石山寺
滋賀県にある石山寺を訪れた。
平安時代、貴族たちの間で石山詣が流行り、多くの人が訪れた場所なのだそう。
「源氏物語」を起筆した場所と言われている。
紫式部が使っていたとされる硯は墨の濃淡を使い分ける仕様になっており、硯に「牛」と「鯉」があしらわれていた。
そこに遊び心を感じ、紫式部好き!となった笑
現在、「光君へ」が放送されており
大河ドラマ館があったり
お菓子も硯で出てきて、紫式部の世界観を堪能できた。
心のままに散策していると
なぜか本堂への参拝が1番最後になった。
義母のエネルギーを纏い、一緒に散策している気分だったので人として散策をちゃんと楽しめた。
(私個人だと、感覚が研ぎ澄まされ、メッセージがくることが多い)
本堂をお参りする直前に
八大竜王を祀っている場所へ出た。
なぜか、その空間には薄いベールがかかっていた。
あれれ?竜のエネルギーはどこだろう?
見えないな〜と思っていると
心にふっと自己紹介をしようと浮かんだ。
自己紹介をして目をあけると
薄いベールの内側に入ったことが分かった。
目は同じ風景を映し出しているはずなのに、
全く違う風景が現れた。
ベールが剥がれ、澄み渡り、視界が良好な感じがする。
その空間にある、全てのものが竜だった笑
岩も、木も、土も、池も、空気も、大地を這う木の根っこも、山全体が竜であることが分かった。
エネルギー体だけでなく、物質として存在していることにとても驚いた。
感動して、じっくり観察していると
池が「ボコッ、ボコッ」と音をたて
水の中の土が舞い始めた。
(水が湧き出ただけ笑)
わぁすごい✨✨
ちゃんと呼吸をしている!
大地が、竜、が生きていることを全身で感じた。
これまで、空や海、滝や川、空間を自由に動き周る
エネルギー体としての竜しか感知していなかったし
「天と地」をつなぐ存在は、空間を漂っているものだと思い込んでいたのでびっくりした笑
大地は躍動する、生きている。
君たち人間は、生きて動いているゾウの背中にアスファルトを敷き詰め、ビルを建てて生活しているようなもんだよと以前メッセージを受け取っていたのだが。
なるほど、
物質化しているものも
そうでないものも、全て空間に漂うエネルギーに過ぎないのだと腑に落ちた。
そして、全てのものは呼吸をしている。
そんな気づきを得て、ふっと顔をあげると
観光客の方がこちらに来るのが見えた。
(こういう体験をする時、私以外に人がいない)
あ、違う世界を生きているのだなと思った。
人間的には同じ空間にいるけれど、
私達はみんな薄い膜で覆われていて
それぞれ、違う世界を生きている。
私の能力は、その膜の間を移動できること。
時間軸も距離も関係なく、その空間を意識で
自由に飛び回れることなのだと思った。
ハワイへ行きたいと思えば、目を閉じると
その土地のエネルギーと繋がれる。
もっと感覚を研ぎ澄ませば、匂い、質感、音、空気感を
より詳細に体感できるようになるのだと思う。
人間的に楽しみたければ、やはり現地を訪れる方がいいし、直にその土地で味わう豊かさもある。
けれど、その日の気分によって好きな土地のエネルギーを纏えるとしたらこんなにワクワクすることはない✨
豊かな経験に、心から感謝をした。
最後にお参りした本堂には
美しい観音様がいらっしゃった。
じつは、これまで偶像崇拝という形が
苦手だったのだが。
人々の祈りが結晶、物質化したものなのだと腑に落ち、
愛おしく思えた。
結局、この世にある全てのものは
(目に見えるもの、見えないもの)
尊く、愛しく、美しいのだと感じた。
きっと、これは平安時代に過ごしていた
女性達の想いなのだろうと思う。
大河ドラマ館で流れていた映像の中で、吉田羊さんのセリフが印象的だった。
「私は、妾であることを書くことで慰めていた。
自分自身を慰める方法が、書くことなのだ」
多分、こんな感じのセリフだったと思う。
思い通りにならないと感じる現実
生まれる悲しみや、絶望
それを書くという方法で自分の外側へ表現し、客観という視点で見つめる。
どういう捉え方をすれば、
自分自身を救えるだろうか。
慰めることができるだろうか。
そんな「光」を見つける作業は、今も昔も変わらないのだなぁと感じた。
私は、この現実が最高の未来に導いてくれるとしたら?
という視点が大好きすぎるので、
慰め、救うという方法ももちろん使うけれど
結局、楽しみと結びつけることも多い。
それぞれ
自分の心がほっこりする「光」を見つけて
日々、安心の中で過ごしていけたらなぁと思います。
今日も、あなたらしい1日を✨✨