{小説}「紡ぐ幻想語(ゆめじ)は儚き永久(とわ)へ」{本編}
「古峰(ふるみね)先生?」
夕方の教室。西日の差す窓辺。日の暮れは遅くなり、昼間の暑さが残る校庭を、未だ走り回る幾人かの影が遠くに見える。
二人しかいない暗い教室は夏の暑さに対してやけに寒々しかった。
「先生?」
少女がもう一度話しかける。この教室に呼ばれた本人は窓の外を眺めたまま、静かに息を吐く。
「どうしたんだい?今日に限ってこんなところに呼び出して」
その目は閉じられたまま。その雰囲気は顔に刻まれた年相応の皺も相まってより暗く少女に影を落とす。少女はそれに飲まれぬよう、できるだけ明るく答える。
「先生に、お尋ねしたいことがあって」
「尋ねたいこと、ですか」
白い顎鬚を撫で、ふむ。と一言。
「いいよ。生徒の話を聞くのも教師の役目だからね」
振り返った彼は笑顔でそう少女に返した。
近くの椅子に腰掛け、少女にも座るよう促す。
「話とはなんだい?」
「その、言いにくいことなのですが・・・。最近学校で流行っている噂についてなんです」
「ほう。噂・・・」
真っ白な教室。点いていない電気を見上げて教師は呟く。
「噂とは、学校の怪談のことかい?」
俯きがちに少女は頷く。
「最近、クラスの中で流行っているんです。この学校には昔、七つの不思議な現象、七怪談があったって。それがまたこの学校でも起きているって」
「例えば、どんな話だい?」
「どんな、ですか」
少女は記憶を辿るように、少しずつ話し始める。
「一つ目は確か・・・。トイレの幽霊の話です。真っ暗の、誰もいないはずの女子トイレの中から、しくしくと泣く女の子の声がするっていうんです」
少女の顔が少しだけ陰る。
「その名は、トイレの風蘭輪(ふらわ)ちゃん」
「風蘭輪ちゃん、か・・・」
教師は椅子の背もたれに体重を預ける。
「風蘭輪ちゃんの他には?」
「他には、地下に眠る冷凍人間とか、暗闇でしか現れない秘密の廊下への扉とか、ひとりでに明かりのつく教室とか・・・」
少女の表情は未だ暗いのに対して、教師の表情はずっと穏やかなままだ。
「そうか。最近そんな噂が流れていたんだね。」
そう納得するかのように頷いた教師は、再び少女の方を向く。
「それで、君はどうして私にその話を?」
「それは・・・、古峰先生がこの学校で一番そういう話に詳しいって、クラスの友達が言っていたので」
「そうかい。君たちの中にはそういう情報に長けた人もいるんだね。」
そう言った教師の顔から急に笑みが消える。
「それじゃあその人たちから聞かなかったかな?普通の人には見えもしない教師が、あたかも存在するかのようにこの学校を徘徊しているって・・・」
その言葉に少女の表情が強張る。少し教師が体を動かしただけで、その瞳が泣きそうなほどに潤む。
そんな少女の前で、教師の顔が再び微笑みのシワを作る。
「なんてね。今の話は冗談だよ。私も今までそんな話聞いたことが無いからね」
その言葉にほっと安堵の息を漏らす少女。
「驚かなさいでください、先生。本当にそうかと思っちゃいましたよ」
「そうだね。ありもしない話で驚かすのは良くないことだね。でもね、昔はそういうありもしない話が、本当に存在しない話なのか判断できなくてね。そんな話が人から人へと伝わっていって。それ故にいろいろな怪談話が生まれたのさ。学校の七不思議だってその一つ。」
「先生が子供の頃も、こんな怪談があったのですか?」
「ああ、あったよ。それはもう今より数多くね。」
「でも、そんなにあったら、誰も信じませんよね。だって、そんなに怪奇現象があったら、もっといろんな人がそれを見ているはずですし」
その言葉に教師は答えず、代わりに質問を返す。
「君はどうなんだい?信じるか信じないか」
「私は、なんと言っていいか・・・」
少女の目がちらりと動く。そちらの方向に教師の目も自然と動き、止まる。
少女は再び教師に目を戻す。
「先生は、信じているんですか?」
「私かい?私は信じているよ。きっと幽霊や妖怪はいるんじゃないかって。」
「怖く、ないんですか?」
「怖い時もあったね。でも幽霊や妖怪に人を助ける者がいるように、全てを人間が恐れる必要はないと、私は思うよ」
「そうですよね。全てが人間の敵になるってわけじゃないですしね」
少女が笑う。
教師も笑う。
そして、笑う声。
「ところで、私からも一つ質問していいかな?」
「はい」
教師はそこで明らかに少女から視線を逸らして言う。
「そちらは、君のお友達?」
「えっ?」
少女の隣を見つめる教師は、そこに何か居るかのように話しかける。
少女は目を見開き固まったまま。
「初めまして、ですね」
教師はさも何かがいるように握手を交わす。その様子をすぐ横で見つめたまま、少女の口から声が漏れる。
「先生、見えるんですか・・・?」
「君も見えているんだよね?さっきの笑い声も、聞こえたんだよね?」
教師からの質問に驚いた表情の少女。
「見えているから、質問に来たんじゃないのかい?その子を連れて。この学校にはそんな妖が実際にいるのかって」
しばらく黙ったまま座っていた少女がやがて顔を上げて答える。
「確かに、私には見えるんです。生まれつきではありませんが、最近になってよく見えるようになったんです。それがなんだか不思議で、怖くて。そんな時に聞いたんです。先生は、怪談にお詳しいって。それで聞いてみたくなったんです、先生のお話を・・・。もしかしたら、先生も見えているのではと思って・・・」
その言葉にしばし沈黙した後、教師は椅子から立ち上がり窓辺へ向かう。
「そうだね。それじゃあ少し、昔話をしようか。今からほんの五十年ほど昔のお話。この山に囲まれた小さな村で、妖の見える少年が過ごした、裏山の妖とのひと夏の不思議なお話を・・・」
鳥の声とともに夜が明け、窓から太陽の日差しが降り注ぐ。
俺、古峰昭一(ふるみねしょういち)は眠たい体を起こして背伸びをする。
月曜の朝ほど面倒なことはないが、学校に行かない訳にもいかない。早々に布団から体を起こし、服を制服へと着替える。準備が終わり自室から出たところで。
「おはようお兄ちゃん!」
後ろから飛びついてくる人が。
「だから毎朝やられると大変なんだって言っただろ?そろそろお前だって・・・」
愚痴を言いつつ妹の古峰鈴(ふるみねりん)を背負ったまま一階へと向かう。それは他人から見たらどんな光景だろうか。俺としては重くて面倒なだけなのだが。
「朝から仲がいいねえ二人は」
「いや、俺というよりはこいつが飛びかかってくるだけだし」
居間にいた祖母に適当な返事をして、座布団の上に腰を下ろす。
「お婆ちゃんおはよう」
鈴も俺の横に座る。
ちゃぶ台の上にはいつもと同じように祖母の作ってくれた朝食が並んでいた。
両手を合わせて朝食を頂く。
俺たちは祖母と鈴、俺の三人で暮らしている。俺たちの両親が他界してからはずっと、一緒に暮らしていた祖母との生活が続いている。別段裕福でもないが、普通の生活ができないほどでもない。祖父は俺たちの生まれて直ぐに他界したそうで、俺たちには祖母との暮らしが普通になっていた。
朝食を終え、俺は食器を流しへ運ぶ。そろそろ学校へと向かう時間。鈴も直ぐに支度を済ませたようだ。
「それじゃ、行ってきます」
「行ってくるね、お婆ちゃん!」
「二人とも、行ってらっしゃい」
祖母に見送られて俺たちは学校へ向かった。
俺たちの住む高根村は小さな町だ。四方を山に囲まれたその間に、まるでおいて行かれたように他の市町村と離れて存在する。そのため小学校から高校まであまり周りの人が変わらず過ごしてきた。
今は高根高校の一生徒として、兄弟共に通っている。
「よっ。昭一」
後ろからの声に振り返る。そこには制服の第一ボタンを外した姿で歩いてくる青年。
「あ、浩介君だ。おはよう!」
鈴が手を振る。それに手を振り返しながら近づいてくる浩介。
「朝から兄弟で登校か、いいねぇ」
「勝手に言ってろ」
先に歩き出す俺に並ぶように歩を進める浩介。
「なんだよ、つれないなあ。そんなにふてくされんなって」
「お兄ちゃん待ってよぅ」
舗装もされていない砂利道を三人で歩く。他にも制服姿の人が歩いているのが目に止まる。
「それにしても制服って面倒だよな。なんでこんなに硬いのか・・・」
「そうだな。もう少し柔らかいと着やすいんだけどな」
そんな他愛もない会話をしながら進む。
塩沢浩介(しおさわこうすけ)は俺の幼友達で、小さい頃はよく山を駆け回っては泥だらけで家に帰ったものだ。浩介は学校でよく廊下に立たされるようなことばかりしていて、この辺りで彼の小学生時代を知らない人はいないほど。それだけ村が小さいというのもあるのだが。高校に入ってその悪行も落ち着いたようではあるが、未だに教員室の常連ではあるらしい。
最近はそんな浩介と鈴の三人でこの道を通学するのが当たり前になっていた。
「どうだ、昭一。今日帰りにあそこ寄ってかないか?」
通学路の途中。基本的に田んぼか畑しかない風景の中で、一件だけ駄菓子屋がぽつんと佇んでいる。あそこと言われれば、この地域の学生なら大抵通じる場所だ。だが当然、それは買い食いになるわけで。
「お前それに関して怒られたばっかりだろ」
「そうだっけか?」
「とぼけても意味ねぇって」
「でも買い食いくらい学校だって許してくれてもいいじゃんかよ」
「はいはい」
彼の言葉を流して先に進む。別に彼の話が退屈なわけでも、時間に余裕がないわけでもない。ただ、これ以上面倒事を起こしたくないだけなのだ。もう既に、俺には面倒事が付きまとっているのだから。
気づけばもう学校の前だった。
「それじゃあね、お兄ちゃん」
鈴は友人を見つけたのか先に玄関の方に走っていく。
「さて、俺たちも行きますか。さっさと行かないと授業が始まっちまうしな」
昇降口に向かう浩介を追って俺も歩き出した。
教室にはもうほとんど人が集まっていた。俺たちの席は教室中央の一番後ろと二番目。それぞれの席に着くと授業の準備を始める。そんなところへ、
「二人共おはよう!」
クラスに響き渡りそうな声が俺たちを捉える。
「よう、さっちゃん。相変わらず元気だねぇ」
「そりゃもう、部活でいい汗流したからね!」
健康的に日焼けした肌に白いスポーツタオルを首にかけたまさにスポーツ少女といった格好で幸恵は俺たちの横に腰掛ける。彼女の部活はバスケットボール部だが、よく彼女個人で外を走っているため、肌が焼けているのだろう。
鳥谷幸恵(とりやさちえ)と俺たちは中学の頃からの仲。いつの間にかさっちゃんという名でクラスの人からも親しまれている。ただ俺だけは幸で呼びなれてしまい、そのままだが。
「幸。お前今度の試合はいつだっけ?」
「えっとね。確か来月とかじゃなかったかな?」
「それじゃ今度の試験の方が先にあるじゃん。さっちゃん大丈夫か?」
「浩介に心配されたくないし!」
「お前ら二人とも補習に引っかかりそうだよな?」
俺の言葉に二人は声を詰まらせる。
「悪い!今回も教えてくれないか?」
「いや、今回は無理だ。二人で頑張ってくれ」
「なんでだよ、毎年いいって言ってくれてただろ?」
「まあいろいろあってな」
確かに俺が毎年二人と試験勉強していたのは事実だ。でも、今年は少し事情が違う。
そう、今年は。
「ほら、さっさと席に付け。授業始めるぞ」
教室に教師が入ってきて俺たちの会話が切れる。
今日もこの暑い教室で、いつものように授業が始まるのだった。
正午を時計の針が指し、昼食の時間が訪れる。
それぞれが弁当を開く中、俺たち三人も机を合わせて食事を取っていた。
「ったく。今日もまたやられたよ。眠くなるんだからしょうがないだろ」
愚痴をこぼす浩介は出席簿で叩かれた頭をさすっていた。
「寝てるあんたが悪いんじゃない」
「指名されて答えられないさっちゃんに言われたくはないな」
「な、なによ!寝てるよりマシでしょ」
どっちもどっちだと思いつつ、俺は自分の弁当に箸をのばす。俺自身も決して頭がいいわけではないが、少なくとも補習組でないだけいい方だろう。
「それにしても、三年になって余計に難しくなったよな」
幸恵も頷く。それに関しては皆同じ意見らしい。
「そんな状況で昭一の援護が無いのか。今回は本当に補習組かもな。俺もさっちゃんも」
「お前らだけでも勉強すりゃ取れるだろ。昔は成績同じくらいだったろ?」
「昔ってそれ小学校のころじゃねぇか」
「へぇ。小学校の頃は浩介も一応できてたんだ」
幸恵が驚いたようなリアクションをし、それにまた浩介が言い返す。見慣れた光景。別に普段から言い争っているわけではないのだが。
「それじゃ、昭一が自分の代わりに俺たちに教えてくれる人を探すっていうのはどうだ?」
「あ、それいいね。そうしてもらおう。というわけで、お願い昭一」
「お願いって言われても俺だって心当たりは・・・」
そこまで言ってふと思い出す。一人だけ教えてくれそうな人がいる。
「ああ、いないわけではないけど・・・」
「おっ、さすが昭一。それじゃその人に頼んでおいてくれよ」
「それなら私も一緒にお願い!」
「お前ら・・・。まあいいや。一応聞いておくよ」
呆れる俺と何故か安心したような二人。浩介たちの意識は直ぐに別の話に切り替わり、いつの間にか試験のことなど話していなかった。俺もわざわざ話を戻す気にもならず、彼らの会話を聞いていた。
昼食休みが終わり、午後の授業もゆっくりと進んでいく。寝ている生徒がまた何人かたたき起こされ、授業が再開する。そんな何でもない時間が過ぎていく。
午後の授業もひと段落し放課後が訪れると、あっという間に教室から人の姿が消えていく。俺も荷物をまとめて席を立つ。幸恵の姿はもう無い。また部活に行ったのだろう。
浩介は自分の机に突っ伏したまま。仕方なく肩を揺すって起こしてやる。
「俺、先に帰るから」
「おう。そうか。気をつけてな」
浩介は大きなあくびを一つ。再び机に突っ伏した。
昇降口に行く前に少し遠回り。教室とは別棟に作られた図書館へと足を運ぶ。重たい扉を開け中に入ると、中はしんと静まり返り、壁上方に作られた窓から少し橙がかった日の光がそこを照らしていた。
本棚のある方とは別の、いくつもの長机の置かれた側には、いつもながらに空席ばかりが目立つ。その中でドアから一番離れた席に彼女は座っていた。
少し癖毛の長い髪に太い縁のメガネ。制服は着ているものの何か柔らかな雰囲気の少女はいつものように目の前の本に集中していて、俺が近づいているのにも気付いていない。
「よっ、寺坂」
俺の声にちらりと視線だけを向けると、慌てて本を閉じる。
「あわわ、古峰くんですか?きょ、今日はどうしたんです?」
「いや、ちょっと頼みごとがあってな。座っていいか?」
寺坂が頷いたのを見て、俺は彼女の横に座る。
寺坂花(てらさかはな)は俺と同じ三年生。クラスは違うらしいが、彼女が他のクラスにいるところを見たことはない。いつも図書館にいるらしい。全て彼女の言ったことだが。
「頼みごと、ですか」
少し困ったような表情で聞き返してくる。
「ああ。ちょっと浩介たちの勉強を見てやって欲しいんだ」
「浩介さんって、いつも古峰くんと一緒にいる人ですか?」
「そう、あいつ。それと幸・・・、鳥谷も一緒に」
「浩介さんと、鳥谷さんですか」
「ああ。無理なら別の人探すからいいんだけどさ」
少女は少し難しそうな顔のまま。
「あの、私でいいなら、お受けしますが・・・」
「本当か?まああいつらとやるのが大変だったらいつでもやめていいからな?」
「いえ、一度お受けしたら、最後までやりますので」
「そうか。そりゃ助かったよ、ありがとう」
俺は礼を言うと立ち上がる。時計の針が学校の終わりを告げている。そろそろ下校時刻だ。
「お前もそろそろ帰らないとまずいだろ」
俺の言葉に時計を見て、慌てて本を片付け始める寺坂。何冊か机に置かれていた本を一冊ずつ棚に戻しに行く彼女は、急いでいるのかどっちなのか分からない。俺は残った数冊を持ち上げると、彼女の後ろに歩いていく。
「わっ!古峰くん力持ちです!」
彼女に驚かれてしまったが、たった本三冊なのだ。いくら辞書ぐらいあっても持てるのが普通だと思うのだが。
「ほら、さっさと片付けて帰るぞ」
俺と寺坂は残りの本を元の場所に戻すと、鞄を持って図書館を後にした。
校門のあたりまで来ると、そこに一人立っている姿が見える。その姿を見つけて、俺は寺坂と別れてから走り寄る。
「悪い、待たせたな」
俺の声に振り向いた鈴は少しむくれたような表情をする。
「お兄ちゃん遅い。もう下校時間ギリギリだよ?」
「少し用事があってな。寄り道してた」
そんな俺の後ろにそっと声をかけてくる寺坂。
「またね、古峰くん」
「ああそれじゃ。また明日にでも二人連れて行くから」
「わかった。またね」
小さく手を振って彼女は俺たちとは反対方向に歩き出す。高根村の中でも人の多く住む場所は山側と谷側に分かれていて、俺たちは山側、寺坂や鳥谷は谷側に住んでいる。
「さて、俺たちも帰るか」
「うん!」
俺と鈴は朝も通った道を並んで歩いた。
帰り途中。分かれ道の手前。
俺はふと足を止め、家とは別の方向の道を見る。その道は高根村の裏手にそびえる深嶽山(みたけやま)の方へと向かう道だ。
「どうしたの、お兄ちゃん?」
足を止めた俺を不思議そうに見つめる鈴。
「悪い、ちょっと用事思い出してさ。先に帰っててくれ。婆ちゃんには遅くならないって伝えてくれ。」
俺の言葉に少し鈴の表情が強張る。
「お兄ちゃん。そっちは、行かないでね?怖いから・・・」
彼女の指差す方、深嶽山への道は途中からは木々に覆われ、先は暗く見えなかった。
「大丈夫。俺にはあれもあるんだから。」
そう笑い返すと、鈴は少しだけ不安そうな表情のまま、気をつけてねと一言。そのまま足早に帰っていった。
俺は妹の姿が遠く小さくなると、彼女には悪いがその足を深嶽山の方へ向けた。
夕方の山道は木々の影が暗く道を埋めていた。その影を踏みしめゆっくりと俺は少し傾いた道を登る。途中何度か薄ら寒い感覚が背筋を駆けるが、俺はそれに意識を向けないようにして進む。奇妙に曲がった木の枝がサワサワと風に揺れていた。その度暗闇に何かいるような気がしてならない。疑心暗鬼にならぬよう、俺は前だけ見つめ早足で歩く。
