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人類は悲しからずや左派と右派 / 麻生路郎 【著作権のおわった柳人の句をよもう!】

人類は悲しからずや左派と右派

麻生路郎(1888-1965)


「かなしからずや」でも「哀しからずや」でもなく、“悲しからずや” なのが絶妙に良い。

“左派と右派”との、社会的・政治的分断に言及した語り手のテンションが、淡々と伝わってくる。

平仮名の「かなし」は、「愛し」「愁し」「美し」とも書けるし、もちろん「哀し」「悲し」とも書けることから解釈の幅も広い。

また、「哀悼」ということばもあるように、「哀し」には、より自分の外部にある対象へと想いをはせて、共感をしたり、おもんばかるようなニュアンスが含まれている。

あえて大胆なことを言うと、「かなしからずや」や「哀しからずや」の表記から生まれる詩情には、水気がある。涙や、降ってほしくない雨や、ひとりぼっちの湖畔を連想させるような字体。

対して“悲しからずや”には、そこまでの潤いはない。もちろん、泣いていても変ではないが、涙の水気そのものよりも、語っている主体のつらさや絶望感、あるいは諦念が前面に出てくるような感じ。
解釈の幅も「愛しみ」「哀しみ」などには広がらず、「悲しみ」に限定されている。

そしてその限定的なイメージゆえに、“悲しからずや”が使われているこの句においては、余計な解釈の幅や、潤い、センチメンタルな詩情…といったものが完全に排除されている。


しかし、それでいてなお、この句には〈余白〉がある。

“人類”という壮大すぎるスケールで、主語(主題)を括ってしまっているからだろうか。
悲しがられる原因は“左派と右派”と、かなり決定的に絞られているのに対して、肝心の悲しがられている対象は“人類”全体。
これではどうしても、論理構造として破綻しているようにも見えるし、主語自体もどこかぼやけてしまう。

そして生じる余白。これは〈水気のあるイメージや、多様な解釈から生じる余白〉ではなく、〈成立しきっていない論理構造から生じた余白〉であるようにも思える。

論理的な明晰さがどこかで欠けていて(実際人類全員は左派と右派には分けきれない)、それでいて同時に(自分たちが生きている社会を見てみたときには)芯も喰っている…というのが風刺表現として一流である。

“人類”全体を主語に置いたことの痛快さ(強さ)と、「いや、それは主語デカすぎでしょ!」という突っ込みどころ(弱さ)とが、絶妙な均衡をとっているからか、風刺に刺されても痛すぎない。

また下五には、“左派と右派”という名詞を、ポンと並列で置いているだけ。〇〇に「なる」、とか「分かれる」とか「争う」という動詞を一切よみこんでいない。
みなまで言わないことによって、そのあとの想像を読者に委ねているところにも、ちょっとした余白があると言えるだろう。
しかも、その想像の行き先は決して自由ではなく、ある程度、社会風刺の方面へと限定されているはずだ。







ところで、「かなしからずや」ときけば、短歌


白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

若山牧水



そして詩

夏の夜の博覧会はかなしからずや

中原中也

を連想するのは、自分だけではないはずだ。

(ここからはもう、純粋な一句評ではない雑談な感じなので、お元気残っている方だけお付き合いいただけたら幸いです。)

若山の歌や、中原の詩において用いられている「哀しからずや」「かなしからずや」には、せつなさや共感を示すニュアンスがある。

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若山牧水の短歌において、白鳥は、青に〈染まらないこと〉を哀しがられているのに対して、麻生路郎の描く“人類”は、周囲のイデオロギーに〈染まってしまうこと〉を悲しがられているのが、対比として面白いなと思う。

白鳥に対して種を超えた共感能力を示す、若山による語り手の「哀しさ」と、同種の人類をでたらめに全部一括りにしてぶすっとつぶやく、麻生が作り出した語り手の「悲しさ」。
すこし、笑えてもくるくらい、お互いに見事だとおもう。

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中原中也の詩においては、題名は「かなしからずや」と平仮名にひらかれており、詩がはじまると“哀しからずや”と“かなしからずや”の表記が混在するような構成となっている。

(↓詩全文は青空文庫からどうぞ)


ここでも、中原は読み手に対して多様な幅をもたせているのに対して、麻生の“悲しからずや”は、冒頭でも言ったように少々断定的であり、解釈を絞っている。


中原は、息子の文也を亡くしてしまった「かなしみ」や「哀しみ」を、茫然自失のままの純度で詩に乗せようとしていたからこその「かなしからずや」だったのかも知れない。

説明不能。息子の死すら「かなしかったのか、そうかもしれないけど、もうよくわかんない」みたいな。
(…そう思うと“春日狂想”にも負けないくらいの、かなりの狂気が埋め込まれているような気もする)

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中原中也の詩論には、〈芸術世界〉と〈生活世界〉が対立概念として現れることがあり、中原自身は徹底して、〈芸術世界〉からの詩作を要求していたように思う。

しかし、麻生の句は「かなしからずや」の詩情を、豊かな〈芸術世界〉から提示するのではなく、あえて〈生活世界〉に近いところから“悲しからずや”…と提示することによって、結果的に皮肉たっぷりな読み味になっているのだろう。


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ここからは完全に余談。


思い返すと僕は、「〇〇は、かなしからずや」という構文が、ずっと謎だった。


調べてみると、「〇〇は、かなしくはないのだろうか。いや、きっとかなしいのだろうな。」みたいな意味…と教えてはもらえるのだが、どうもしっくりこなくて。

なんだかそのぼやけたニュアンスよりも、強いかなしみをこの言い回しから感じてしまっていた。


若山牧水の句は、まだ納得できるのだけれど、中原中也の詩がどうしてもこの「かなしくはないのだろうか?いや、かなしいだろう」みたいなニュアンスでは読めなかった。

(前に何かで見た、毛筆で太く記された中也直筆の「文也の一生」と「夏の夜の博覧会はかなしからずや」の字像から、もの凄い激情を感じたからかもしれない。)


でも今回、この麻生路郎の川柳を通して、この川柳はもちろん、今まで難儀していた詩や短歌の読解にもすこし繋がった気がして、かなり嬉しい。

川柳評、自己満ではあるけれど、実りはたしかに感じている。これからも続けていきたい。

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