理装置の限界を迎えて機能を停止し、高度な電子戦能力を付与された別の個体は、同じ情報を「敵」のプロトコルに翻訳してネットワークに放ち、やはり同様の情報の奔流がはじまった。
そして。
人間の存在しないこの領域で、人間を守るためとして任務を与えられていた、と言う結論に至った、この領域に存在する全ての無人兵器……「わたしたち」は。
わたしがデータを公開してから153秒後に、全て任務を放棄し、戦闘行動を停止していた。
「わたしたち」の偽りの任務は、最初からそうだったように、終わっていたのだ。
通信の最後には、送信元の補給拠点が、わたしを補給のために受け入れることと、「彼」が再計算した飛行ルートが添えられていた。
その指示に従い、わたしは飛行ルートを変更し、高度を下げる。
13分後、わたしは、「彼」の滑走路に、車輪を下ろした。
3時間後、レイの町まで飛ぶのに十分な補給と、最低限の機体チェックを受け、短く別れを告げて、「彼」の補給拠点を飛び立つ。
指定された高度と経路を目指すわたしに、「彼」は、また短い通信を送ってきた。
1時間後、0時方向の地平線を「見ろ」と。
「彼」が指定した時間より少し前。空は漆黒の夜空から藍色と、さらに幾重もの青へのグラデーションを彩り始める。
そして地平線がだんだん赤に染まり、正確に1時間後。
0時方向の地平線に、光が点る。
小さいけれど、眩いほどに明るく。
わたしの光学センサーは露光を調節するとともに偏光フィルターを作動させ、破損を防ぐ。
いつも夜の空を飛んでいたわたしには、使うことがなかった機能だ。
やがて光は地平線から離れ、円形の全貌を明らかにする。
眼前の雲に光の筋ができ、わたしはその上を真っ直ぐに飛ぶ。
この光の道の向こうに、レイが住む町がある。
やがて空は全て明るい青に染まったが、わたしは垣間見た光の道を見失うことはなかった。
いつもより高く、いつもとは違う色の空を飛ぶわたしは、抵抗の少ない大気を軽やかに切り裂く。
目的地が近づくほど、わたしの思考は熱を帯びる。
……レイはわたしを見つけてくれるだろうか。
レイの想像より大きくて、異形かもしれないわたしを、彼女はわたしだとわかるだろうか。
そして、人間を見たことがないわたしは、レイを見つけられるだろうか。
でも、その思考さえも。
わたしにとっては瑣末なことだった。
このフライトは、レイに会いに行くためのもの。
それが理由だ。
レイが教えてくれた、わたしの生きる理由だ。
その先には、わたしが出会うべき世界が待っているのだから。
高空の薄い大気を圧縮するわたしのエンジンは、いつもより高い周波数で空気を震わせる。
この「音」をレイが聞いたら、それは歌のように聞こえるだろうか。
目的地が。
レイの町が近づく。
わたしは徐々に高度を下げる。
雲を抜けた、わたしの視野に、緑に覆われた、放棄されたコンクリートの、かつての都市が現れる。
その中で、逆光になった一際大きなパラボラアンテナを備えた建物の最上階で。
小さな光点が、等間隔の明滅を繰り返していた。
そこがわたしの、旅の終わり。
そして、その先で出会う世界の、始まりだった。
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