そうしているうちに目の前で道の斜度が急になる。ここからさらに深嶽山を目指すのであれば、このまま道を登っていくのであろう。だがその手前、木々の間。道から外れた少し先に、細い獣道が雑草の間から見える。俺は周りに誰もいないことを確認してから、そちらの方へ足を動かす。
獣道は、最初は見慣れたものしか分からぬほど細かったものが、進むにつれて徐々にその存在を顕にしていく。それは動物がよく通っているのではなく、まるで普段から人が通っているかのように。
俺は慎重に進んでいく。尾根伝いに進んでいる道から外れれば、そこは一つの谷間。もし足を滑らせれば、運悪く致命傷、なんてこともあり得るのだ。
そうしてゆっくりと進んでいた俺の目に、目的の場所が見えてくる。それは大きな尾根と尾根の間にできた小さな台地。獣道を伝い、俺はそこに辿り着く。
目の前に大きな神社が映り込む。西日を真正面から浴びるその姿はいつ見ても綺麗だった。俺は草むらから這い出ると、神社の方へ向かった。
「ちょっとそこのあなた」
本殿に向かおうとした俺を後ろから呼び止める声。振り向けばそこには紅白の巫女装束に身を包んだ一人の少女。
「一体どこからこの敷地に忍び込んだと・・・」
「久しぶり、継子宮(ままこみや)」
竹箒を持ったまま俺に近づいてきた少女は、俺と分かるやため息。そんな彼女に俺は毎度と変わりなく挨拶する。
ただ、この少女の本名は継子宮ではない。と言うより俺に本名を教えてはくれなかった。そのため、ここ継子宮神社(ままこのみやじんじゃ)に居るから継子宮と読んでいるにすぎない。
「また来たの、あなた。毎度毎度懲りないわね」
「いや、真正面から入ってくる方が大変じゃないか、ここ」
俺の言葉に呆れ顔の継子宮。
「いい?ここは神社よ?神殿よ?そのような場所は大変でも正面から入るというのは当たり前で・・・」
彼女の説教話が始まりそうな時、ちょうど石段を登ってくる人影が見える。そちらは着物姿の年老いた男性。この神社の神主さんだ。
「神主さん、こんにちは」
俺が頭を下げると一度驚いた顔をするが、直ぐにその顔に刻まれた笑顔のシワがさらに濃くなる。
「これは、古峰さんのお孫さんの、えぇと、なんでしたかな・・・?」
「昭一です」
「ああ昭一くんでしたか。すいませんねぇ最近人の名前が覚えられなくて」
「いえお気になさらず」
神主さんの礼に俺も返礼すると、彼はそのまま歩いて行ってしまう。
まるで俺以外の誰もいないのが、さも当然のように。俺の後ろでは、ずっと継子宮が俺に説教をしていたというのに。
俺はゆっくりと彼女の方に振り返る。
「人間と話してる時くらい静かにして欲しいんだけど」
「あなたがいけないことを繰り返しているからです」
「神主さんは怒らなかったけど」
「ぐぬぬ。最近は甘いのですよ、いろいろ」
そう言って彼女は再び境内の端へ、落ち葉を掃きに行ってしまう。境内の落ち葉は、まるで風に流されるように外へと飛ばされていく。
俺はそっとため息をついてからその足を神社本殿、その裏手へと向ける。
神社の裏手はひっそりと静まり返っていた。幾本もの太いイチイの木がそびえ立つその間を、涼しい風が通り抜けていく。神社裏手には今はもう使われていないような小さな道。俺はその道を辿る。肌寒く湿っぽい風が頬を撫でてすり抜けていく。
古き道の半ばにそれはぽつんと建っているのだ。人の背丈ほどの小さな祠。かつては手を合わせる人もいたであろうその祠は、今ではすぐにでも壊れそうなほど弱々しいものになっていた。
俺はそんな祠に一度手を合わせると、それの上を見つめる。そこには見た目小学生ほどの少女が俺の方を向いて座っていた。
「久しぶり、昭一」
「久しぶりだな、裏宮(うらのみや)」
すっと飛び降りてきた少女が俺の横に立つ。
「久しぶり、昭一。元気だった?最近顔見せてくれなくて寂しかったんだよ?」
「はいはい悪かったな。俺にもいろいろ都合があってな」
甘えるように俺の手を抱く彼女の頭をそっと撫でてやる。だがこの風景を他人が見たらきっと奇妙な光景に見えただろう。
「それで、昭一。最近変わったこととか無かったか?」
「変わったこと?特には無いかな。ただ、お前と会わなかった分、鈴の容態は安定してるよ」
「そっか。やっぱり私は難しい存在だよね」
少し寂しそうな表情のまま、彼女はその場でくるりと一回転。止まると同時に俺の方を指差す。
「それに、やっぱり君の周りにいる数も変わってないんだね、妖の」
「・・・そうだな。俺の周りにいる数が変わってないのかもしれないし、あるいは、俺の見えないところで増えているのかもな」
俯いた俺の顔を、下から彼女が覗いてくる。
「でも私がいるじゃない。また今度一緒に遊ぼうね!今度は私も町まで降りられると思うから!」
俺を元気づけようとしているのか、それとも俺を困らせようとしているのか。
「別に俺の周りに増える必要はないし。お前も別に遊び来なくたっていいんだぞ?」
「なにそれひどいよ!せっかく私が、一人でこんなところに来ちゃう寂しい子と遊んであげようとしてるのに」
「寂しい子って言うなよ」
「えへへ、ごめんごめん。でも、やっと私、麓に降りられるようになったから。もっと昭一と遊びたいなって。・・・私だって、一人ぼっちは寂しいし・・・」
最後の方は小さくて俺の耳には届かなかった。問い返しても彼女は笑ってごまかすだけ。でもその姿は今にも消えそうなロウソクの火のようだった。
「さて、俺はそろそろ行くよ。これ以上時間経つと心配されちまう」
そう言って立ち去ろうとした俺の背中に少しの重みがかかる。最後に、と彼女はギュッと俺に抱きつく。そんな彼女から妹のように温もりが伝わってくることはない。すっと距離を離して少女は笑う。
「それじゃ、またね昭一。いくら見えるからってさすがに夜道には気をつけてね」
「おう、分かってるよ。それじゃあな」
そんなことを言いながら、きっと俺は普通見えもしない相手に手を振っているのだろう。
見えもしない相手に言葉をかけ、見えもしない相手に反応し、見えもしない相手と約束を交わす。
自分から誰かにこのことを言う気もしないが、言ったところで大体の人には信じてもらえないだろう。
俺には、妖が見えるなんて。
俺が神社から家に着いたのは、もう辺りが薄暗くなる頃だった。家の居間には明かりが灯っていて、二人の人影が見える。もしかしたら夕食の準備でもしているのだろうか。準備を押し付けてしまったようで少し後悔しつつ、俺は家に入ろうとして手を止める。
その前にやるべきことがあるのを忘れていた。
俺は鞄から一枚の布を取り出す。それはいろいろな紋様や文字の書かれた布、清霊布(せいれいふ)。それを手に乗せ数秒。腰周りや腕に当てて数秒ずつ。最後にそれをもう一度手に持ち、紋様が内側になるように持って一度叩く。一種の魔除けだ。継子宮神社とは別の、お祓いをよく行っている津鳥神社(つどりじんじゃ)から貰ったものだ。
そこまでして俺はやっと扉を開ける。
「ただいま」
「おかえりなさい、昭一。今日は遅かったねえ。もう夕飯できているから、着替えたら居間においで」
出迎えてくれた祖母は再び台所の方に歩いていく。俺は鞄を持ったまま部屋に向かい、きつかった制服から着替える。ふと部屋の端に置いてある厄除けが目に留まり、俺は先の布をそれの前に畳んだまま置いて部屋を出る。
俺自身もここまで厄除けをする必要があるのかと不思議に思ったが、津鳥神社の人いわく、幽霊や妖怪はその存在を認めてくれる人のところに集まりやすい。だから妖が見える君の周りにはそういうものが集まりやすい、と言うのだ。
本当はそれ以外にも理由はあるが、それについては俺もあまり思い出したくはなかった。
俺が居間に着くと、先に座っていた鈴が固くなり俯く。その目がゆっくりと俺のことを見上げて、その表情が安堵の色に染まっていく。
そこへ祖母が夕飯を運んできて食卓に並べる。三人が席に着いたところで、手を合わせ食事を頂く。鈴の機嫌も良くなったようで、楽しそうに話していた。
夕飯を食べ終わり、俺は自分の部屋へと戻る。今日はいつも以上に動いたせいで眠くなってきてしまった。俺は手早く風呂を済ませると、早々に布団に入った。
勢いよく開くカーテンの音で目が覚める。
「ほら起きてお兄ちゃん。もう朝だよ」
体を揺さぶられて俺は半開きの目で鈴を見る。
「うん、分かってる。後五分」
「それ絶対寝ちゃうからダメ!」
さらに体を揺すられて、俺の意識が覚醒していく。
「分かった。もう起きてるから」
俺は眠いまぶたを擦りながら上体を起こす。その様子を見て鈴も立ち上がる。
「もうすぐ朝食できるから。早く準備してね」
そう言うと俺の部屋を後にする。その手前、あからさまに俺の部屋の厄除けを避けるように通ったのは気のせいではないだろう。
制服に着替え一階に降りると、もう鈴は朝食を食べ始めていた。
「おはよう昭一。昨日は大変だったのかい?」
祖母の言葉に大丈夫と答えて、俺も食卓につく。鈴は黙々とご飯を食べている。機嫌はあまりよろしくはないようだ。
「ごちそうさま」
鈴が先に朝食を終えて席を立つ。そんな後ろ姿を見つめながら祖母がちゃぶ台の前に座る。
「鈴ちゃん。今日はどうしたものかねえ」
そんな疑問に、俺は曖昧に返事をして、朝食を食べた。
理由はなんとなく分かっていた。
「それじゃ行ってくね、お婆ちゃん」
鈴の声が玄関から聞こえる。俺も慌てて荷物をまとめると、祖母に声をかけて家を出た。
先を歩く鈴に追いついて隣を歩く。隣に並んだ妹はなんだか俯いたまま何も話そうとはしない。そのまましばらく黙ったまま二人歩く。
先に話しかけてきたのは鈴の方だった。
「昨日、継子宮神社行ってきたの?」
「ああ。ちょっとだけな。神主さんにも久しぶりに挨拶できたし。」
「そっか」
会話が続かない。こういう時に限って浩介も現れてくれない。あいつの役目は場を盛り上げることくらいなのに。いや、これは言い過ぎか。
「ねえ、お兄ちゃん。正直に答えて。・・・昨日、あれ使ったよね?清霊布」
「・・・ああ、使った」
しばらく鈴からの返事は無いまま、二人歩く。この手の話をしている時の鈴はいつもとは全然違って、兄の俺でも怖いほどに暗い。怒るわけでもなく、雰囲気だけが重い。
ただ、小さく俺の服を掴む手に込められた力が抜けるのだけは感じられた。
少し、許された気がした。
校門を抜けたところで、鈴は友人の方へと行ってしまう。俺も一人昇降口へ向かおうとしたところで、
「あの、古峰くん」
小さい声に呼ばれて振り向くと、寺坂が居心地悪そうに立っていた。
「あの、昨日のお約束の件、どうしましょう?」
「あっ、そういえばそうだったな。今日まだあの二人に会ってないんだ。連絡とれたらまたお前に言いに行くから」
「そ、そうですか。分かりました。それでは、私はこれで・・・」
それだけ言うと、寺坂はそそくさと図書館の方へと行ってしまった。
「もうすぐ授業始まるのに・・・」
寺坂を追っていたら自分も授業に遅れそうな時間だ。仕方なく俺はそのまま教室へと向かった。
授業はなんだか、物事のつまらないところばかり話しているのではないかと思ってしまう。そうでなければこんなにも眠くなるはずは無いだろうに。
「近年、日本は徐々に技術力が高まり、都心では電車に次ぐ新幹線という物が世間を賑わせているようです。今後はこのような科学、工業などが発展していくでしょうし、君たちはそれらの・・・」
なんだか眠くなる話だと思いつつ、俺はあくびを噛み殺す。ふっと視線を向けると今日は幸恵が机にうつ伏せていた。浩介は一応前を向いてはいるが、聞いているのか怪しいところだ。
俺は眠たい目をこすって授業に集中する。他の人よりも授業妨害をしてくる要素が人より多い俺は、多少のことなら耐えてみせると心に決めている。眠くなる教師の声の方が、ずぶ濡れの人が廊下を歩いているのが見えてしまうよりずっとマシだ。
昼休み。俺は浩介と幸恵に勉強の約束を取り付けた旨を話した。
「へえ。それじゃあ寺坂って人が見てくれるのか」
「でも寺坂さんってクラスどこの人なの?あんまり聞かない名前だけど」
「それが、俺も分かんないんだ。いつも図書館に居るから」
質問してきた幸恵がさらに不思議そうな顔をする。
「ねえ、それ昭一の夢だったりしないよね?昔言ってたんでしょ、幽霊や妖怪が見えるって。浩介が言ってたし」
「浩介、そんなこと幸に話してたのか」
「あんなのただの小さい頃のいい思い出じゃん。小さい頃ってよくあるよなってさっちゃんと話してただけだよ」
そんな浩介の言葉に、見えない人はそうなんだろうとちょっと寂しい気がした。
「寺坂はそんな幽霊とかじゃないから。なんなら今から図書館行くか?きっと今もいるだろうし。最初の挨拶としてさ」
「そうだね。顔ぐらい覚えとかないと」
三人とも昼食を終えてから、俺たちは図書館へと足を運ぶ。
図書館は昼休みでも閑散としていて、ただ広い空間が広がっていた。多くの席が空いたままの長机、その端に座って本に囲まれている少女の姿があった。
「あの人?寺坂さんって」
俺の後ろから覗き込むように彼女を見つめる幸恵に、俺が返事をする間もなく。
「あの、君、寺坂さん?」
いつも通りの声の大きさで浩介が話しかける。途端にびくりと体を震わせ、本を取り落としさらに慌てる始末。本を拾い上げて恐る恐るこちらに目を向ける寺坂。
「と、図書館は、声の大きさを抑えて・・・」
「ああごめん。それで、君が寺坂さん?」
少し声量を抑えて問い直す浩介に頷く寺坂。そんな彼女の目の前に右手を出して、よろしくと笑う浩介。その手をしばらく見つめてから彼女はそっと手を握り返す。一応浩介だと分かったようだ。
「寺坂さん。私、鳥谷幸恵。昭一から言われたと思うけど、これからよろしくね!」
「あ、こちらこそ・・・。よろしくお願いします」
寺坂が幸恵にも頭を下げる。
「さて、挨拶も済んだところで、早速勉強の話だ」
俺の言葉に明らかに嫌そうな顔を向けてくる浩介と幸恵。そんな二人を無視して俺は話を続ける。
「寺坂はいつの時間がいいんだ?」
「私はいつでも・・・。普段から図書館にいるので、来てもらえれば、大丈夫です」
「それなら私、放課後は無理だから昼休みでいいかな?ちょっとまだ部活あるし」
そう言う幸恵に小さく頷く寺坂。
「それなら俺も昼休みだな。どうせ教室にいてもすること無いし」
「そ、そうですか。ならお二人共昼休みでいいんですね?場所は・・・」
「私は、教室がいいけど・・・」
「いや、ここでいいだろ。本もあるし。それに教室だったらさっちゃん勉強しないだろ」
「むむっ、それ私より浩介の方が当てはまるでしょ」
やや睨み合う二人の横で慌て出す寺坂。
「別にいつものことだから気にするな。・・・大変だろうけどよろしく」
俺の言葉に頷きつつ、それでも心配そうな表情で二人を見つめる彼女が新鮮で面白かった。
「それじゃ、昼休みも終わるし、教室もどるか」
俺たちが図書館を後にする、その手前。
「寺坂も行かないのか?」
「私は、大丈夫です。お気になさらず」
浩介に言葉を返し、小さく手を振る寺坂。何とも言えぬ不思議な気持ちのまま、俺たちは教室へと戻った。
帰る途中、彼女がどこのクラスなのか俺たちが討論になっていたのは彼女は知る由もないだろうが。
放課後になり俺が帰宅の準備をしていると、幸恵が声をかけてくる。
「あのさ、寺坂さんって放課後もまだいるの?」
「ああ、図書館にいるはずだけど、どうした?」
「いや、昭一言ってたじゃん、寺坂さんも谷側に住んでるって。だから一緒に帰ろうかなって。今日はどうせ部活休みだったし」
「そっか。いいんじゃないか?あいついつも一人だし」
「そう。ありがとね昭一。それじゃまた明日!」
幸恵は準備の終わった鞄を背負うと、早々に教室から出て行ってしまう。今日は珍しく浩介の姿も無い。
「さて、俺も帰るか」
俺は鞄の紐を締め、昇降口へと向かった。
「あれ、お兄ちゃん」
校門で待っていると他の女友達数人と共に鈴が歩いてきた。
「鈴ちゃんのお兄さん?待っててくれるとかすごいね」
他の人に何か言われてたじろぐ鈴の姿が見える。
「またね!」
手を振り他の子から別れて俺に近づいてきた鈴は俺をじっとりとした視線で見つめる。
「今日はどうしたの?いつもなら私のほうが待たされるのに。何か私に頼みごと?」
「なんで待ってただけでそこまで言われなくちゃいけないんだよ。ただ授業が早く終わっただけ」
「ふぅん、そっか」
俺を抜かして先に歩き出す妹。その雰囲気は登校時よりも大分良くなっていた。そんな妹に少し安心して俺はその後ろ姿を追う。もしかしたら一人で先に帰ってしまうかもなんて、俺の考えすぎだったのかもしれない。
帰り道。人の少ない砂利道を二人で歩く。近場の駄菓子屋も通り過ぎ、外灯の無い道を西日が照らす夕暮れ時。俺と鈴は学校でのことや、今日の夕飯のこと。そんな他愛ものない話をして歩いていた。
少し先、公衆電話が見えてきたその時、はたと彼女の足が止まる。振り返るとその目は公衆電話を見つめていた。いや、正確には公衆電話の上。
ギュッと俺の服が掴まれる。硬直し、恐怖に顔を歪めながら、鈴は小声で聞いてくる。
その声すら、風に飛ばされてしまいそうなほど弱々しく、震えていた。
「ね、ねえ、お兄、ちゃん。あ、あの上、に・・・。誰、誰か、いる・・・?」
彼女の視線の先、電話ボックスの上には、俺の目には元気に手を振る少女の姿がしっかりと見えている。別段敵意はなく、遊びに来たよ、なんて叫んでいるのも聞こえる。
裏宮がそこには居た。
俺はそれを確認すると、妹の手をそっと優しく覆う。
「大丈夫。あそこにいるのは俺にも見えるから。別に危ないやつじゃない。俺の友人だよ」
その言葉に少し安心したように息を吐く鈴。彼女の白くなった手を俺は握りながら少しずつ裏宮の方に近づく。
「やっほー、昭一。遊びに来たよ!」
「なんでわざわざこんな時に。俺一人の時にしてくれ」
「いや、鈴ちゃんと一緒に帰っているなんて思わなくって」
