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あまりに丸ければ南無と見る月 / 宮島龍二 【著作権のおわった柳人の句をよもう!】

あまりに丸ければ南無と見る月

宮島龍二(1900-1927)

 リズムと音が気持ちよい。9-7という独特の形だが、その破調すらあまり気にならないような、定型詩としての説得力があると思う。

 全体として聞いたときのn音とm音の丸み。心地よさ。そして“maru”と“南無namu”で踏まれる〈auアウ〉の韻。「ama(あま)」「rini(りに)」まる「kere(けれ)」「bana(ばな)」むとみ「rutsu(るつ)」き…で、母音が二音つづいているところがこんなにあるというのも、すごい。耳だけでなく、口にまで快感が押し寄せてくる。

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 この語り手に生起した“南無”という言葉(あるいは感情)は、『語り手自身が積極的に生み出したもの』というよりは、”あまりに丸”い月から、『思わず生じさせられてしまった』というようなニュアンスが強く感じられる気がする。ここで“南無”と唱えることに対する、語り手の「自主性」や「能動性」はあまり感じられない。
 もちろん、月から操られているわけではないが、それでもこの“南無”は、語り手から月に向かって『積極的に発揮される祈り』というよりは、語り手と月との関係性の中に『生じてきたもの』『生じたままで留まっている瞑想』のように感じられる。

 “南無と見る月”という語りからは、「語り手が南無と言いながら月を見た」という景を想像することもできるが、評者にはむしろこの“南無”は、実際に口から発せられた言葉ではないように思えた。
 本当に見事な月をみた時には、“南無”と『言う』ですらなく、“南無と見る”ほかないのだ。月と語り手との関係から生じた瞑想。語り手は月を見ながら、心の中でそっと“南無”と唱えたのだと思う。
 「きれいだな」という評価的な感情ではない。”南無”という言葉だけを生じさせられた、そのある種の虚心。


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 “月”を詠み込んだ近代川柳の中には、月そのものの景を描写・写生したような句や、『さびしさ』『いとしさ』『かなしさ』といった、語り手自身の(比較的ロマンチックな)感情を月に投影して詠んだもの、また『貧困』や『家庭』といった生活実感、生活の一場面と並列する形で、月を提示した句も多い。(末尾の※1にいくつか引用する。)


 だが宮島にとって、“月”とは、そうしたロマンティックな感情やシビアな生活場面、あるいは単に綺麗な景…と言ったよりもむしろ、『沈黙そのもの』と切り離せないような句材だったのかも知れない。
 宮島句は、月に向かって沈黙した上で、『視覚』を働かせる。


月ヂツとおのが心を地に眺め

宮島龍二

 こちらも宮島の句。この句においては、“月”の方が擬人化され、主体となっているが、やはりともに描かれているのは“ヂツと”という沈黙の景(視覚を強調しながら、同時に沈黙を描く、良い擬音だと思う)である。月自身がおのれの“心を地に”映し出して、黙って“眺め”るのだ。
 この句では“月”は見る側でもありながら、(まさに自分自身によって)見られる対象にもなっているのがおもしろい。

 宮島の句は、月を見ながら孤独だが、同時にその孤独を悲観してもいない。月を見ながら人恋しさを言明しない。独り言もない静かさ。深い瞑想。


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 なんか、評者としても、これ以上ごちゃごちゃ語るのはあんまり良くないような気もしつつ…。まあでも、ここからは余談みたいなかんじで…。

 宮島による“月”を詠みこんだ句と、一見ちょっと似ていそうな句に、高木角恋坊の

月と我と影と三人静かな夜

高木角恋坊(1876-1937)

 があるが、高木のこの句は、宮島の句に比べると『ぼっち感的な孤独』を強調しすぎているように思う。月から思わず生じさせられた孤独感というよりも、むしろ語り手自身が、主体的に孤独感を詠んでいる気がする。あえて言うなら『月にかこつけて自分の孤独感を詠んでいる』ように見えなくもない。
 高木の句からは、宮島句に感じられるような、『孤独であるからこそ成せるはずの瞑想』は感じられないと思う。また、


