クロスノエシス:「希望への神話」と、その巫女たち。または、音楽の幸福な記憶に寄せて。

ダークポップダンスアイドルユニット、クロスノエシスの4周年記念ライブを観てきた。

誰がなんと言おうとリキッドルームは日本一のライブハウスだ。
やや丸みのある四角形のフロアは、ライブの一体感を生み出す舞台装置として至高のものの一つだと思っているし、そこでこのライブが行われたことは、そこにいた人間だけでなく、音楽というものに記憶があるとしたら、その幸福な一つとして刻まれたのだ。と思う。

結論だけを先走らせれば、とても完成度が高い、ステージの上にいる人たちの愛と、それを観る人たちの愛に彩られた、とても幸せなライブであった。
その最後の瞬間まで進化を止めず、楽曲とパフォーマンスの完成度のためにこの4年間を捧げてきたステージ上の彼女たち(と、その背後にいた彼らと彼女たち)に思いを馳せれば、それ以上他に言うべきことはないのかも知れない。

しかし、その4年間に生み出された楽曲たちの物語をなんとか読み解こうとして、おそらく外し続けたオーディエンスとして、この物語を「人間」側の物語だけに終わらせるわけにはいかないぞ、と言う話でもある。

まずクロスノエシスの物語について俺が考えていた仮説は、
・この世界には「主人公」が2人いる。
・どちらも人間ではない生命体のようだ。
・過去にいる主人公は人間界に降りてきて人間を救おうとし、絶望の淵で一人戦っている。
・未来にいる主人公は、過去にいる彼に関する記録または記憶を拾い、その彼こそを救おうとして、
 未来から懸命に手を伸ばしている。
・そうしているうちにも文明は発展し、外宇宙へ向かっている。

この仮説とだいたい一致したのが前回のワンマンライブ“salvation“で、ああ、ここで主人公2人はやっと手を繋いだのだな、と思った。

のだが。

黒とグレーの衣装を纏った彼女たちは、ライブ未発表であった”gone”の、どう差し引いても仏教的なイメージがある(特にイントロの)サウンドと、極彩色に変化するVJを背後に歌い踊る。
そのとき思ってしまったのは、「高次元から何か来たぞ」ということだった。
別の言い方をすれば、「この物語三次元のやつじゃなかったかー」という感じである。
(さらにfull moonで、「あー帰っちゃう帰っちゃう!」と1人わたわたしていた。)

彼女たちのグループ名「クロスノエシス」の略称「クロノス」は、ギリシャ神話の「時間の神」の名でもある。
(ギリシャ神話の正典に登場しない、と言う話もあるし、同じ読みになる農耕の神がいるそうなのだが。)
他方、クロスノエシスの楽曲モチーフには神話的なものと共にSF的なものや理論物理学的なものも多数登場するのだが(新しいところだと、俺には"Gravity"に重力子(重力を媒介するとされる未発見の素粒子)のモチーフが入ってるように聞こえる)、それらにおいての「四次元」のもうひとつの座標軸としては「時間」の存在が示唆されている、と言う。

クロスノエシスの楽曲と彼女たちのライブは、我々の記憶と多数の記録媒体に残るし、我々はその記憶や記録に未来からアクセスすることができるのだが、楽曲世界の主人公としての「彼ら」は、本来時間という概念に縛られる存在ではなかったし(特にこのライブ後半のストーリーにおいて)彼らが本来いた、時間から自由な高次元に帰って行った、という印象なのだ。
(このあたりは、我々があくまで「過去の出来事」かつ音声または映像という「二次元」の記録にしかアクセスできない、という制約とは対照的なのだと思う。)

また、クロスノエシスの物語の主人公が(ここまでなかば強引に述べてきたように)高次の存在なのであれば、この世界に実体を伴わず存在することも可能であろう。
つまり、ステージにいた、または我々が観てきた彼女たちは、その依代であった。

作詞者としても世界観の構築に関わり、またパフォーマンスへの常人ならざる集中力でグループを牽引したAMEBA。

小さな体でも伸びやかなダンスで、観るものを引き付けてやまなかったFLAME。

グループで唯一アイドル未経験であり、一番年下でもあった「末っ子」として現れ、
ミュージカルや演劇の素養から生まれる、力強くしなやかな歌声で表現を彩ったLAKE。

異なるアイドル文化から現れ、ダンスの美しい曲線でグループを彩っていったMAI。

圧倒的なボーカルに内なる激情を封じ込め、おそらく理想の語り手であろうとした完璧主義者RISA。

主人公たちはこの物語……神話の世界へと帰り、クロスノエシスと呼ばれた彼女たちは、“seed”(種)から芽生えた希望の花……白いガーベラを残して、神話の巫女としての役割を終えた。

ライブの構成上最後の曲であった、という意味でもそうなのだが、"lost moment"がそれ以上に楽曲世界の主人公たちと、彼女たちの惜別の歌に聞こえたのは、おそらく思い違いではないのだろう。

ここに残ったのは、他者を思いやる、また自分たちの表現に真摯に向き合ってきた、愛すべき5人の女性たちである。
彼女たちがこの「結末の続き」に、それぞれに歩む道が、たくさんの希望と幸福に彩られることを願っている。


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