「一緒に帰らなきゃ危ないだろ、夕方は特に。お前に会っただけでこれなんだから」
俺と裏宮が話している最中もずっと俺の後ろに隠れカタカタと震えている少女。力一杯握られてるせいで手が痛くなってくるほどに。
「鈴ちゃんの状態は、前と全然変わっていないようだし、昭一も大変だね」
とん、と俺たちの前に少女が降りてきただけで、小さな悲鳴とともに俺を楯替わりにする鈴。俺の目には小学生に怯える高校生に見えて何とも言えぬ状況なのだが。
「俺のように見えていたら、もう少し違ってたのかもな」
それ以外にも、霊を怖がる理由には思い当たるが。
鈴には幽霊も妖怪も見えない、声も聞こえない。それなのに感じてしまうようだ。どこに何人いるのか全て。そのような妖にどこを触れられたのかさえも。
俺のように見える妖と見えない妖がいるわけでもないらしい。だがどちらかというと俺が見えているものの方が、いわゆる怨霊の類ではないだろうと安心できるようだ。実際、俺の見えていない妖はその大半が悪霊なのだが。
「悪い、裏宮。今日はこの通りの有り様だからさ。とりあえず帰るよ、俺は」
「そうだね・・・。鈴ちゃん、安心させてあげて」
それだけ言うと裏宮は俺たちから距離を取るように森の方へと消えていった。
「い、いなくなった?どこかに、帰っちゃったの?」
恐る恐るといった感じで鈴が電話ボックスの方を覗き、安堵の声を漏らす。
「鈴、さっさと帰ろうか」
俺は鈴の手を引いて家を目指す。今日だけでこれ以上彼女に負荷を与えたらマズイ事になるから。
家に帰って厄除けの前で一度手を合わせる。触られたわけではないが、それでも話したことが影響で妖が寄ってくる可能性は否定できない。こういう行為の大半は鈴のためでもある。
鈴は早く寝たいと先に風呂に入っていった。俺はその間祖母の手伝いのために台所で野菜を切っていた。
「鈴ちゃんも、大変だねえ。それに昭一も」
祖母は少し悲しそうな目をしていた。彼女も俺や鈴のことを知っている。だからこそ津鳥神社を教えてくれたり、厄除けを俺と鈴それぞれの部屋に置いてくれたり、いろいろ助けてもらっている。
「仕方ないよ。あんな事があれば・・・」
数年前の事故。
ここ高根村と隣の朝日町を結んでいた町営バスの転落事故。
大雨が降り、滑りやすくなった砂利の坂道を下る小型バスは、たまたま道に落ちていた石にタイヤを乗り上げ、姿勢制御ができずに曲がった道で横転。そのまま尾根の谷間へと投げ出された。連絡を受け救急隊が出動したが、大雨による土砂の影響で、朝日町からの救援は現場に向かえず、結局現場に入れたのは二日後だった。バスは数本の木をなぎ倒し、自らも二つに割れた状態で谷底に転落していた。バス自身も一度爆発を起こしたような後があり、現場に向かった人は嫌に焼けた匂いを感じたらしい。その事故での生存者はいなかった。
俺たちの両親もそこに乗っていた。仕事の関係で朝日町に用事があったのだ。
葬式の時、親族が集まったその席で、初めて鈴が悲鳴を上げた。誰がなだめても聞く耳を持たず、ただ狂ったように両親の入った棺桶を指差して叫んでいた。
何かいる、と。
大人たちは意味が分からないと彼女が落ち着くまで席を外させたが、俺は生まれつき妖の類が見えるから、言葉の意味は分かった。だが、そのときは何も見えていなかった。
気になった俺がよくよく目を凝らしてみると、うっすらとだが何かいるのが見えた。今では見なければ良かったと後悔している。
そこには、事件現場に落ちていた石と同じ大きさの石を持った人間が、笑みを浮かべた顔で両親の棺桶の上に座っていた。
それ以来、鈴は自分の目に見えぬ妖の存在だけに怯え恐怖する生活が続いた。何度もお払いに行き、御札を貰い、家も庭もお払いしてもらい。そうしてなんとか今のような生活になれた。
「このまま、鈴ちゃんに何も起きなければいいけどねえ」
祖母の言葉が少し、俺の心を突いた。
「お風呂あがったよー。お兄ちゃん入る?」
風呂場から鈴の声がする。その声を聞いて祖母が微笑む。
俺は夕飯の準備を妹に変わってもらい、風呂に入った。
風呂に入ってる最中、窓の木戸に何かが当たる音がする。
そっと開けてみると、目の前に人の目が。
「うおっ!」
驚いて窓を閉めると、窓の外から今度は何度も連続してノックする音が聞こえる。仕方なくもう一度開けてみると、今度はニコリと笑う裏宮の顔。
俺はゆっくりと窓を閉めようと。
「ちょっと待ってよ!閉めないでよ!」
「風呂を覗きに来る変態と、お知り合いになった覚えはありません」
「いやいや、わざわざお風呂覗きに来たんじゃないよ!お風呂なら絶対一人かなって思ったから」
さすがにこの歳で妹と風呂に入っていたら犯罪だろうと思いつつ、俺は湯船に浸かりなおす。
「それで、何しに来たんだよ」
「別に。ただお話したくって。だって、こうして麓の村に降りてこられるのなんて初めてだから」
「初めてなのか?確かに初めて会った時以外、あの祠の近くだけでしか見なかったけど」
「うん、初めて。ずっと昔から今まで降りてきたこと無かったの。降りてこられないようにされてたし」
「降りてこられないように?そりゃなんでまた」
すぐには返事が帰ってこなかった。
「・・・分かんない。古すぎて忘れちゃった。今はほとんど何も覚えてないの。どうして降りてこられなかったのか、どうして私がいるのかも・・・」
「それじゃ、しばらくお前は自分の仕事思い出さなくてもいいってことだな」
「え?」
彼女の声が暗かったので、無理に明るく返してみる。
「だって、仕事忘れるくらいやってこなかったんだろ?それなら、今突然必要になる、なんてこともないだろ」
「確かにね。私の仕事は、現代では必要ないのかもしれないね」
そう言って笑う少女の声は、なんだか暗いものだった。
「今日はいい天気だよ」
しばしの沈黙を破って裏宮が空を見上げる。
「星が綺麗。あの日の夜も、こんな感じじゃなかった?」
「あの頃はもう少し寒かったけどな」
俺も窓から顔をのぞかせて空を見る。暗く染まった空に光る星たちが眩しかった。
「あの時は驚いたなあ。まさか私が見える人間がいるなんて思ってなかったから」
「俺だって、あんなところに幽霊がいるなんて思わなかったよ」
「私、幽霊じゃないもん!」
「じゃあなんだよ。妖怪でもないだろう?」
このやりとりは何度も繰り返してきた。出会った時にもした覚えがある。
今年の春分の日。俺は裏宮に出会った。
毎年お彼岸になると、俺は祖母と妹と一緒に両親の墓参りに言っていた。鈴は両親が亡くなってからの数年間は墓地を怖がり付いて来なかったが、高校入学の時から一緒に来るようになった。
今年のお彼岸は例年よりも天気がよく、その時期にしては暖かい日だった。俺と祖母が歩く道を、俺に隠れるように鈴が付いてきていた。
墓地は街の方からさらに離れた山の途中。切り立った尾根の中腹、高根村よりさらに下の町まで見渡せる見晴らしの良い場所にある。昔からここの村民だった家系の墓碑が、それぞれ並んで立っている。
俺たちは『古峰家』と書かれた墓碑を綺麗にし、お線香をあげ、作ってきたぼた餅をお供えする。
最後に手を合わせて冥福を祈り、俺たちはその場を後にする。
いつもならそのまま帰るのだが、なぜかその時の俺は妙に墓地の裏手が気になった。今日は普段よりも天気がいい上に、家を出てから今まで、鈴が恐怖するものに出会っていなかった。その理由に何かあるのかと勘ぐっていたのかもしれない。
祖母と鈴にもう少し残っていくと言って、俺はその場で二人を見送った。
それから墓地の裏手の方に足を向けた。そこには一本の細い階段が、さらに山を登る方へと続いていた。その階段は途中で曲がったり、平らな道になったりと、うねうねと尾根を進んでいく。
そんな道を辿ってやっと開けた土地に辿り着く。そこで顔を上げてみると、そこは幾度か見たことのある神社、継子宮神社の横に続いていた。
「おや、君は古峰さんのお孫さんではないですか。一体どこから来たんだい?」
神社の表の方から神主さんに声をかけられる。俺が今通ってきた道のことを話すと、神主さんは教えてくれた。
「昔はこの神社が村民の葬儀も一手に引き受けていたようでね。その名残でしょう。この神社からお墓まで道が続いているというのも」
そのまま少し話をしてから、俺は神社を後にした。表道から帰っても良かったが、先ほど出てきた墓地へつながる道から帰ることにした。
昼間に家を出たからか、段々と辺りが暗くなり始めていた。西の雲は赤く染まり、紺色が徐々に空を埋め始めていた。
俺が墓地についた時には足元が見えづらくなるほど暗くなっていた。
なのに、未だに妖というものに一度も出会っていない。今日が特別いないのか、それとも何か訳があるのか。そう思いながら墓地を抜けようとした俺の目に、人のような小さな背中が墓碑の裏に見える。
よく見てみると、少し体は透けているようだ。背中側からでは何をやっているのかまでは見えないが、何やら小さく頷いては口を動かしているようだった。
「おい、そこの幽霊!」
俺の大声に一瞬びくりと背中が震えるが、しばらく待っても振り向かない。俺はそいつの真後ろまで行き、もう一度声をかける。
「お前だよ、お前。墓の後ろで何してる」
驚いた顔で振り向いたそれと目が合う。顔も体型もまさに小学生くらいの幼い少女。じっと見つめる俺にさらにその顔が驚きに満ちていく。
「見えて、るの・・・?」
「誰に言ってる」
「今、私を見ている、人間」
「俺か。俺以外いないもんな、誰も」
「人間なのに、私が見えるの・・・?」
「見えるし聞こえるから話できんだろ」
その言葉に少女の顔が徐々に和らいでいき、とても嬉しそうな笑顔になる。
「私が見える人間だ!人間だ!すごい!」
その場で飛び跳ねるや否やそれは俺に向かって飛びついてくる。
「本当だ!私から触れる人間なんて初めて」
「おい離れろって」
ギュッと抱きついてきた少女を俺は引き剥がそうとするがなかなか離れない。むしろさらに喜んでしまっている。
「そんなに懐くなよ。俺だってわざわざ悪霊に取り付かれるために話しかけたわけじゃない」
そんな俺の冗談に、少しムッとした表情で彼女が俺に言う。
「私、幽霊じゃないもん」
「幽霊じゃない?でも妖怪でも無いだろ」
「なんでそんな風に決め付けるのさ!」
「それじゃ、妖怪なのか?」
「いや、それは、妖怪であるような、ないような・・・」
彼女の曖昧な、濁すような答え方に、俺は勝手に幽霊だと思うことにした。
「さて、それでお前は墓の後ろで何してたんだ?」
「えっと、それは・・・」
彼女の目が宙を泳ぐ。その反応からまともな答えは返ってこないだろうと思い、そっと墓の裏を覗き込む。
「なんだ、何も無いじゃん」
そこには何もなかった。
少し去年の落ち葉が散り積もっているだけだった。
「あれ、見えないの・・・?」
彼女の不思議そうな声に俺はもう一度覗くが、やっぱり何もない。そこで、別の考えが思い至る。
「そこに、悪霊でもいんのか・・・?」
大抵の妖は見える俺が見えないもの。それは悪霊や怨霊。両親の葬式であれを見るまでは、俺も微かになら見えていたのに、あれを見て以来、その姿を捉えることがもう出来なくなってしまった。ある種の心の防衛本能かもしれない。
「い、いやいや、そんなもの居ないよ!」
慌てた様子で首を振るその姿からなんとなく察しは付いたが、俺はこれ以上踏み込まない事にした。
「それじゃ、俺帰らないと」
俺は家へと帰る道の方へ足を踏み出す。
「待って!」
「ん?なんだよ」
「その・・・。またいつか、お話できないかな?」
「そりゃ、できなくはないけど。俺が来る気になったらな」
「そ、それじゃあ!あの継子宮神社の裏手、森の中に祠があるの。そこに居るから。また・・・また来て欲しいな!」
俺と話そうと必死なその姿が、俺の脳に残ってしまった。ここまで感情を顕にした幽霊は今までいなかった。もしかしたら妖怪なんじゃないかと思ってしまうほどに。
「そうだな。気が向いたら顔見せてやるよ。またな」
「あっ・・・。うん、またね!」
小さい体で大きく手を振る少女に背を向け、俺は山を下った。
去り際、彼女の笑顔に不覚にもドキリとしてしまったのは俺だけの秘密。
すっかり懐かしい話になってしまった。あの頃は麓にも下りてこなかった裏宮が、今は俺の家のすぐ外にいるのだから。
「喜んでもいいんだよ?」
「いやむしろ、さらに祟られそうなことに怯えるべきなのかも」
「えっ!私、祟ったりしないよ!」
「十分被害も出てるんだが。主に俺じゃないところだけど」
「鈴ちゃんは、繊細すぎるんだよ。あんなこともあったんだし」
「そういうこと言うなら鈴の前に現れたりしないでくれないかなあ」
「・・・善処します」
風呂の外から、鈴の催促の声が聞こえてくる。もう夕飯が出来るころなのだろう。
「それじゃ。また俺の気が向いたら会いに行ってやるよ」
「昭一が来なくても、私が来るからいいもん」
俺は最後に手を振ってから窓を閉めた。
予想以上に長風呂だったらしく、いつの間にか顔まで赤くなっていた。どれだけ入っているのかと鈴に怒られつつ、俺は夕食の席についた。
早朝、目を開けるのを躊躇うほどの眩しい光。
そんな中なんとか目を覚まして、鈴と学校へ向かった。
「昨日はなんであんなにお風呂長かったの?」
「いや、寝てた」
「ふぅん。すごく寝言がうるさいんだね」
「お前、聞いてたのかよ・・・。ん?居間までは聞こえないし、なんでお前聞こえてるんだよ」
「えー、それ聞いちゃうんだー」
鈴が何故か含み笑いのまま俺を見てくる。なんで俺が聞いちゃいけないことを聞いたみたいになっているんだ。頼むから横目使いで見ないでくれ。俺が自分の感覚を疑いそうだ。
「実際はただ洗面所に用があっただけだけどね」
「なんだよ。なんか本当に聞いちゃいけないことかと・・・」
「まあ、お兄ちゃんが妹のおトイレに興味があったら大変だけどね」
「しまった!洗面所ってそっちか!」
「それよりもお兄ちゃん。話を逸らさないでよ。実際大事なのはそこじゃないし」
さすがにバレたか。運良く話を逸らせたと思ったんだが。
「お兄ちゃん。お兄ちゃんがあんなに寝言うるさくないことぐらい、私知ってるから。嘘がバレバレだよ。それで?昨日お風呂場に誰がいたの?ねえ」
「そんなに詰め寄られても困るんだが・・・」
「あれ、道の真ん中で何してるん?」
丁度いいところに浩介が声をかけてくれた。
「いや、別に何もないって。」
「そうか?鈴ちゃん、お兄さんが危ないことしてたらいつでも相談してね」
「それじゃ俺が悪いみたいじゃないか。人の妹に何言ってやがる」
「はいはい、お兄ちゃんも浩介君も学校行くよ」
先に歩き出した鈴の後ろで、俺たちはしばらく言い争っていた。前を歩く鈴に後ですごく呆れられたが。
「そういえば鈴ちゃんは俺のこと君付けで呼ぶよな」
「そうだな。つまり同格ってことじゃないのか?年上として見られてないとか」
「お兄ちゃん、何言ってるの。そういうわけじゃないから。ただ、小さい時からそう呼んでたし、今更帰るのも何か変だし」
「確かに。急に『浩介さん』なんて呼ばれたら俺違う意味でなんか悲しくなる」
「呼びなれたままの方がいいでしょ?だからお兄ちゃんだって『お兄ちゃん』のままなんだから」
話していたらいつの間にか校門が見えてくる。その先で誰かがこちらに手を振ってきているのが見える。
「鈴、友達か?」
「うん。それじゃ先行くね」
そう言って駆けていく鈴。昨日見たのと同じ人たちのようだ。数人で楽しそうに学校に入っていく。
「楽しそうで何よりじゃん。良かったな、昭一。それとも寂しいか?」
「やめろよ。別に鈴が楽しいなら俺はいいよ」
「そういうのが兄弟ってやつか?一人っ子の俺には分からないけどさ」
俺たちも自分たちの教室へと向かった。
昼休み、昼食を早々に食べ終えたいつもの俺たち三人は、その足を図書館へと運ぶ。
本を借りていく人たち数人とすれ違う。俺たちは大きな扉をあけて、その中へと入る。
寺坂は昨日と同じ場所で同じように本を読んでいた。
「よっ、寺坂」
浩介の声に少し驚きつつ、顔を向けてくる。
「あ、皆さんでしたか。こんにちは」
小さく微笑んで、彼女は本を閉じる。
「あ、どうぞ座ってください」
なんとなく立ったままだった俺たちを寺坂が自分の正面の席を勧める。
「今日は何をしましょうか?」
「今日、何する?何しようかさっちゃん」
「え?何って、なんでもいいけど」
「お前ら二人共、何やるかも決めてなかったのか・・・」
元気に頷き返されても、俺も困ることしかできないのだが。
そんな呆れた俺の前で、考え込む寺坂。
「それじゃあ、お二人の苦手なものから・・・」
「寺坂、こいつら一般教科なら全部苦手だ」
「えっ?」
寺坂が交互に二人を見るが、二人共何も言わずに黙ったまま。さらに混乱したかのような寺坂が誰ともなく聞いてくる。
「えっ?ええっ?それじゃあ、勉強って全教科でいいんですか?え?」
「あぁ、この二人にはそれがいいと思うぞ」
「その通り過ぎて困るな」
「おっしゃる通りで」
俺と浩介、幸恵の言葉に、分かりましたと躊躇いつつも了承。結局一教科ずつ手をつけていくことになった。
「それじゃ、二人共頑張れ。俺は用事があるからな」
「お前!親友をおいていくのか!」
「見捨てないでよ、昭一!」
「大声出すなよ・・・。お前らのためなんだからさ。昼休みだけだし頑張れよ!」
俺は図書館に二人を残し、早々に次の目的地へと向かった。
教室のある一般棟の最上階。屋上の扉をあけて外に出る。春や秋には人で賑わう屋上も、こんな炎天下の中では誰もいるわけは無かった。
そんな屋上に足を踏み入れた途端に、床からの熱がさらに俺を苦しめる。なんでこんなところに来なくてはいけないのか。
「あ、やっと来たね、昭一」
そんな苦しさとは無縁そうな元気な声が頭上から聞こえる。声の主は貯水槽の上に座っていた。鉄の貯水槽は素手じゃ触りたくないほど暑そうだった。
「ごめんね、こんなところに呼び出して。こんなに日が強いとは思わなくって」
「せめて今度からは日陰にしてくれ」