ひざまづき隅にも月にも掌を合わせ

吉田茂子(1875-1964)

 という、吉田茂子の川柳も、一読すると少し宮島句に近さを感じる。しかし、吉田の句には『瞑想』よりも『祈り』(もっと言うなら「祈り」というよりも『お祈り』)、そして、『沈黙』よりは『静けさ』を感じはしないだろうか。
 宮島の句は、月の美しさや、満月の荘厳さのようなものを一方で認めつつも、その語り手は何処かで月と対等な目線を持っているような感じもする。“南無と見”つつも、『拝む対象』ではない、月との関係の仕方。

 宮島の句における『虚無的な心象』『瞑想の感』は、むしろ「満月」とは逆の、「細っていく月」を詠んだ西島〇丸れいがん

凩に磨かれきって月細る

西島〇丸にしじまれいがん(1883-1958)

 の句に親和性を感じたりした。
 しかしそれでも、〇丸れいがんの句は、ある種の写生句らしい静寂さ(もはや俳句っぽさ)を持っているのに対して、宮島句は単純な写生句でもないのに、その中にこれだけ川柳の形式を生かした上で、瞑想的な心象を描きだせるのはすごいな、と思った。
 また、細る月よりも、むしろ満月の側から、雑念の削ぎ落とされた『虚心』を引き出してくる宮島句の語りは、非常に興味深い。

 それでいて、現代川柳(例えば、飯島章友が2021年に素粒社から発表した句集【成長痛の月】の中の連作「一銭一句物語」など)における“月”よりは、遥かに日常的な『月としての実感』は伴ったまま(つまり地に足つけたまま)、高い詩性を保っているように思った。
(↑ちなみに、もちろん評者は飯島章友さんの句集も、現代川柳として大好きです)


 最後に“月”とは関係なく、深い瞑想を感じた、宮島句を引用して終わりにする。みなさん、月でも見ましょう。

土溶けて水、水溶けて虚無之身

宮島龍二



(※1)

・月そのものの景を詠んだ句

山河尚残る古城に月一つ

大谷五花村(1891-1958)

芒から芒へ赤い太い月

藤村青明(1889-1915)

電線をころがりそうに月の位置

前田伍健(1889-1960)

信号の赤もなまめくおぼろ月

村田周魚(1889-1967)

汲み上げた水にも一つ月がある

高木角恋坊(1876-1937)


…まあ、高木角恋坊の句は“月”ってよりも洗面所の豆電球かも知れないけど。そして前田伍健と村田周魚の句めっちゃ良いですね。


・月とともにさびしさや恋しさ、哀悼などの感情を詠んだ句

梅月夜独り醒めたる世の寒し

安藤幻怪坊(1880-1928)

月影に独り蟵釣る味気なさ

小島六厘坊(1888-1909)

お月さまこんなに草が枯れました

島田雅楽王(1889-1943)

恩人は月のある夜の月の中

大山竹二(1908-1962)


・月とともに生活感情や日常場面を詠んだ句

名月やさて食ふものはもうないか

高木角恋坊

心待ち度々月を誉めに立ち

木谷ひさご(1888-1919)

ほろ酔へ月も浮気な影つくる

村田周魚

さようならを三度も言うた朧月

延原句沙弥(1897-1959)

盆踊り村は太古の儘の月

大谷五花村

しんとした庭一つぱいに月になり

井上信子(1869-1959)


てか、信子さんの句、良すぎるだろ。句沙弥さんの句は、生活場面なのか切ない感情描写なのか分からない(明確に分けられないと思う)けど、とりあえずこっちに入れてみた。

・そして意外とどこに入れていいのか分からなかったの句

雪達磨月の世界と往き来する

後藤蝶五郎(1899-1959)


かなり好い。それこそ、ちょっと現代川柳味あるかも。

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