俺の言葉に裏宮は素直に頷く。
「それじゃ、ちょっと移動しよ?」
そう言って屋上の入口手前、階段の最上段に座る。
「で、今日も話に来ただけか?」
「いや、今日はこの学校のことも知りたくて。昭一がどんな学校に通っているのか、この村にはどんな学校があるのか、ちょっと気になって」
「この村にある学校も知らなかったのか」
「だって、あんまり神社に来てまで学校の話をする人なんていないし」
「そっか。お前の情報源って、今まで参拝のために継子宮神社に行く人たちだけだったのか。それじゃあ最近の事なんて分かんないだろ?お年寄りの方が参拝客多いだろうし」
「そうでもないよ?時々神社の階段を駆け上がってくる人たちがいたからね。そういう人たちが話しているのを聴いたりしてね」
「部活の練習か?でもよくあの石段駆け上がれるよな。全部で何段だっけ?」
「全部で百段だったかな。数年前の道路の盛土で二段埋まっちゃったけど」
「お前そういうのだけ詳しいんだな。もしかして神社の柱の数とかも言えたりしちゃうのか?」
「うん。だって昭一と会うまでは話す人間なんていないし、話すにしてもあの表宮の巫女・・・、昭一は継子宮って呼んでる彼女だけだし」
「暇だったんだな」
「うん。だから今はとっても嬉しいの!」
バッと俺に向かってジャンプしてくる。急に抱きついて来られてバランスを崩した俺は、そのまま少女に押し倒されたような格好に。
「痛っ。おい、何してんだよ」
「あれー?まさか倒れると思わなくて・・・」
「急に飛びかかってきたら危ないだろ。頭打ったらどうすんだよ」
「それで死んじゃったら、その時は私がこの世に留まらせてあげる」
さらっと怖いことを言ってくれる。
「それにしてもこの体勢。気持ちいいかも・・・」
「おい、顔擦りつけんなって。何寝そうになってるんだよ」
俺の腹に頬を擦りつけている彼女の、もう一方の頬を指で引っ張ってみる。なんだかスベスベしているのに柔らかくて弾力がある。体温さえあれば、まるで本当の人間の少女みたいだ。
「いひゃいよやめへ(痛いよやめて)!」
「俺に飛びついてきた罰だ」
そう言ってもう一度引っ張ってから話す。つまんだ方の頬を撫でながら、裏宮が上目遣いで睨んでくる。
「痛いのは嫌いです・・・!」
「悪いのはお前の方だからな。せめて後ろが柔らかったらまだいいものを」
裏宮をどかして上体を起こす。
「・・・なあお前。時間とか分かったりしない?」
「え?分からないけど。最近は腕時計とかいうもので分かるんじゃないの?」
「あんな高いものまだ買えないから」
俺は立ち上がって一度伸びをすると階段を下り始める。
「あれ?もう行っちゃうの?」
「ああ、時間分かんないし。授業に遅れたら大変だからな。お前なら、どうせまた風呂場とかにでも現れるんだろ?話があればまたその時な」
「うう、冷たいなあ。まあそうなんだけどさー」
とりあえず手を振る少女に軽く手を挙げてから、俺は階下へ降りた。
教室の時計を見るとまだ授業までは時間が残っていた。俺は未だ戻ってきていない浩介と幸恵を迎えに、図書館へ向かうことにした。
図書館にはほとんど人はいないが、奥の方から寺坂の声が小さく聞こえてきた。あの二人がちゃんとやっているのかと思ったが、寺坂の雰囲気が何か違う。
「あの、浩介さん。あとここだけでいいですから、その、頑張って下さい、ね?」
「幸恵さんも、ここが終わればこのページ終わりですから、ね?頑張りましょう?」
嫌な予感がしつつも俺が机の方を覗くと、予想通りの状況が出来上がっていた。必死で励ます寺坂と机に倒れた浩介と幸恵。俺が近づくと、それに気付いた浩介が俺の方に助けを求めて来た。
「なぁ昭一。助けてくれよ!お前どうして寺坂に俺ら託したんだよ。お前の説明分かんないって言ったこともあったけど、こっちのほうがよっぽど分かんないよ・・・!」
「それは寺坂に失礼じゃないか?」
「いや!失礼とかそういう意味じゃなくて、なんといっていいのか、こう・・・、分かんないんだ・・・!」
そう言って突き出してくる浩介のノートを受け取って中身を見てみて、俺の頭にも疑問符が浮かんだ。なんでこんなにも見たことない式やら言葉やらが書かれているんだ。
「浩介、これは・・・?」
「今日、寺坂に教えてもらったことの、全てだ」
「・・・寺坂。これは?」
「あの、次の試験範囲と言われた場所をやっていたはずなのですが、間違っていましたか?」
不安そうに聞いてくる寺坂に、俺はなんと言っていいのか悩む。
試験範囲は確かに合っている。合っているのだが。
「いや、こんなこと教科書に書いてあったか?」
「もしかして、私、間違ったことを?」
「いやいや合ってるんだけどな?教科書にこんな方法書いてなかったぞ?」
「あ、そうなのですね。でもこちらの方がわかり易いかと思ったのですが・・・」
そういえば、彼女の前に教科書は広げられていない。それどころか参考書さえも。
なんとなく、俺のしてしまった過ちを知った。その上で、それでも俺は友人二人の背中を押すことしかできない。
「・・・頑張れ」
「「薄情者!」」
二人に怒鳴られたが、俺も今更講師を変える候補がいない。俺ができるのは寺坂に、二人に少しでも優しくと助言するくらいだ。
こんなにも寺坂花が常人離れしているとは思っていなかったから。
昼休み後の授業でも、まだ二人だけぐったりとしたまま時間が進んでいく。
途中で幸恵から渡されたノートの切れ端には『赤点回避したら何かちょうだい』と単調な文字で書かれていた。幸恵ごめんと心の中で何度も謝っておいた。
放課後になると、教室に残ったままだった俺の耳にも、部活をする生徒の声が聞こえてくる。暑い中運動を続けられる人たちに尊敬の念を抱きながら、俺は一人トイレへと向かう。しかし俺が向かっているのは一般棟のものではなく、実験棟と呼ばれるもう一つの別棟。この学校の三棟の中では一番古くに作られた場所で、それ故に今の一般棟や図書棟に比べて汚れている。
その見た目や棟の名前から、そこを舞台にした怪談がいくつか存在するのもまた事実。学校の七不思議の中でも、この実験棟に関したものは多い。
そんな実験棟だが、俺が足を運んだのは別に肝試しや幽霊に会いに行くためじゃない。他の人が来ない場所に行きたかっただけだ。人が大勢いる中で、お祓いじみた行為をしていたら怪しまれるだろうから。
俺は鞄から清霊布を取り出し、昼間裏宮に触れられた箇所を手早く清め、終わると直ぐに引き返そうと踵を返す。
「あなたは、怖い人?」
俺の背中をとても小さな声が捉える。不気味にあたりの空気が冷えるような感覚に襲われる。その声はきっと俺以外にも聞こえるような、霊界からこちらへ直接話しかけてくるような声。
「あなたは、怖い人?」
もう一度、声が訪ねてくる。震えるようなその声に嫌でも鳥肌が立つ。
学校の七不思議の一つ、トイレの花子さんだ。俺たちの学校では花子さんに返事をすると、異界に連れ去られるだとか、喰われるだとか、先の人生が不幸になるだとか、いろんな説が飛び交っている。ただ、本当のところはみんな知らないだろう。彼女は自分の話し相手を欲しているだけだということを。
「怖い人、かもな」
俺は振り向いて女子トイレの方へ手を振る。ドアの陰から少しだけ見えていた顔が俺の顔を見据えてほころぶ。
「昭一君だ・・・!」
嬉しそうに近寄ってくる彼女だが、俺が白い布を見せると、途端にその足を止める。清霊布に記された紋は妖、特に幽霊には効き目が高い。見るだけで彼らの視力を奪いかねないらしく、それ故に持っているだけでも効果があると言われる。何か不幸があった時に軒先に白い布や紙を下げるのは、清霊布が由縁だと聞いたこともある。
「今日は、お話、できない?」
「悪いな。今日はもう帰るから」
「そっか。ちょっと残念・・・。また来てね?他のみんなも、話せる人、いなくて、寂しいって、言ってたから・・・」
彼女の頭の動きに合わせて目の下まで伸びた黒髪が左右に揺れる。
俺はまた来るとだけ言い残してその場を去る。彼女や他の怪談たちも一種の幽霊だ。それ故幽霊として一番強い、誰かに気付いて欲しいという気持ちが先走ってしまうことも多々有り、それがさらに怪談の恐怖を形作っていると、花子さんから聞いたことがある。だから即在の怪談に恐れおののかない人は珍しいことも。
一般棟に戻ってくると、ちょうど帰ろうとしていた浩介と出会う。
「浩介、お前こんな時間まで残ってたのか。何してたんだ?」
「授業寝てた分、授業資料の片付け手伝わされてさ。もう嫌になるよな」
大げさに肩を回す浩介に笑いながら、俺たちは学校を出る。
校門をくぐったところで、浩介が声を上げる。
「あ、やべっ。俺今日ちょっと用事あったんだった。悪い、谷側まで行かなきゃいけないからさ、先帰っててくれ」
「別にそれは構わないよ。最近日暮れは遅いけど、気をつけろよ」
「大丈夫。心配するなって!」
そう俺の肩を叩いて、浩介は谷側の方へ走っていく。そんな彼と入れ違うように鈴が俺の方へ駆けてくる。
「お待たせ・・・」
彼女の顔が近寄るに連れて段々と引きつっていく。
「ねえ、今日も何かと会ったの?」
「え?いや確かに、会ったけど・・・」
「会ったなら、ちゃんと拭いといてって言ってるじゃん」
「えっ!そんなに跡残ってるか?一応拭いたんだけどな」
俺の言葉を心底疑っていそうな鈴の視線が痛い。
「まあ、今日会ったのは危なく無さそうだからいいけど。お兄ちゃんが取り憑かれたわけでも無さそうだし」
「なんだよ、危なくなさそうって」
「だって、ねえ?」
鈴の視線が俺の腹部に向けられる。
「顔をスリスリ擦りつけるような妖が、お兄ちゃんを傷つけに来るとも思えないしね。たくさん擦られたら、それだけ霊力も染み込むってこと、忘れてない?」
「あ、そういえばそうだったな。すっかり忘れて・・・」
真横からジーっと妹に睨まれ、俺は何度も頭を下げる。こういう時の俺は、まさに蛇に睨まれた蛙のようだと、自分で悲しくなってくる。
「それに、さ。お兄ちゃんの肩にも、手形付いたままだよ?もしかして届かなかったの?」
「肩?どうしてだ?」
俺の肩の位置は、裏宮の身長じゃ届かないし。その時の拭き忘れということもないだろう。もしかしたら俺が実験棟に行った時に、別の幽霊の度胸試しとして触られたのかもしれない。清霊布を持った人間に触れるかというのは、幽霊の間では一種の度胸試しなのだ。
「悪いな、いろいろ見逃したままで。もうちょっとちゃんと気を払うべきなんだろうけど・・・」
いかんせん俺と鈴の妖の見え方が違いすぎてどうしても見逃してしまう。俺は目に見え、耳に聞こえることで認識しているが、鈴はその霊力や妖力を感じ取って認識している。俺にもそれが感じられればいいのだが、どうにも感じ取れていないらしく、妹のようにどこに霊力が残ったままなのか分からない。
「とりあえず、これでいいかな」
彼女が俺の肩を拭いてくれる。そのまま彼女の目は俺の腹部に。
「それにしても、腹部に顔を、ねえ・・・」
「な、なんだよ」
「いや、別に。ただちょっと、お兄ちゃんにそう言う趣味があるのかと・・・」
「変な勘違いは止めてくれ。俺にそんな気は無いんだ」
「ふーん、まあいいけど」
そのまま触ろうとしてきた鈴の手を慌てて止める。校門の前で妹に腹部を撫でられる兄という構図は、さすがに回避しなければいけない。腹部は自分でやると言い、俺は先に歩き出す。
「ちょっとお兄ちゃん!待ってよう」
鈴が追いついてきて、俺たちはいつも通り二人で帰宅した。
帰宅途中に裏宮が現れることも今日は無かった。
早朝。俺が朝日にうなされながら起きた時、一階で鈴の声がする。時計を見ればいつも起床する時間と大差ない。俺が寝坊したわけでは無さそうだ。
「いってきまーす!」
俺が窓から外を覗くと、今玄関を出ていく鈴の姿が。振り返った鈴と目が合い、手を振ってやるとあちらも元気に手を振って学校の方に駆けていった。
俺は服を着替えると一階へ降りる。俺に気付いた祖母が朝食を持ってきてくれる。
「今日、鈴のやつどうしたんだ?」
「なんだか、友達との約束があるみたいですよ?朝早くから何やら準備があるらしくてねえ」
「そっか」
少し心配だが多分大丈夫だろう。日の出の時間は悪霊等にも遭遇しないだろうし。
「さて、それじゃ俺も行くか」
食器を片付け、俺は鞄を持って玄関を出る。見送ってくれた祖母に手を振り、暑い日差しの中、学校へと足を向けた。
「あれ、今日はお前一人なのか」
「鈴は先に行ったよ。今日は友達との用事があるんだってさ」
途中で合流した浩介と話しながら学校へと向かう。
「昨日の用事ってなんだったんだ?」
「ああ、昨日はちょっと谷側の知り合いの家行ってたんだ。一志(かずし)おじさん、知ってるだろ?あの人が先日事故したらしくてな。別に大事故ってわけじゃないから心配いらないけどな。おじさんもかすり傷だし、特に問題も無いから」
「なんだよ。それじゃ昨日見舞いだったのか。言ってくれりゃ一緒に行ったのに。一志おじさんには昔よく遊んでもらったし。最近会ってないから」
「そうだな。最近じゃ電話使えば声ぐらいならすぐ聞けるし、便利になったよな」
「実際に会うのと電話とじゃ、なんか距離感じるけど」
「そりゃ実際正面で話してるわけじゃないし、距離はあるんだから当たり前だろ」
この村にも徐々に近代化の波が押し寄せてきているのを、肌身で感じるようになった。
上下水道が整備され、電話線なんてものが道の上を張られるようになった。朝日町の方では、等間隔で道路に外灯が付けられたらしい。それは確かに夜でも明るくて安全だろう。学校にはテレビだって付けられたし、言いすぎかもしれないが、祖母は電気が各家に配給されていることもすごいと言っていた。
ただ、電話のように人と距離を感じるようになったことも多いのかもしれない。
「さて、今日も頑張りますか!」
「お前授業ほとんど寝てるだろ」
「そ、それは、ほら。あれだ!寺坂との勉強のためだ!」
「言い訳に無理ありすぎだよ」
またいつも通り学校が始まる。
「あれ?浩介はどうしたの?」
教室からいなくなっていた浩介のことを、幸恵が聞いてくる。
「いや、今日は早弁してたぞ。昼は寺坂と勉強あるからって」
「あいつが勉強のために!?」
「きっと腹が減ったことの言い訳だろうけど」
「でもそれの理由に寺坂さん出すとか。あいつも頭がいいのか悪いのか・・・」
「多分それは、あいつのサボってきた経験がものを言っただけだな」
そうかもしれないと幸恵が笑う。
「でも、お前もそろそろ行くべきだろ。時間無くなるぞ」
「それもそうだね。寺坂さん待たせちゃうし」
手を振りながら幸恵が教室を出ていく。俺はそのまま机に突っ伏す。
教室の外からうるさい蝉の声が聞こえる。クラスの人たちが何事かを話している。聞き耳を立てるでもなく、聴こえてくる音をそのまま聞き流していると、俺の頭を誰かがつついてくる。
ガバッと体を起こすと、俺の前には少し驚いた顔の裏宮。俺は怒りたい衝動を必死にこらえ、不思議そうなクラスメイトたちの視線から逃れるように教室を出た。
一般棟、屋上手前の階段。
「お前。教室で変なことするなよ」
「だって昭一、寝ようとしてたし」
「俺はあんな暑苦しい教室で寝れるほど図太くはない。というか別に良いだろ寝たって」
「いや、駄目だよ!私寂しいから」
「お前のためかよ」
「そう、私のため!でも、確かに風通し悪いもんね、この学校の教室。やっぱりここがお勧めだよ!」
陽の光もあまり入ってこないこの階段は、確かに少し涼しいかも知れない。
「だけど俺は、一番は実験棟かな。あそこは涼しい」
「あそこは隙間風が通り抜けるし雨漏りするし、ただの古ぼけた場所じゃん」
「それ、花子さんとかに言ったら怒られるか泣かれるかのどっちかだからな」
「大丈夫だよ。だってみんなあの棟から出られないんでしょ?」
「多分な。まあ、トイレの花子さんなのに教室まで出歩かれたら、もうそれ『トイレの』花子さんじゃないし」
「それもそうなんだけどね」
「そういえば、お前はそういう決まった場所とか無いのか?」
「あったでしょ?あの祠だよ」
「それじゃ、今お前はすごく遠くまで出歩いてるんだな」
「うん。やっと麓まで降りられるようになったんだし、楽しまないと!」
「・・・それじゃあ、もしかしたら花子さんも、いつか学校を徘徊するようになるのか・・・?『校舎を徘徊する花子さん』って言うのも、それはそれで怖いな」
「怖そうだけど、無さそうだよね」
「無いならいいけどな」
俺の耳に廊下を走る生徒の足音が聞こえる。と同時に授業のチャイムが響く。
「やばっ!じゃあな、裏宮!」
俺は階段を一段飛ばしで駆け下りた。
遅れて教室に入った俺への教師のお叱りを挟んで、午後の授業が始まった。浩介や幸恵に笑われた事がなんだか悔しい。
「今日どうしたの?普段なら遅れないのに」
授業が終わって幸恵に言われる。
「別に。時間見てなかっただけだよ。幸もよくあるだろ?」
「確かにね。ま、私の場合は校舎外走ってたら気付かなかったりするだけだけど」
「そっちのほうがなんかたち悪い気がするのは俺だけか?」
どっちにしても遅れたのに変わりはない。次からは裏宮と会うにしても、もう少し時間を気にしようと思った。
急に立ち上がった浩介に俺と幸恵が驚く。そんな俺たちに向けて浩介が言ってくる。
「ごめん、俺ちょっと次休むわ」
「え?休むって、次の授業もう始まるぞ?」
「おう。それじゃ」
俺の質問には答えず、彼は教室を出ていく。
「あいつどうしたんだ?」
「さあ?急にお腹でも痛くなったのかな?」
幸恵に伺ってもよく分からない返事しか返してくれない。半分ぐらいは予想できたことだったけど。
結局、本当に浩介がいないまま授業が始まった。
放課後になり、幸恵は早々に部活へと向かっていった。俺も今日は直ぐに教室を出た。
他の生徒たちより先に校門にたどり着き、向かってくる生徒の中から浩介の姿を探す。もしかしたら先に帰ったのかもしれないが、なんとなく帰っていないような気がした。本当に変えるなら、浩介は堂々と帰宅を宣言するだろうから。
しばらく待っても浩介は来ない。先に鈴が俺を見つけて近寄ってくる。
「どうしたのお兄ちゃん?」
「いや、ちょっと浩介を探してるんだ」
「え、何?隠れんぼでもしてるの?」
「そりゃ随分とすごい解釈だな。ぎりぎり学校内とか言って校門に隠れるほど、俺はかくれんぼ苦手じゃないぞ」
しかも今はそんなことが問題なんじゃない。
鈴も一緒になって待つことさらに数分。昇降口から出てくる浩介の姿。誰かと一緒なのか歩みが遅い。誰と話しているのか気になり、もう少し体を乗り出すと少女の影。
「あれ・・・、寺坂か?」
「え?浩介くんに彼女?」
「いや、彼女じゃないだろ。最近話し始めたばっかりの関係だし」
でもなんだか、すごく楽しそうに話している二人。いつの間にあんなに話すようになったのだろう。図書館外で彼女が他人と楽しそうに話しているところを、俺は初めて見たかもしれない。
「あれ?お兄ちゃん、浩介くんって・・・」
そこまで口にした直後、すごい勢いで俺の後ろに隠れる鈴。もしかして浩介に見つかりそうにでもなったのだろうか。そう思いそっと覗いてみても、彼らがこちらの方を向く気配はない。むしろ会話に夢中になっているようにも見える。
俺たちとの距離が近くなってきたので、少しずつ校門の影に隠れながら移動する。俺たちに気付かずに、二人は校門を過ぎる。寺坂は谷側、浩介は山側。二人とも互いに手を振ってから、別々の方向に歩き出す。ちらちらと何度か振り返る寺坂。浩介の方はそのまま家路をたどる。
俺は今さっきまでの状況を聞いてみたくて、浩介の方へ向かおうと立ち上がる。
「待って。何するの?」
後ろでしゃがみこんだままの鈴が聞いてくる。
「ちょっと、浩介に聞きたいじゃん、今のこと。だから追おうかと・・・」
「待って!」
再び歩き出そうとした俺を鈴の大声が止める。
「ど、どうしたんだよ、急に。もしかして、見てたのがバレたくなかったのか?」
「・・・・」
「どうした?」
「・・・そ、そうだよ。今聞きに行く必要も無いんじゃないかな?浩介くんは、また明日だって会えるんだし・・・。それより、私はあっちの人のほうが、気になるな!」
そう言って指さすのは寺坂が歩いて行った方。
「あっち、谷側だぞ?あんまり行くと帰り遅くなっちまうし」
「だ、大丈夫だよ。少しだけ、行くくらいなら・・・」
「・・・分かった。それじゃさっさと行くか」
俺は鈴の手を取り立ち上がらせ、その手を握ったまま寺坂の後を追う。
俺の握った小さな手が、微かに震えていた。
しばらく歩いたところで、鈴が先に口を開いた。
「あの人、お兄ちゃんの知り合い?」
「ああ。前から知り合いではあったんだけど、最近よく話すようになってな。普段からずっと図書館にいる人でさ」
「そっか。よく知り合ったね。お兄ちゃん図書館なんて滅多に行かないのに」
「確かにな。たまたま同じ本読もうとした時があって、それからだな。ちょっと話が盛り上がって」
「同じ本?どんな本なの?」
「本のタイトルは忘れたけど、確か昔の怪談や伝奇が載ってる本じゃなかったかな?」
「怪談・・・。怖い話、好きなのかな?」
「いや、それは嫌いだって言ってた。ただ怖いもの見たさなんじゃないか?本人は、不思議な世界のお話は読んでいて飽きないから好き、って言ってたけど」
「そっか・・・。そういう人なら、信じてくれるかもね・・・」
「鈴?」
太陽が低くなり、徐々に辺りが暗くなり始める。俯いた鈴の顔は、俺の位置からでは表情が見えない。遠くで鳴いていた蝉の声は、もう遠く小さく消えていった。
何か、おかしい。
「鈴。そろそろ帰ろう。これ以上は帰りが危ない」
俺は鈴の手を引いて来た道を引き返す。鈴も成すがまま、俺に手を引かれて歩き出す。その手は、血の抜けるほど強く俺の手を握り締めていた。
途中、二人の歩く音しか無い暗い砂利道で、鈴が俺を引き寄せる。その手が離れ、俺の背中にしがみつく。漏れ出た彼女の声は震えていた。
「ねぇ、お兄ちゃん・・・。あの人なら、信じてくれるかもしれないね・・・」
「鈴、さっきから何言って・・・」
「あの人・・・、幽霊とかも、信じてくれる、人なんだよね・・・?」
「鈴、何のことだよ・・・」
「お兄、ちゃん・・・。浩介くんを、守って、あげて・・・」
鈴の話が通じない。俺には何を言いたいのか分からなかった。
「鈴。鈴!何なんだよ!どうしたんだよ!」
鈴と向き合い、肩を揺する。下を俯いたまま、離れた両手は力なく揺れるだけ。その頭がゆっくりと上がり、俺を見上げる鈴。その虚ろな目に光はない。背筋が凍る。
ゆっくりと、その口が動く。
「浩介くんを、助けてあげて・・・?彼には、憑いてるから・・・」
翌朝。俺はゆっくりと体を起こす。朝日がいつもよりやけに眩しい。正直昨日の今日でぐっすり眠れるわけもなかった。
鈴の言葉を聞いたあと、直ぐに俺は鈴を連れて帰った。鈴は夕飯も食べずに自室に篭ってしまい、声をかけても返事さえなかった。
鈴にとって嫌な記憶を思い出させたのかもしれない。浩介も鈴にとっては家族のように一緒に過ごしてきた人なのだから。
朝食を取りに下へ降りると、そこに鈴の姿は無い。予想はしていたものの、昔に戻ったようでなんだか心苦しかった。祖母いわく、今日は学校を休むと言っているそうだ。仕方ないだろう、そう思った。
家を出る前に鈴の部屋に声をかける。返事はなかった。風邪を引いたから休んだと学校に伝えることだけ言い残し、俺は家を後にした。
砂利道を一人歩いていると、後ろから少しずつ近づいてくる足音。
「よう、昭一。なんだ今日も一人か?」
いつも通りの元気な浩介。その姿から、昨日のことは全部鈴の気のせいなのではないかと思ってしまう。
「ああ。鈴のやつ、風邪ひいちゃって寝込んでるよ」
「そうか。この時期風邪っていうのも珍しいけど。ま、ゆっくり休めって伝えといてくれよ」
「そうだな」
「さてと。それじゃ、俺先行くわ」
「ん?今日何かあったか?」
「いや、特に学校の用事ってわけじゃないんだけどな」
それだけ言い残すと、浩介は駆け足で先に行ってしまう。そんな浩介の行動が少し気になって、俺はそのあとを追った。もしかしたら、彼の行動に鈴の言葉と繋がるところがあるかもしれないと思って。
学校に着くまでは何も無かった。ただの一本道を逸れることもなく、道を歩くクラスメイトと時々挨拶を交わしながら駆けていく。普通すぎて逆に肩透かしをくらった気分だ。
学校についても何ら変わらず、昇降口から入っていく。ここからは変わったことも起きないだろうと思い、声を掛けようとしたところで、彼が教室とは違う方へ曲がったのに気づく。廊下を教室とは逆方向に歩く浩介。一体どこに向かっているのか、後をつけてみる。
「ここ、図書館・・・?」
浩介は特に周りに気にせずに図書館へと入っていく。
図書館に来るなんて、どんな用事だろうと中に入ってみる。早朝だからか、人はいなく朝日が夕方とは逆の窓から差し込んでいた。
奥の方から浩介の声がする。そっと本棚の陰から覗いてみると、浩介が誰かと話しているのが見える。図書館の長机。一番奥の席といえば、ある少女ぐらいしか思い浮かばない。
「いつもこんな早くから来てんのか?」
「はい。こうして、本を読んでるのが、好きなので」
「ふうん。ここにある本どのくらい読んだんだ?」
「そうですね・・・。まだ半分ぐらいでしょうか」
「半分って・・・、それでも結構な量だぞ!」
「毎日、読んでますから・・・」
声からして、やはり寺坂だった。二人きりで話している姿を見たのは昨日くらいだが、もしかしたらそれ以外の俺の知らないところでも、こうして話していたのかもしれない。
これ以上聞き耳を立てるのも気が引けたので、俺は静かに図書館を後にする。浩介が早く来たかった理由がこれだったとは、思いもしなかったが。
教室に帰り、一人で暇を持て余していると、部活が終わったのか数人のクラスメイトと一緒に幸恵が教室に入ってくる。自分の席に座り込み、汗を拭きつつ彼女が聞いてくる。
「あれ?浩介は?もうすぐ授業なのに。それに珍しいね、昭一と浩介が朝一緒じゃないなんて。何か知らないの?」
「・・・いや、知らない」
「へえ。もしかして喧嘩でもした?」
「してないよ。なんでそうなるのさ」
「いや、なんとなくそんな気がしただけだよー。別に深い意味は無いよ」
「そうか。それにしても浩介遅いな」
「こうやって話してたら来たりしてね」
その言葉が彼に聞こえたかのように、教室に姿を現す。
「あ、浩介だ。おはよう!今日は遅かったねえ」
「いや、別に今来たわけじゃないし。ちょっと用事あってさ。な、昭一」
「え?何それ気になる!それに昭一、浩介もう学校に来てること知ってたんじゃん」
「いや、学校来る途中に会っただけだし、浩介の用事って学校外かと思ってたから」
「なんだ、そうだったの。てっきり何か私に隠し事でもしてるのかと・・・」
三人で話しているといつの間にか授業開始の時間。クラスの皆がそれぞれの席へと戻っていく。
鈴に何か言われた後でも、やっぱり三人で話しているときは楽しくて、言われたことなど忘れてしまっていた。
昨日と同じく今日も浩介は昼休み最初から教室を出ていく。
「浩介、どうしたんだろ?なんか寂しいねえ」
「たまにはいいだろ、あいつがいなくても」
幸恵が頬杖をついたまま俺を見てくる。
「今年はどうしちゃったのよ、みんな。昭一も浩介もなんか冷たいし」
「俺?」
「だって、一緒に勉強してくれないし・・・」
言ったあとに何を思ったか、幸恵の顔が赤くなる。
「い、いや、私は別に、一緒に勉強したいとかそういうんじゃなくって!ただ、なんで昭一は今回他人に勉強相手任せたのかなーって気になったというかなんというか・・・」
「俺は、ただ用事が・・・」
「浩介だって、用事があるって言ってどっか行っちゃうし。なんかなー。私だけ置いてかれてる気分」
幸恵が窓の外に目をやる。白い雲とそれより少しだけ小さな雲が、風に流され、距離が離れていく。普段の幸恵からは見ることもできない少し寂しそうな表情だった。
「大丈夫。俺たちは高校終わったってずっと一緒だろ」
励ますように肩を叩いてやる。
「・・・人の気も知らないで」
幸恵の小さく落とした言葉。聞き取れず聞き返してみると、何でもないとそっぽを向かれてしまった。気のせいか、少しばかり頬の赤みが増した気がした。
「さて!私もそろそろ行かないとね!」
時計を見て勢いよく立ち上がる幸恵。時間はそろそろ昼休みの半分を過ぎようとしていた。
「昭一、約束だからね!今度赤点回避したら何かちょうだいね!」
俺の返事も聞かずに足早に教室から出ていく。幸恵の要求を呑んだ記憶は無いのだが、今回ばかりは彼女の言う通りにしようと思った。俺自身も一緒に勉強できなかった分の埋め合わせはしたいと思っていたから。
幸恵もいなくなった教室は、なんだか少しだけ寂しく思えた。俺には他のクラスメイトに話す人が少ないのだから仕方ない。俺は冷たい机に頭を乗せた。
「悪い。今日先帰るわ。なんかちょっと、気分悪くてな・・・」
夕方、浩介が話しかけてくる。
「別に構わないけど。勉強のし過ぎで知恵熱でも出たんじゃないか?」
「そうかもな。慣れないことはするもんじゃないな・・・」
「なんにしろ、具合悪いんなら無理しない方がいいし、ゆっくり休め」
「ありがとよ。それじゃ、また明日な」
「あぁ。気をつけて帰れよ」
ゆっくりと教室から出ていこうとする浩介を見て、俺は鈴の言葉を思い出した。
「浩介!」
「ん?どうした?」
振り返った浩介に、俺はなんと言っていいか戸惑う。呼び止めたのはいいが、そこから先を考えていなかった。
悪霊が憑いているなんて言っても信じないだろうし、これから先身の回りに注意したほうがいい、なんて助言も、逆に俺が怪しまれてしまう。かと言っていきなり清霊布で触るのも気味悪がられるだろう。
何とも言い難い状況で俺が固まっていると、何か思い出したように浩介が言ってくる。
「悪い。寺坂にも言っといてくれないか?俺が今日はもう帰ったって」
何も言えずにいると、少し微笑んで彼は教室を出て行った。具合の悪そうな彼の笑顔に、俺はそれ以上引き止めることはできなかった。
帰る前に図書館へと足を運んだ。浩介からの伝言もあるが、もう一つ用事があった。
いつもの場所に座る寺坂へ声をかける。驚いて本を隠そうとする寺坂の様子は逆に目立って仕方がない。その手に持っているのは何やら怖そうな表紙の本。もしかしたら伝奇物の小説かもしれない。彼女は自分のそのような趣味はあまり知られたくないと言っていた気がする。
「昭一くんでしたか。どうしたんですか?」
「いや、ちょっと浩介から伝言頼まれてな。今日は具合悪いらしくて、先に帰るってさ」
「そう、ですか。明日には良くなっているといいですね・・・」
「あいつのことだから、きっと知恵熱とかそんなところだと思うよ」
「そうだと、いいんですけど・・・」
浩介の話を聞いて途端に寂しそうな表情を見せる寺坂。俺の励ましもあまり効果は無いようだ。
「きっと明日には治ってるよ。まあ、治ってても治ってなくても、明日浩介が学校来たらお前から何か言ってやれよ。あいつきっと喜ぶから」
「え、私からですか?それは幸恵さんや古峰くんのほうがいいんじゃない、かな・・・」
「いや、俺たちから何か言うのはいつもと変わんないしさ」
それに、寺坂から言われることは、きっと浩介にとって特別なんじゃないかと、俺はそう思ったから。そんな俺の戯言は、声にならないように押し留めておかなければならないが。
「そうですね。明日会えたら、何か言っておきますね」
「あぁ。その時、くれぐれも俺に声をかけるように言われた、とか言っちゃダメだからな?」
「は、はい。分かりました」
不思議そうだが、それでも了承してくれた。
「寺坂。もう一つお願いしてもいいか?お願いと言うより、話を聞いて欲しいんだが、いいか?」
「はい、私でよければ」
「お前、霊とかの類は信じる方か?」
「え?それ、前にも聞いてきましたよね?私は、信じますけど・・・」
「じゃあそれが、身近な人に取り憑いてるって言われても?」
「身近な人、ですか・・・。信じたくはありませんが、信じるかも、しれないです」
「そうか・・・」
一度落ち着くために息を吐く。俺が家族以外の人にこの話をするときは、どうしても落ち着いているのが難しい。それは話し相手が笑い飛ばすような人でも、寺坂のように真摯に聞いてくれる人でも変わらない。
「落ち着いて、聞いてくれ・・・。もしもだ。もしも、浩介が何かに取り憑かれているとしたら、お前はどうする?」
「それって・・・。私なら、きっとお払いに連れて行くとか。体を元気にして、幽霊とかが入り込める弱さを無くしてもらう、とか。・・・でも今の話、もしも、なんですか?今、浩介さんは何かに取り憑かれていたり、するんですか?」
「俺にも、詳しいことは分からないんだ。ただ、もしかしたら、今日体調を崩したのもそのせいなんじゃないかなって」
「そういう話は、昔の伝承でもよくありますよね。祟られると最初に体調に変化があるっていう話。実際にそうなのかは、私にはよく分かりませんが・・・」
「それにまだ、取り憑いてるのが悪霊かどうかも分からないし・・・」
「でも、それが具合の悪さの原因なら、きっと悪霊ですよね・・・。善霊なら、そんなことにならないでしょうし・・・」
「そうかもな」
二人とも何も喋らず、時間だけが流れる。
沈黙に耐え切れず、俺はできるだけ明るく言う。
「まあ、今は俺たちが気に病んでも仕方ないんだけどな。お前ももしものために気をつけておけよ?」
「そうですね。分かりました」
真剣な顔で俺の言葉に頷くその対応が、真剣に霊について聞いてくれるその姿勢が。他の人とは全く違って、少しでも自分たちのような人のことを分かろうとしてくれている気がして、俺は嬉しかった。
もしかしたら幽霊たちも、こんなふうに自分たちのことを見てくれる人を探しているのかもしれない。
ただ、このままでは暗い雰囲気のまま帰ることになってしまいそうだったから、俺は寺坂に言う。
「お前、この手の話題になると、いつもより少し饒舌になるよな。いつもそんな風に話せばいいのに」
「え?私、そんなにいつもと違いましたか?」
「うん、まあ」
「そんな・・・。うう・・・」
赤面した顔を本で隠す。少しは空気の暗さも紛れただろうか。
「さて、そろそろ俺たちも帰らないと」
「そうですね。そろそろ時間ですし」
今日も重そうに本を片付ける寺坂を手伝い、俺たちは図書館を出る。
「あれ、昭一に寺坂さんじゃん」
昇降口で幸恵にばったり遭遇する。
「二人とも今帰りなの?今日はやけに遅くまで残ってたねー」
「幸恵さんは今まで部活ですか?」
「そうだよー。今日もよく走った!」
なんだかすごく楽しそうに先を歩き出す彼女に俺たちも続く。
「この時期はいいよね、雨降らなくってさ。ずっと部活できるし!あ、でも畑とかは大変だね。水ないと枯れちゃうし」
「もう少し気温が低くても俺はいいけどな」
「私も、この時期は日差しが眩しくて・・・」
「えー。二人共もう少し外出ようよ」
校門まで来て、俺たちはそれぞれの方へ別れる。幸恵と寺坂の二人の影と反対に、俺は自分の家へと歩を進める。
「今日は一人なんだね」
しばらく進んだ頃、草陰からの声にそちらを振り返る。
「なんだ、裏宮か」
「なんだって何?ちょっと酷くない?昼休みだって、私待ってたのに来てくれなかったし」
「そういえば昼休み会わなかったな」
「そうだよ!その分こうやって、帰り道で待ち伏せさせて貰ったんだー。本当は一人だとは思ってなかったけど」
「そうだな。鈴も浩介も、いろいろあってな」
「鈴ちゃんは、大変そうだね」
「・・・知ってんのか?」
「私の視力を甘く見ないで欲しいな。鈴ちゃんの気付く範囲よりも遠くからだって見えるんだから!・・・まあ、音は聞こえないけど」
「それじゃあ、昨日のことは、見てたってことか?」
「うん。学校の前だけだけど」
「お前に心当たりは無いのか?最近学校によく来るし、校舎内を彷徨っている悪霊とか分かんないのか?」
「今の私はそんな便利な力持ってません!」
「そこ、威張るところじゃないだろ」
そうは言いつつも、裏宮にもよく分からないと言われてしまえば、少し期待していた俺としては残念でならない。
「それこそ、学校妖怪たちに聞いてみればいいんじゃない?何か分かるかもよ?」
「お前、たまに良い事言うよな」
「一言余計だよ、昭一!」
話している間にもいつの間にか遠くに見えていた家の明かりが近づいてくる。学校を出たときは一人で帰るのが少し寂しいと思い、妖と帰っていることに楽しさを覚えることが、なんとも不思議な気分だった。
「それじゃ、またね!」
家から離れる方に駆け出す裏宮に、俺は手を振ってやる。元気に振り返してくるその姿に、少しばかりの愛しさを覚えた。
「まったく。見た目小学生のくせにやたら気使いやがって」
俺は準備していた清霊布をしまう。一回も俺に触らず、家にも近づかなかった裏宮を少しだけ見直した。
昨日は部屋から一度も出てこなかった鈴が部屋を出てきたのは、俺が学校に行く準備を終えた時だった。
黒いクマができた瞼を擦りながら、鈴が俺の方に歩いてくる。
「おはよう、鈴」
「おはよう、お兄ちゃん・・・」
そのままギュッと腰に腕を回し抱きついてきた鈴。その体を優しく抱き返してやる。しばらくそのまま抱きついていたが、やがて鈴の方からその身を離す。
「今日も、休むか?」
「・・・うん」
土曜日でも、学校は学校だ。連絡はしなければ。
「そっか。ちゃんと体調良くしとけ。そんな様子じゃみんなから余計に心配されるぞ」
「そうだね。ちゃんと、休むから・・・。だから・・・」
その先の言葉は聞こえなかった。だけど、あえて聞く気にもなれず、俺はもう一度妹を抱きしめ、家を出た。
登校中、浩介の姿はない。昨日先に帰ってからどうしたのか分からないが、もしかしたら本当に風邪だったりするのかもしれない。
学校が始まっても、浩介は来なかった。俺も幸恵も心配していたが、彼は二時限目が始まる直前になって、やっと姿を見せた。その様子は特にいつもと変わらず、ただ少しだけ眠そうな表情だった。
「いやー、珍しく寝坊しちまってさ。まいったよ本当」
そう笑う浩介にほっとしたような幸恵。俺も内心ほっとしたが、それでも気を抜けないのも事実だった。
昼食は久しぶりに三人で食べ、皆で図書館へと向かった。
浩介の姿を見つけた寺坂が、少し嬉しそうなのが伝わってきた。彼に無理をしてはいけないとか、適度にやるのが一番だとか、そんなことを話していた。
いつもより離す寺坂に不思議そうな浩介と幸恵だったが、浩介はなんだか寺坂との会話を楽しんでいるようだった。
昼休みも少しずつ二人の勉強が進み、もうすぐで授業が始まる時間になった。俺たち三人は寺坂と別れて教室へと戻る。
そのまま午後の授業が始まったのだが。
「すいません・・・、具合悪いんで、保健室言ってもいいですか・・・?」
授業の途中で浩介が席を立つ。本当に午前中とは打って変わって、顔色も悪く、真っ直ぐ歩くのもやっとという感じだった。結局浩介が学校にいた時間は半日も無かった。
「こんなこと言うのもなんですが、花粉とかも影響あるんでしょうかね?」
授業合間を使って、俺が寺坂に浩介のことを伝えると、予想外の答えが返ってきた。
「花粉?どうしてそう思ったんだ?」
「なんとなく、夏場も花粉症の人はいますし、それが原因なら、この時期に急にというのも少しは納得できます。それに、今日はすごく目が痒そうだったので。特に左目が」
「確かに、目は擦ってたけど、それだけじゃ花粉ともなんとも言えないよな。でもありがとう。参考になった」
「こちらこそ、わざわざいろいろな情報をありがとうございます」
俺は寺坂と別れて教室へと帰った。
一日の授業を終え皆がそれぞれに教室から出ていく。幸恵も元気に俺に手を振って部活へと向かっていく。俺も今日は用事があるために手早く準備を済ませ教室を後にした。
俺が向かったのは実験棟。その一番奥の方のトイレ前で、俺は呼びかけてみる。
「花子さん、いないのか?」
「あなたは、怖い人?・・・あれ?昭一君?」
扉から少しだけ覗き見ていた花子さんが寄ってくる。今日は特に触られても気にはしない。それよりも聞きたいことがあるから。
「なあ、花子さん。今日は聞きたいことがあってきたんだ」
「聞きたい、こと?」
「そう。俺だけじゃよく分からないことが多くて。この学校の幽霊とかの話を聞いてみたくてな」
「そう、なんだ。それで、何かな?」
「この学校にいる幽霊って増えたりするのか?」
「学校にいる、幽霊?それって、学校怪談の、ことかな・・・?それはほとんど、変わらないよ?希に、増えたり、するようだけど・・・」
「そうなのか、学校妖怪って増えるのか・・・、って俺の聞きたかったのはそっちじゃなくて、ただ彷徨ってる亡霊のような、そういう類の話なんだ」
「亡霊?」
「人に優しい亡霊、いわゆる善霊もそうだが、悪霊も時にこの学校に入り込んだりするのか?集まって来たりするのか?」
「うん、それは、あるね。行くあてが、ないような者が、時々居着いて、いたりするし。そんな幽霊に、つられるように、付いてきた幽霊が、集まることも、時々だけど・・・。そういえば、何故か、ここ数日で、そんな幽霊が、増えたような・・・」
とりあえずそこまで聞いて俺は一旦言葉を置く。どういう経緯でここに集まるのかは知らないが、とにかく幽霊が集まるらしい。
「それじゃあ、ここ数日の間で悪霊がいたのかどうか分かるか?」
「人に、悪さするような、幽霊?私だけじゃ、そこまで詳しく、分からないな・・・。ちょっと、待ってて・・・!」
そう言って彼女がトイレの中に消える。しばらくして出てきた花子さんは何やら神妙な顔つきになって尋ねてくる。
「ねえ。どうして、そんなこと、聞いてくるのかな?」
「どうしてって。それは、俺が知りたいからで・・・」
「なんで、知りたいの?」
「それは・・・」
「言えないの?」
花子さんの不安そうな声。その長い前髪の間から一心に見られているのを感じる。いや、それ以外にも周りからの多くの視線を感じる。背筋に薄ら寒いものを感じて、俺は正直に話そうと口を開く。
「もしかしたら、友人に何かが取り憑いているかもしれないって思ってな。実際どんな幽霊が憑いているのか、全く手掛かりが無いまま探すのも大変だし、もしかしたらお前のような学校怪談たちなら知っているんじゃないかと思って」
「本当に、それだけ?」
「ああ。それ以外に理由はないよ」
「そっか。良かった・・・。不安症の人が、変なこと、言うから・・・」
彼女の安堵と合わせて、周りからの視線が徐々に薄れていく。
「今すごく見られてた気がしたんだけど、その、変なことってなんだ?」
「え?えっとね、それは・・・」
なんだか言いにくそうに縮こまる。
「昭一君が、その・・・、私たちを、消しに来たんじゃ、ないかって」
「消すって・・・、そんなことできるのか?」
「多分・・・。本当は、増築や老朽化した校舎が、あるおかげで、私たちみたいな、学校妖怪が、増えてきたから。もし、学校が、新しくなると、私たちは、消えてしまうかもって。校長が、学校改装の話を、していたって、言う人もいて・・・。それに、消すだけなら、昭一君の持ってる、清霊布でも、できると、思うから。みんな、怖かったんだと、思う・・・」
「そうか。そんな話が・・・」
妖怪が怖がるなんて。一時期俺もそう思っていたが、今となっては昔の話。話していると、妖怪も幽霊も自分の怖いものには人間のように怯え、驚かされても人間のように驚く、そんな存在。だからこそ、お寺の観音様の前とか、お祓い行事の最中とか、自分の消されそうな場所、タイミングで幽霊が自分から出てくることは無い。
「あ、そういえば、人に悪さするような、幽霊が、いないかって、話だったよね?ごめんね、話、逸れちゃって・・・」
「問題ないよ。不安は先に拭っておくべきだしな。それで、何か分かったか?」
「それが最近、この学校に、集まる幽霊が、増えている、みたい。誰かが言うには、大半の、幽霊は、裏山の方から、来ている、みたい」
「裏山?裏山って、深嶽山ぐらいじゃないか」
「そう。その、深嶽山の方角から、幽霊が、この学校・・・、もしかしたら、この村全体に、降りてきているかも・・・」
「高根村全体に?それは、いつ頃から?」
「一週間ほど前から、徐々に、増え始めて、数日前から、一気に、増えている、らしいの。屋上の女の子が、教えてくれた」
屋上の女の子、もとい『屋上の上履き』という学校の怪談に登場する女の子。彼女も普通の幽霊よりはこの学校に根強いし、彼女の言う言葉にも信頼性はあるだろう。
「それじゃ、もしかすると学校自体が危ない?」
「そうかも、しれない・・・。昭一君は、お友達のために、このことを。聞きに来たんだよね?そのお友達に、どんな幽霊が、取り憑いているのか、知りたくて」
「そうだ。浩介・・・俺の友人に憑いているやつの正体が知りたいんだ。それについては?」
「ごめんね、昭一君。私たちじゃ、分からなかった。というよりも、最近増えた、幽霊が多すぎて、どんな人が、取り憑いたのかも、分からないの。もしかしたら、お狐様なら・・・」
「お狐様?」
「いや、何でもないの・・・!気にしないで?それより、ごめんね。お友達のこと、分からなくて・・・」
「いや、無理ならいいんだ。気にすんな」
「うん・・・。あっ、でも、私たちが、直接会えば、分かるかもしれない・・・!そう、言ってる人も、少なくないから。良かったら、また連れてきて?」
「できればそうするよ。今日はありがとな」
「気に、しないで。また、何かあったら、いつでも、聞きに来てね・・・!私も、話すの、楽しいから」
「分かった。それじゃ、またな」
「またね、昭一君・・・!」
俺は花子さんと別れて、放課後の旧校舎を後にする。
俺が実験棟を出る間際。目の前にすごい形相の男性が走り出てきて、俺を見つめる。
そのまま俺の方に走り寄ってくるのを見て、俺は即座に清霊布に手が伸びる。だがその手は、彼の表情を見て固まる。
彼の顔は恐怖の表情で固まったままだが、その中に今にも泣きそうな悲哀の表情も含まれていた。
彼は目の前に来て俺の肩を掴むと、その歪んだ口を動かした。
その言葉に、一瞬俺の頭が理解を拒む。動かない俺を見て、彼がもう一度それを口にした。
「体育館の天井が落ちたんだ!」
俺は気付けば走り出していた。
体育館といえば、室内競技の運動部がメインで使っていることだろう。いろいろな競技があるが、その中でも土曜日に使っていたのはどこだったか。忘れてはいない。
今日は、バスケ部だ。
体育館前はすごい人だかりが出来ていた。俺はそんな人たちの間を無理矢理通り抜け、一番前まで出る。教師によって、事故現場の体育館自体に入れぬよう止められた生徒たち。その先には、先ほど転落したであろう天井の一部が散乱していた。一部といっても、数としては半分以上の天井板が落下していた。
その体育館の端で、集まっているバスケ部の部員たち。座り込み俯いた一人を皆が慰めているような、そんな不思議な格好。背を向けている生徒の顔は見えないが、慰めている数人の中に幸恵の姿はない。俯いたままの生徒ははっきり見えない。彼女が幸恵なのではないだろうか。生徒たちに一人の先生が話しかける。その瞬間、俺は絶望した。
屈んだ生徒は、幸恵では無かった。
「幸!」
周りの音は聞こえなかった。教師の抑制なんて頭で理解できなかった。ただ。ただその瓦礫の中に、俺は駆け出す。
「幸!返事しろ、幸恵!」
天井板の多く積もった場所。そこ以外に人が隠れられるスペースはない。そこに声をかけても声は返ってこない。
全て。全て俺の思い込みだと教えてくれ。俺の取り越し苦労なんだと、幸恵はこんなところにいないと。誰かそう言ってくれ。
そんな願いを踏みにじるかのように、俺の靴底が水音を立てる。少し粘度のある、水音。視界に入る、赤。
「嘘だろ?幸恵。幸恵ぇ!」
誰か。誰か俺を止めてくれ。これは全て俺の思い違いだと。勝手に騒ぐ俺に何か言ってくれ。笑ってくれてもいい。だから・・・。だからそんな悲しい目で、俺を、この現場を見ないでくれ!
俺が瓦礫に手を掛けたところで、強引にその場からはがされる。数人の教師に取り押さえられて、それでも俺は現場に戻ろうと、その手を振りほどこうともがいた。
分かっていた。無闇に瓦礫をどけるのが、中にいる人をどれだけ危険に晒すのか。そんなこと分かっていたけど、それでも。
「目の前にあいつがいるのに!なんで助けらんねぇんだよぉ!!」
体育館に声が響いた。
結局、それから数分後に消防、救急隊が到着した。瓦礫の撤去から始まり、その下から女生徒が救出される。応急処置が施され、彼女は救急車に運び込まれる。
その手前、座り込んだ俺の方を向いた彼女は、少し血の気の引いた顔で笑った。
「大丈夫・・・。またすぐ、ここに帰ってくるから・・・」
彼女の言葉に俺は何も返せなかった。
車のドアが閉まり、幸恵は病院へと運ばれていった。
騒然とした体育館は瓦礫の撤去作業が終わると、見る間に静かになっていった。放課後の体育館には、俺とバスケ部員しか残ってはいなかった。
なんて冷たいんだろう。先の野次馬たちに俺は寒気を感じた。どうして、目の前で人が倒れていたのに。それを見てあんなにも悲しんでいる同部活の人だっているのに。なぜ、声を掛けることもせずに、みんな先生に言われるままに帰ってしまえるんだ。
「大丈夫?」
俯いていた顔を上げると、バスケ部の一人が俺の前に立っていた。
「君、幸恵の友達?」
「はい、まあ・・・」
横、いいかな。そう言って彼女は俺の横に腰を下ろす。
「はい。指、痛いでしょ?」
言われて見れば、いつの間にか指に幾本かの切り傷。天井板に触れた時に切ったのだろうか。俺は差し出された絆創膏を受け取った。
「大丈夫?」
「・・・はい」
「災難、だよね」
「・・・はい」
「元気、出してね?」
ありがとうとも言えずに、俺は黙った。幸恵があんな状態なのに、俺だけのうのうと生きていていいのだろうか。それに、彼女はそんな俺を見てどんな風に思うのだろうか。
黙ったままの俺に、横に座った女性とも黙る。俺は少し気になった。その少女も、居間俺と同じように感じているのだろうか?それとも他の野次馬のように、何も感じていないのだろうか。
そっと横を盗み見て、俺は自分を恥じた。確かに自分は幸恵の友人、バスケ部員のことは知らない、そんな人間だけれど。幸恵と関わった人に、幸恵の今回の件で悲しまない人などいないんだ。
横に居る彼女の赤く泣きはらした目には、再び涙が溜まっていた。
「できたらで、いいんだけどさ。あいつと、話してあげて?あいつ、すごく後悔してるから。自分が助けられたんじゃないかって・・・」
彼女の指さす先。最初から今まで座り込んだままの少女が泣いていた。そんな様子を見ていると、俺まで泣きそうになる。
背中に暖かい何かが置かれる。隣の彼女が俺の背を優しく撫でていた。
「無理しなくたっていいじゃない、こんな時は。男だからとか、関係なく、悲しかったら、泣けばいいじゃん。大切な人が、傷ついたんだから・・・」
優しい声。久しぶりに背中に感じた人の手の温もり。
最後に泣いたのはいつだっただろうか。俺は膝に顔を埋めて泣いた。まさか自分が、幸恵のことでこんなにも心を傷つけられるなんて思っていなかった。
隣の少女の言葉が。『大切な人』という言葉が。強く心に響いた。
下校時刻はとうに過ぎていた。俺は他のバスケ部員たちと別れ、一人帰路に着く。暗くなりだした一本道に、道路を照らす光はない。空にも久しぶりに大きな雲。月を覆い隠していた。
家に着く頃には完全に日が暮れ、辺りが真っ暗になっていた。遠くに見えた家の明かりに少しだけ安心する。
徐々に近づくにつれ、玄関に鈴が立っているのが見える。俺はできるだけいつも通りの笑顔で鈴に声をかける。
「ただいま、鈴」
「おかえり、お兄ちゃん。今日は遅かったね。もう夕食できてるよ」
朝より少しばかり元気そうな鈴に連れられ、俺も家に入った。
翌日は鈴の体調も良くなったようだ。だが俺には、そんな元気な鈴の姿が普段の幸恵の姿にかぶって、見ていられず一人出かけることにした。
砂利道を歩く足は重く、空に浮かぶ雲が俺を追い越し麓の方に流れていく。
ただ何もない一本道を歩く。村の主要な建物もそのほとんどが谷側にあるために山側では特にどこにも行くあてがない。フラフラと歩いて、いつの間にか学校の前まで来てしまった。
普段なら誰もいないはずの休日の学校が、今日ばかりはたくさんの人で溢れていた。警察やら工事業者やら教師やら。
俺はその光景を横目に、学校を通り過ぎる。そのまま村の谷側の方へと足を向けた。
しばらくは今までと変わらない一本道だったが、徐々に道の本数が増え、それに従って砂利道が舗装された道へと変わる。俺は嫌に硬いコンクリートを踏みながら進む。
少しばかり建物の多い景色。普段森と畑しか見えない俺の家の周りとはだいぶ違う。昔何度か来たこともあったが、それでも少し窮屈に感じた。
何も考えずしばらく歩いていると、少し先の道から見知った顔が現れる。寺坂はこちらに気付くと小さくお辞儀をして近付いてくる。
「古峰くん、こんにちは。今日は、どうしたんですか?」
「いや、特に用事ってわけじゃ、ないんだ・・・」
「・・・元気ないです、古峰くん。大丈夫ですか?」
「大丈夫、気にしないでくれ」
「そう、ですか・・・」
そのまま二人黙り込む。
「あ、あの。これから一緒に、お供え物、しに行きませんか?」
そう言って手に持った袋を見せてくる寺坂。そこには稲荷寿司が入った弁当箱が。
「稲荷寿司・・・、稲荷神社か?」
「安易、ですかね・・・?」
「いや、そんなことはないけど、ここらへんで稲荷神社なんて・・・」
俺の記憶にある継子宮神社も津鳥神社も、稲荷神を祀っている神社ではない。それ以外に神社があったのか少し思考を巡らしていると、
「古峰くんも、一緒に行きませんか?」
寺坂の誘いを断る理由も無かったので、俺は彼女についていくことにした。
彼女の向かう方向は谷側の中心から離れる方向だった。そのままコンクリートから砂利に変わった道を歩く。
「ってここ、学校の方向じゃ・・・」
「えぇ、そうですね」
いつの間にか俺は来た道を引き返す方向に進んでいた。
しばらくして、セミの鳴き声がうるさい道の途中。
「幸恵さんのこと、辛いですよね。あんなに元気だったのに・・・」
「お前、知ってたのか」
「ええ。昨日誰かが話しているのを聞きました。不運な事故だったそうで・・・」
そう離す表情は暗い。彼女もきっと辛いのだろう。少しずつ幸恵との距離も縮まって、女子二人で話しているところだって見かけた。その矢先にこんなことがあるなんて。
「幸のことだ。あいつ、言ったことなら大抵はやってのけるやつだから。元気になって帰ってくるって、そう言ったら、絶対帰ってくるから・・・」
元気に言ったつもりだったが、気づけば言葉の尾は小さくなっていた。そんな俺の頼りない言葉でも、寺坂は元気に返してくれた。
「そうですね!私たちは、ただ幸恵さんが帰ってくるのを待っていましょう。きっと元気に帰ってきてくれますから」
「そうだな・・・。そういえば、寺坂はなんで稲荷神社にお供えを?」
「あ、これですか?私、悲しいこととか不運なことがあった時、いつもこうやってお供え物をするんです。小さな社ですけど、そんなところにでも、きっと神様はいるでしょうから・・・」
「それもそうだな。それじゃ、今日は俺も拝んどこうかな」
「古峰くん。そんないい加減な態度じゃ駄目ですよ?あの社には確かにいるかもしれないんですから」
「いるって、稲荷神が?」
稲荷本社でもないこんな場所にいるとは思えないが。
「でも、お供えした稲荷寿司が時々消えているんですよ?」
「それ、どっかの誰かが食ったとかじゃなくて?」
「そ、そんなことないですよ!多分・・・」
「ごめんごめん。寺坂がいるって言うんだから、きっといるんだろうな」
「古峰くん、ひどいです。そんなこと言ってると、祟られちゃいますよ?」
「それは勘弁願いたい・・・」
話していると、気付けば学校の前まで戻ってきていた。
「すごい人、ですね」
学校に訪れているたくさんの人を見て、寺坂が驚きの声を上げる。
「昨日の件で、いろいろあるんだろ」
「そうですね・・・。邪魔しちゃいけませんし、行きましょうか」
そう言って寺坂が歩き出す。向かう方向は昇降口。
「ちょ、ちょっと待て、寺坂。そっちは学校だぞ?」
「ええ、そうですね」
「え?学校の中にあるのか・・・?」
「はい、そうですよ」
ニコリと彼女は笑うが、俺としては驚きしかなかった。一体この学校のどこに稲荷の社があるというのか。
寺坂についていき、たどり着いたのは図書館だった。
「こんなところにあるのか?」
「さすがに図書館にはありませんよ?もう少し先です」
そう言って図書館を横切る。一番奥にはその奥に続く書庫への扉が。当然扉に鍵穴もあるのだが。
「ここの鍵は、もうありません。鍵自体が壊れちゃったらしくて」
寺坂が力を込めると、すんなりと横開きの扉がスライドする。その先へと、寺坂は迷いなく進む。
書庫の中はとても誇りっぽかった。読まれない本がしまわれるため、ほとんど開ける人もいないのだろう。俺は入ってきた扉を閉めて、寺坂に続く。
「この先です」
そう言って彼女が指をさす先にはもう一つ普通の扉が。外と繋がっているのか、扉の窓からは陽の光が差し込んでいた。
扉を開けると、そこは図書棟の裏側だった。すぐ先には森が広がっている。
その手前、少し開けた場所に、ぽつんと小さな社が佇んでいた。大きさは人が屈んだ時と同じくらいの高さ。他に何かあるわけではないが、手前の祭壇に小さな小皿が置かれていた。
寺坂は社の前で手を合わせると、持ってきた稲荷寿司をそこにあった小皿に備える。そうしてもう一度手を合わせてから、社の前をあけ、俺に勧める。俺も、備えるものは無かったが、寺坂のように手を合わせた。
日差しを遮るように木々がそびえ立っていたので、俺たちは木陰に腰を下ろし、少し休んでいくことにした。森から吹いてくる風に、夏の暑さが少し和らいだ。
せっかくなので、寺坂にここの社について聞いてみた。
「ここはね、この学校を建てるときに稲荷神に安全を祈願したらしいです。元々、稲荷神は豊穣神だったようですけど、当時はそれ以外にも複数の神として祀られていて、中でもここは、屋敷神として稲荷神を祀ったとされているんです」
「へえ、屋敷神か。ってことは、建物を建てる時以上に、この建物がここにあり続けることを願ってるんじゃないのか?」
「詳しいことは書いていなかったけど、もしかしたら、そう言う願いがあったのかも。だからこそ、こんなに古いのに何も起きなかったのかもしれないですね、今まで・・・」
今まで。昨日のようなことがなければ、俺も寺坂もこの学校は誰かが守ってくれていると、信じて疑わなかっただろうに。
「稲荷神、って。どこが本尊だっけ?」
「本尊?総本社なら、伏史見(ふしみ)の稲荷大社ですけど・・・」
「伏史見って、近畿地方か・・・。俺たちのところからじゃ随分遠いな」
「そうですね。でも勧請って言って、総本社からの分霊をここで祀ったらしいの」
「分霊って、あれだよな。総本社に祀られてる神の霊の一部、みたいな」
「うん。でも一部というか、その神様の持つ力は衰えたりしないようですけど」
「お前、本当にそういうの詳しいんだな」
「詳しいっていうか、覚えちゃっただけですよ。私、こういうお話好きだから」
「変わってるよ。妖怪が好きなんて」
俺も、そんな変わっている人の一人なのだろうか。
「ここ、いい場所でしょ?」
そう言って寺坂が立ち上がる。ちょうど谷側からの坂を登りきった場所にあるこの学校は、確かに麓の景色が一望できた。図書館の建物自体に少し隠れてしまい、学校の屋上よりは劣るものの、いい眺めであることに変わりはない。夏の暑い日差しも木々に遮られ、心地よい風が火照った肌を冷やしてくれる。
「でも、そろそろ行こっか。こんな場所にいること、他の人に知られたら嫌だから」
「そうだな。それじゃ・・・」
歩き出そうとした俺たちの間を、一仭の強い風が吹き抜ける。少し驚いた声を上げる寺坂。だが、彼女にはそれだけ。俺に向かって微笑んでくる。
「行こう、古峰くん」
「あの、その、ごめん・・・。ちょっとだけ、一人にさせてくれないかな・・・?」
俺のしどろもどろの言葉に、何かを察したのか、いいよとだけ言って背を向ける。
「先、帰っててもいいから」
「うん、分かった」
彼女は扉を抜けて学校に入っていく。その姿が扉を挟んで見えなくなった。
先ほど吹いた風など無かったかのように、森からのそよ風はさわさわと木の葉を揺らす。だけども、俺の後ろからひしひしと伝わってくるこの違和感は、一体なんだ。後ろには誰もいない。あるのは森の木々と、うるさいセミたち、それと小さな社。たったそれだけのはずなんだ。だから、
「ほほう。此度の供物はなかなかに美味じゃのう」
そんな声が聞こえるはずはないんだ。聞こえるはずがないのに。
「少々、目の前の小僧が気になるが、まあ贅沢は言っておれんし。美味なものはいつ口にしようと美味じゃからのう」
のんきな声とともに咀嚼音が聞こえる。
俺はその場でゆっくりと振り返る。
風に揺れる真っ直ぐで長い黒髪。白を基調に赤の縫いのある、一切汚れのない着物。その着物と同様に、人の子ほどの低い背丈。小さな両手で握った稲荷寿司を少しずつ食す小さな人影は、そこに顕在する社の上に器用に立っていた。その小さく揺れる頭には大きな金色の耳。腰からは同じく金色の尾が左右に揺れている。
いつの間にか、狐の耳と尾を持った少女がそこにはいた。
俺が驚いたまま見つめていると、そこに立つ少女が顔を上げる。
「はて?妾は今、妖力を切っておったかの?いや、そんなはずはないはずじゃが・・・」
そう何度か自分の体を見てから、少女は俺の方に向き直る。
「そこの小僧よ。妾のことが見えるのか?この声が聞こえるのか?」
「・・・見えてるし、聞こえてるよ」
大抵の幽霊や妖怪はこのように言えば多少なりとも驚くのだが、なんだかこの少女は驚かない気がする。そんな俺の予想は見事に当たった。
社の上に立つ少女の顔に笑みが生まれる。
「そうか。そうかそうか!妾が見えるか!お主のような小僧に妾が見えるか!これはなんと愉快なことじゃ!」
そう言って俺の方に飛び降りてくる。その顔がグッと俺の顔に近づく。
「ほほう。よく見ればお主、なかなか良い顔立ちをしておるのう。ふふっ。そのように妾に驚く顔を見たのは久方ぶりじゃ」
そのまま俺の周りをぐるぐると周り、最後にもう一度俺の前に立つ。並んで見ると予想通りというのか、俺の肩ほどまでしか身長がない。見下ろすようなまま、つい思ったことが口をついて出ていた。
「お前、小さいな」
「んなっ!お、お主!今、今なんと申した!妾が、ち、小さいじゃと!」
顔を赤くして何故か胸を隠すような格好で後ずさる少女。
「な、何たる無礼じゃ!女子に対しそのようなことを口走るとは。それに、よりにもよってこの妾相手に・・・!」
「ごめん。君、誰?」
「お、お主・・・!妾をそこまで愚弄するのか!」
「いや、ごめん。俺本当に君のこと知らないんだ」
真っ当な俺の疑問に、少女はしばらく黙ったあと、一度咳払い。
「ほ、本当に、妾のことを知らぬのだな?」
「ああ。会ったこともないし」
「それならば、お主の先ほどの無礼、此度は許してやらんでもない」
彼女が社の上に立つ。風が彼女の着物を揺らす。
「妾は豊川付九尾妖狐御霊(とよかわつきのきゅうびようこのみたま)。この身ある限り稲荷の神へ忠誠を誓った、正式なる神の使者であるぞ!」
彼女は胸に手を当て、そう高らかに宣言した。
「のう、お主・・・。何故じゃ?なぜ妾の言葉を信じてはくれないのじゃ・・・?」
彼女が名を名乗ってからすぐ、俺は彼女に礼をしてその場を去ろうとした。だが、何故か妖狐はそれを不服とし、俺を逃がしてくれなかった。そのまま数分が過ぎようとしていた。
「俺が信じれないのは二つ。お前の身元とお前の力だ」
「何故じゃ!何故妾の身元が信じれぬというのじゃ!」
「じゃあ、なんで豊川の狐が、総本社が近畿にある稲荷神社の、ましてや稲荷神の使者なんてやってる」
「それは、妾の信仰心がそれはもう強くて強くて・・・」
「その話はいいから。そこじゃなくて、なんで豊川から近畿なんだ」
「・・・なんだそんなことか。それは、豊川にも大きな稲荷神社があるからじゃ。この国の中でも特に大きいのがな。信じられぬようなら先まで共にいた女子に聞いてみればよかろう」
そこまで自信を持って言われれば、きっとそうなんだろうと思ってしまう。今だけはそれでもいいような気がするが。
「それじゃあ、お前の力っていうのはどうなんだよ」
「妾にはさして強大な力は無いと言っておるに。確かに、稲荷の神様から貰った伝言を確実に届けるため、それ相応の力は備えておるがのう」
「例えば?」
「それは、目指すところに、場所を問わず一瞬で移動できることかの?先ほどやってみせたろう?」
あの一仭の風は彼女が降り立った時のものだったのか。
「それに、妾は幽霊などというひ弱な存在ではないからのう。そう簡単に術で消えるような身でもない」
「そうか。それなら、これは?」
俺は一応持ってきていた清霊布を見せる。
「ほほう・・・。それは津鳥神社の物か?なるほど。これなら悪霊のほとんどが打ちのめされてしまうであろうな。ここの学校怪談たちもこれは恐ろしいだろうに。ちと、もう少し見せてくれんか?」
そう言って差し出してきた彼女の手に、それを乗せてやった瞬間。バチッっと閃光とともに清霊布が跳ねる。
「あっ。い、痛うないぞ!妾は痛うない!」
少し潤んだ瞳で言われても、対して説得力はない。俺は落ちた清霊布を拾い上げた。
「昔は、こんなことなかったのじゃ。こんなことは・・・。妾の霊力が弱まっていなければ、あんなことだって・・・」
なんだか悔しそうな、それでいて悲しそうな声だった。
「昔は、強・・・、今ほど弱くはなかったのか?」
「当たり前よ!妾も神の使者であるが故に人前によく姿を現すからのう。そんな妾の力を見て、後に語り継ぐものだっていたほどじゃ。それ故、稲荷神社の前には狐が控えておるじゃろ?」
「まあ確かに。稲荷神社といえば狐、だけど。それってお前のことじゃないだろ?」
「例えその姿が妾でなくとも、その大元には妾がいるのじゃ」
「ふーん」
「お主、また信じておらぬな?妾は人を騙す妖怪ではないと言うに・・・」
少し呆れたようにため息をつく妖狐。
「まあ良い。いつか、近いうちに妾がお主を驚かせてやろうぞ!覚悟しておれ!」
「洒落にならんことはするなよ」
「洒落にならんこととは、例えば・・・」
目の前から妖狐の姿が消える。その直後、頬に柔らかい感触。妖狐の顔がすぐ横にあった。
「お主にとっては、こういうことかの?ふふふっ。顔が真っ赤じゃぞ?大丈夫かいなあ。ふふふっ」
少し赤く頬を染め、楽しそうに俺から離れていく彼女。思いっきり彼女にからかわれたと思った。
「さて、そろそろ俺は帰る。寺坂も待ってるし」
「先の女子か?女子を待たせるとはひどいやつじゃ」
「あんたが俺を引き止めたんだろ」
「まあ細かいことは気にするでない」
「細かいこと、なのか?」
それ以上はまともに答える気が彼女になさそうなので、俺はそのままその場を立ち去る。
図書館へと続く扉に手をかけたところで、妖狐に呼び止められる。
「しばらく、妾もこの村に居ようと思う。お主のような面白い輩がいるからのう。またいつでも遊びに来ると良いぞ!」
「お前がいるならもう来ないよ」
「なんじゃと!そのようなこと言う者には、妾が直々について回ってやろう」
「いや、さっきの冗談だから・・・」
「冗談でも、妾に対してそのような口を利いたのだ。その代償だと思え」
「はいはい分かったよ。それじゃあな、妖狐さん」
「妾の名前は豊川付九尾妖狐御霊だと言っておろう!」
俺は叫ぶ彼女の声を流して図書館裏の書庫へと入った。
もちろん、扉が閉じたあとの妖狐の声など、俺には聞こえもしなかった。
「妾が護りきれなかった女子の分、お主こそは護ってみせるぞ・・・」
妖狐の声は風に流され消えていく。
図書館に帰ってみると、いつもの席に寺坂が座っていた。先に帰ってもいいと言ったのに。そう思い近づいてみても、彼女の反応はない。どうやら座っていたら寝てしまったらしい。
本を膝の上に置いたまま、彼女の少し垂れ目な瞳は軽く閉じられ、薄く開いた口からは、すーすーと小さな寝息が聞こえる。
俺は彼女に気づかれぬように正面の席に座り、彼女を観察する。寺坂もそうだが、女子の顔なんてじっくり見たのはこれが初めてだった。
そういえば幸恵の顔も、じっくり見たことはないんだなと今になって気付いた。
幸恵と寺坂はほとんど真逆のタイプだろう。見た目もそうだし、趣味もそうだ。だけど、俺はどちらとも嫌いではない。それに彼女ら二人でだって仲良く話していた。性格の似たものだけが友人になるという訳でもないのだろう。
そんな物思いに更けっていると、船をこいていた彼女の頭が一層大きく揺れ、彼女の目が覚める。眠そうに瞼を擦りつつ顔を上げた寺坂と目が合って。
彼女の顔が目に見えるほどに赤くなった。
「なっ、なっ、何やってるんですか古峰くん!い、いつから?いつからそこにいたんですか!?」
「ついさっき来たところだよ」
「そう、ですか・・・。でも、そんなに見つめないでくださいよ・・・。恥ずかしい、です」
「ごめん。ついボーッとしちゃって」
もじもじと恥ずかしそうにする寺坂に、俺まで気恥ずかしくなって目を逸らす。
「そろそろ、帰らないか?時間もだいぶ遅くなっちまったし」
俺の提案に頷いて立ち上がる彼女。持ってきていた一冊を本棚に片付けてから、二人で図書館を後にした。
俺たちが帰るときもまだ、体育館の方には人が集まっていた。
「それじゃ、また明日ね」
小さく手を振る彼女に俺も振り返して、お互いの家へと帰る。方向が違うのが、一人で帰るのが少しばかり寂しい気がした。
帰り途中、道端に立っている裏宮を見つける。
「どうした、こんなところで」
俺が話しかけると、裏宮は少し笑顔になる。
「昭一を待ってたんだよ。昭一、昨日はすごく落ち込んでたし。今日はいろいろお話したかったんだ。でも家に行ってみたらなぜかいなかったし。いろんな場所探したけど、結局見つからなかったし」
「それで、ここで待ってたのか」
「うん。でも昭一、昨日よりは幾分か元気になったね」
「元気とか、そういう問題じゃないだろ」
俺は裏宮を抜かして歩き出す。俺の後ろについてくる裏宮。いつものように笑っているのかと思えば、なんだか妙に暗い表情だった。
「どうした?お前ぐらい、いつでも脳天気に生きててくれよ。なんだか落ち着かねえよ、お前が黙ったままだと」
俺の言葉に、後ろで小さく笑う声が聞こえた。後ろの裏宮の顔は見ずに、俺は真っ直ぐに歩く。
「ねえ、今日はどこに行ってたの?」
「学校」
「学校?今日休みだよね?・・・もしかして補習とか?」
「俺、補習に引っかかるほど馬鹿じゃないし」
「本当に?実は誰かに答え教えてもらってるとか・・・」
「そんなことしたらとっくにバレてるだろ。というかお前、そんなに俺を頭の悪い人扱いしたいのか?」
「いや、なんとなく。昭一を馬鹿にできるなあって」
「馬鹿にってお前。俺になんか恨みでもあんのか?」
「別にー。私全然、嫉妬とかそんなことしてないからー。その頬にある口添えの後とか全っ然気にしてないからー」
「・・・嫉妬か?嫉妬は怖いなあ」
「だから!嫉妬なんてしてないって言ってるじゃん!しようと思えば私だってできるんだし」
「いや、やらせねえよ」
「何で!?いいじゃん、頬に口づけくらい!」
「逆に今まで、そんな機会が一度も無かったとは言わせねえぞ。何度俺が気絶寸前まで追い込まれたことか・・・」
「そんなこと今まで無かったよね!?一度も無かったよね!」
「いいや、あったぞー。あれはいつだったか・・・」
いつの間にか二人横に並んで歩いていた。裏宮が笑い、怒り、ときに泣き、それでも楽しそうに話す、その横に俺がいられることが今はなんとなく嬉しく、俺の横で元気づけてくれる彼女がいることもまた嬉しく。こんなにも愛おしいと思ったのは初めてだった。
気付けば今までと変わらぬやり取りをして、笑っていた。俺の家までの道がとても短かった。
「それじゃ、今日はここでお別れ」
「そうか。今日は風呂場に押しかけたりしないんだな」
「うん。ちょっとお用事ができちゃって・・・。寂しい?」
「いや、せいせいする」
「そんな、酷いよ!」
瞳を潤ませ見つめる裏宮を撫でてやる。
「冗談だよ。・・・今日はありがとな」
「ふふっ。どういたしまして」
それじゃあ、と彼女は森の方へ姿を消した。俺は例のごとくお祓いしてから家に入った。なんとなくその行為に寂しさを覚えた。
月曜日が再び始まる。
今までと変わらぬ日差しに、これまでと同じ一日が始まればと願ってしまう。
朝食を早々に済ませ、俺と鈴は家を出る。
鈴に元気が戻り、その点では今までのように戻ったのだが。
鈴と話している最中、ふと横目に不自然に揺れる草が。ちらりとそちらを見て、ぎょっとした。そこには金色の長い耳と、ニヤニヤとこちらを見る顔があった。
焦って鈴の様子を見るが、当の鈴は何も気付いていない様子で話を続けていた。おかしい。鈴がこの距離で気付かないなんて。いつもは妖に対して直ぐに恐怖の感情を抱くのに、何故今日は気付いていない。
「鈴、ごめん。俺ちょっと忘れ物しちまった。先行っててくれ」
「え?忘れ物?私もついてってもいいけど・・・」
「いや、大丈夫。お前まで始業時間ギリギリに走り込む必要はないだろ」
「うーん。そこまで言うなら・・・」
なんだか俺の緊張が鈴には焦っているように聞こえたのだろうか。いつもなら渋るところも、今日は見逃してくれて、一人で先に歩いて行ってしまう。俺も一度家に帰るふりをして、鈴が見えなくなってからさっきの場所まで戻ってくる。
「ほほう。朝から妹の付き添いとは・・・。さてはお主、実の妹を・・・」
「何を言いたいのか分かりたくもないが、生憎俺の近くにもそういうこと言うやつがいてな。お前までそいつと同じようなこと言わないでくれ」
「わっはっは。そう怒るでない。妾も、ちとお主をからかっただけじゃ」
妖狐が草むらから出てくる。
「それにしてもお主。よく堂々とこのような場所で妾と話ができるのう。誰も居ないとはいえ、傍から見ればお主は変人扱いじゃぞ?」
「お気遣いどうも。でも生憎、ここらへんじゃ隠れられる場所はないからな」
「それもそうじゃが。まあお主が良いと申すのであれば。ここはゆっくりと、語らいながら学校へ向かおうではないか」
結局今日も、俺は人間ではない何かとこの道を歩くことになった。
「お主、先は何故妾に話しかけたのじゃ?そのまま見過ごせば、妹君は何も気づかずに兄と登校できたものを。彼女、少々寂しそうじゃったぞ?」
「お前にあんなところから怪しく見つめられたら、そりゃ気になって仕方ないさ。何かこれ以上悪さされても困るからな」
「妾はこれまで、悪さなどした覚えはないがのう」
「予防は大事だろ、なんだって」
「その予防は、お主のおらぬ時に、妹君の前に知らぬ妖が現れる危険性と比べても、優先すべき点じゃったということか?」
俺を試すように聞いてくる妖狐に少しイラっとしたが、彼女の言っていることの方が正しかった。今この瞬間にも鈴が怯えているかもしれないのだ。
「まあ、今回ばかりは妾が見ているで、そう心配はいらぬぞ?」
「お前に託して大丈夫なのか・・・」
「だから、そのような要らぬ心配をする前に、やることがあるであろう。妾に、聞きたいことがあるのじゃろ?」
「そうだ。お前、どうしてあんな近くにいて鈴に気付かれなかったんだ?というか、何で鈴はお前に気付けなかったんだ?もしかして、お前が鈴に何か・・・」
「どうしてそうなるのじゃ!何故お主の中で妾はそんなに悪党のような扱いを受けねばならぬ。じゃが今回はまあ仕方ない。確かに、妾も少し手を加えたでな」
「手を加えたって、鈴に何したんだ?」
「おう、怖い怖い。そのような顔をするでない。もう少し落ち着けというに・・・」
そう言って俺の眉間をつついて、妖狐は話しだした。
「妾は別にお主の妹君に直接手を加えたのではない。妾自身が数多の他人から気付かれぬようにと力を行使しているまで。妹君のように霊感の強い人間にも気付かれぬようにしているだけじゃ」
「できるのか?そんなこと」
「全ての妖ができるとは限らん。妾のように幾度も人里を訪れるような妖怪は、その度に人を怯えさせては祟り神と何ら変わらんじゃろ?じゃから、特定の人間にしか見えぬよう姿を隠すことができるのじゃ。それ以外にも力の強い妖怪どもは自らの姿を隠して民家に潜むこともある。座敷わらし、が良い例かの?他にも、お主の周りでも気づかぬところにいるかもしれぬぞ?」
「怖いこと言うなよ。でも、そんなことできんのか・・・。それじゃ今は俺にしか見えないように?」
「・・・いや、正直なところ今は誰にも見えんようにしているはずなのじゃが・・・。何故かお主にだけは妖力が通じぬようじゃな」
「それって、これのせいじゃないのか?」
取り出してみせた清霊布を見て、彼女は首を横に振る。
「そんなもので見えるようになっておったら、妾らは直ぐに見つかってしまう。それに、お主の妹君だって、それを持っているであろう?」
「そうだったな。鈴は持ってるのに、お前が見えていなかったし」
「そうなのじゃ。どうやらお主、もともと妖力の干渉を受けにくい体質だったようじゃな。さて、この話はまた少し後でじゃ。しばしの別れじゃが、寂しくて泣くでないぞ?」
笑いながら目の前から消えた妖狐。見れば学校の校門がすぐ目の前にあった。
俺はなんだか不思議な気分のまま学校に入った。
浩介は先に来ていたらしく、もう席に座っていた。軽く挨拶をして席に着く。それと同時に授業のチャイムが鳴り、一時限目が始まった。
「退屈じゃのう・・・。このような授業のどこが楽しいのじゃ。本来この言葉はこのような意味では・・・」
国語の授業中。俺は後ろから聞こえた声に、思わず声を上げそうになる。そっと振り向くと教室の後ろのロッカー、その上に妖狐が座っていた。俺が振り返ったのに気付くと、彼女はすっと俺の前まで来て、机に顔を乗せる。
「このようなつまらぬ話より、他の話をしないか?」
「俺にとってはこれも大事な授業なんだが・・・」
「先の妾との話よりもか?」
小声で言葉を返した俺の前で、妖狐がニヤニヤとした笑みを浮かべる。俺は授業を諦め、受けているフリをしながら、妖狐に話を振る。
「それで、さっきの続きって言うと?」
「お主の体質についてじゃったな。お主は元々妖力を受け付けぬ体質をしておると」
「それで?俺にはそんな気はしないんだが」
「ほう。では思い返してみるが良い。そうすれば分かるのではないか?お主、一度も呪われたり取り憑かれたことがないじゃろう?」
「まあ、それはそうだな」
「全ての妖、亡霊から呪霊、精霊や妖怪まで。そのほとんどが妖力と呼ばれる物を持っておる。違いはその力の強さぐらいじゃ。それによって呼び名が変わる。つまり、お主の体質から言えば、ほとんどの妖はお主の体への干渉が不可能ということじゃ。ただ、お主の所持品などには干渉できるがのう」
「ん?じゃあ神様はどうなんだ?あれも妖力じゃないのか?」
「ああ、勘違いするでない。神様が行使するは神霊の持つ力であって、妖力とは別じゃ。力の大きさ云々ではなく、その力の源が違うでな」
「力の源?」
「そうじゃ。亡霊や普通の妖怪たちは、自分がその姿に成り代わった際に持ち合わせた力を徐々にすり減らしつつ、その力を行使する。一方、神霊は神様本人が常に持ち合わせた力を行使する。つまり人間で言う寿命が妖力、体力が神霊の力かのう。体力と同じように、少し経てば回復するのじゃ。だからこそ、人間が分霊などという事をしても、その力が衰えることはないのじゃ。同じ『霊』という字を使っていても、そんなの、ただ人間が決めた言葉に過ぎぬ」
「へえ・・・。ん?でもそうなると、幽霊や妖怪たちはいずれ自然消滅するってことにならないか?」
その質問に妖狐の笑みが深くなる。
「お主、いいところに気がついたのう。そうじゃよ。普通の妖たちは何もせねば、ただ自分が生きるだけで、それこそ人間のように死んでしまう。何の力も持たぬ亡霊は、お主らが気付くまもなく消えてしまっているのもそのせいじゃ。だからこそ、奴らは新しい方法で力を蓄え始めた」
「新しい方法?」
「お主も知っておろう?昔はよく、爺婆に聞かせて貰わなかったか?」
「・・・もしかして、昔話?」
「そうじゃ。といっても、童向けに作られた話ではなく、その場所に伝わる大きな話じゃ。例えば、学校怪談のような」
「学校怪談?」
「そうじゃ。あれは典型的なものの一つじゃな。なにせ人は怖がりじゃからのう。怪談のような人の心を恐怖で縛るような話は、まさに鎖のごとく人々の間を結んでいく。そうして作られた長い鎖、それによって繋がれた人間の心が、一つの妖をこの現実に繋ぎ留めてくれる。人間どもの恐怖心が彼らの妖力となるのじゃ」
「つまり、怖がられ、語り継がれただけ、その妖はこの世で生き続けるための力を得られる、と」
「簡単に言えばそういうことじゃな。ついでに言えば、その規模が大きければ大きいほど、その妖自身が行使できる力も大きくなる。学校ではなく、村単位、地方単位、県単位。それほど大きければどれほどの力を行使できることか」
「それじゃ、みんなそれぐらい大きく話を広げればいいじゃないか」
「お主、そんな簡単に事が進むと思うか?例えばお主の家の厠に、学校にいるはずの花子さんが現れるなどと言われて信じるか?」
「いや、それは信じがたいな・・・」
「そうであろう?妖にはそれぞれの場所、寄り代となるべきものがある。それが無い場所では奴らもその力を十分に発揮することはできん。学校妖怪とて、元々はただの亡霊じゃ。この学校で命を落とした人間の魂。ただその心に灯った、怨嗟や願望の炎が、他より少しばかり大きかったに過ぎん。そんな彼らの寄り代は、やはりそれぞれの死に場所ではないのかのう」
『トイレの花子さん』に『屋上の上履き』の少女、それ以外の学校怪談も確かにそうだ。彼らは自分が死した場所からこの学校を見つめている。
「だがの、寄り代だけでは彼らの存在が語り継がれることはない。ある程度の犠牲があってこそ、愚かな人間はその存在を改めて認識するのじゃ。お主は、花子さんとはよく話しておるそうじゃな。ならば一度は感じたであろう?彼女の周りに漂う無数の影、あるいは無数の瞳に見つめられる、とか」
「確かに、見つめられたことはしばしば・・・」
「それらは全て、彼女の食した魂の欠片じゃ。その欠片がお主に触れることは、そちの体質から無理じゃろうが。まあそのように何かしらの犠牲があった上で、彼らはその身をここに、確固たる存在として健在できるのであるよ」
「そうか、あれは・・・」
今まで何も考えてはこなかったが、今の話を聞いてしまうと、なんだか彼女への見方が変わってしまいそうだ。普段はあんなにも優しそうなのに。
「優しいからこそ、彼らも死んだのじゃろう・・・」
妖狐のつぶやいた言葉に問い返すと、じきに分かる、とだけ答えてあとは黙ってしまった。
チャイムが鳴り、一時限目が終わった。
二時限目が始まっても同じように妖狐との会話は続く。
「それで、一つ考えたんだが。お前は妖怪で、なぜか自分は強いと言っている?それを証明しようとまでするくらいに。じゃあその理由はなんだ?自分はもっと多くの人間を脅してきたとでも言いたいのか?そんな気がしてならないんだが・・・」
俺の質問に少し驚いたような表情を見せる妖狐。
「お、落ち着け。そのような疑いの眼差しで妾を見るな!お主が考えているほど妾は下賎な者ではない。妾がそのようなことするはずがなかろう!ちと妾の説明が足りなかったようじゃし、それについて話そうか」
「ふうん。説明不足とは?」
「先までの話は普通の妖、力の弱い亡霊や妖怪までの話じゃ。ここからは少し変わった妖怪らの話をしよう。まずは妾のような、神とこの世の人間を繋ぐための使者、いわゆる神使を務める妖怪についてじゃ」
「そういえばそんなこと言ってたな」
「そういえばとは失礼な!まあ良い。それで、妾のような神使たちは、普段は総本社、つまり自分の使える大元の神がいる場所にいる。そこでは我らは神によってその存在を許され、生かして頂いておる。妾のような狐の他にも、獅子や狛犬、狼や猪など、それぞれの大神様によって異なる神使がおる。稲荷神の神使は狐じゃからな。そしてそこで、我らはお役目が来るのを待っておるのじゃ」
「ってことは、今回お前は何か役目があってここに来たっていうことか?」
「そうじゃが、まあその話はまた後でするとしよう。まずは我らの力の根源についてじゃ。お主が一番疑っているところじゃからのう」
「確かに。その出処が気になるんだが・・・」
「妾のような神使の力の源、そのほとんどは大神様が分け与えてくださったものじゃ。それ故にその力は他の妖怪なんぞとは比べ物にならぬほど強力じゃ。それは時に、人に悪さする悪霊の征伐を任されたりするほどじゃ」
「それじゃあ、基本的に大神様は総本社に留まったまま、お前みたいなのが厄介事を片付けてるのか」
「なんじゃその大神様が暇を持て余しているかのような物言いは。大神様は、それこそこの一国を守っているといっても過言ではないのじゃ。そのような御方が多忙でないわけがなかろう。むしろ我らが飛び回っても時間が足りない程じゃというのに・・・」
「そんな時に、お前はこんなところで油を売っててもいいのか?」
「こ、これは!わ、妾の立派な使命である、布教活動の一環じゃて・・・」
「布教活動?必要あるのか?もう全国にたくさんあるんだろ?」
「それは、そうなのじゃが・・・。最近は信仰してくれる場所が少なくなってのう。大神様もご自身のお力も有りはするが、それの制御、維持のためには多大なる信仰心がひつようでな・・・」
「ふーん。神様も苦労してるんだな」
「この世に生きる限り、誰しもが苦労しているのじゃ・・・」
話を戻そうか。そう彼女が切り替える。
「さて、先のように話した神使もさる事ながら、もう一つ、この世に普通とは違った妖怪がおる。まあ妖怪と言っていいのか分からんが、人ならざるものじゃ。それは姫巫女(ひめみこ)と呼ばれる者たちじゃ。お主も知っておるぞ。あの継子宮神社におる姫巫女には幾度かあったであろう?」
「え?あの継子宮のことか?」
「む。あやつの名はそういうのか?妾には教えてくれんかったのに」
「いや、俺も勝手に読んでるだけだよ」
「なんじゃそうなのか。確かに便宜上そう呼んだほうが良いのかもしれぬ。つまりは、その継子宮のような者たちの総称を、姫巫女と呼ぶのじゃ」
「姫巫女か。じゃあ彼女らはどういう存在なんだ?」
「彼女らはまあ、人に慕われ生きてきた者たちよ。言うなれば九十九神に似た存在じゃ。彼女らの寄り代はそこに建っている神社であろう。彼女らは、その神社自身に蓄えられた人々の心が形となり現れた存在じゃ。故に彼らの意思で人に危害を加えることは滅多にない。ただ人を諭し、人の願いを聞き入れる役割を担っている。まあ彼女らに叶えられる願いなど、高が知れてはいるが」
「そうなのか?」
「そうなのじゃ。彼女らも元々は人間の心。その神社が人々に愛され慕われ、必要とされることによってその存在を得ているのじゃ。信仰が集まれば集まるほど彼女らの力も増えるであろうが、それはやはり、神には遠く及ばぬものよ」
「まあ、神には及ばないか。でも、彼女たちの存在ってなんだか寂しいよな。だって俺たち人間が建てた神社なのに俺たちがその存在を忘れてしまったら、姫巫女は存在できないってことだもんな」
「それは他の妖怪にも言えること。我ら妖はこの世の生き物の心に頼って生きてきたのじゃから」
「そうか。そうだよな」
ひとしきり話し終えたのか、妖狐が立ち上がる。
「さて、お主から何か質問はあるか?無いのであれば妾は一度この場を離れる。ちと用事を思い出したからの」
「特に今はなんとも。しばらくしたらまたなんか気になるかも知らないけど」
「そのときはまた妾に問うて良い。くだらん戯言でもお主の質問なら聞いてやろう。いや、あの寺坂、という女子の質問も答えてやるとするか。あやつ、お主よりも頭が良い上に何かと気の利いたやつじゃから。では、また来るからの。それまでに何か話のネタでも考えておいてくれ」
そう笑うと、妖狐は目の前から姿を消した。
ふうっとため息が漏れる。なんだかいろんな情報が入ってきて、普通に授業を受けるより疲れたかもしれない。少し寺坂と話しておきたい。誰かこのことを共有できる人が欲しかった。
だが今は授業中。そんな相手などいるはずも無い。疲れた頭を休めようと机にうつ伏せになる。窓から吹いてくる風がそっと通り抜けていく。このままでは眠ってしまいそうだ。そう思った矢先。
「ふー」
首筋に息を吹きかけられ飛び起きる。ガタンと机が鳴ってしまい、教師からも寝るなと注意されてしまった。
場の空気が静まってから、俺はそっと後ろを向く。そこにはさっきいなくなったはずの妖狐が笑っていた。
「くふふ。お主、くふっ。そ、そこまで驚かんでも、いいじゃろ。ぷふふっ」
「急に脅かすなよ・・・」
「ぷふっ。す、すまんかった・・・ぷふふふ。つい、やってしもうた。くふふっ」
なんだか物凄く辱められた気分だ。
「ところで、用事はどうしたんだ?もう終わったのか?」
「いいや、まだじゃ。これから行こうと思う。じゃが、その前に一つ言いたいことがあってのう」
笑っていた妖狐の顔が嫌に引きつる。まるで芸で使われる狐の面のような薄ら気味悪い笑い顔。
「先の話。少々言い忘れたことがあってのう。姫巫女の件じゃよ。お主なら勘違いしていそうだから言いに来てやったのじゃ」
「姫巫女のことで、勘違い?」
「姫巫女は、別にお主らに良い働きをするものだけではない、ということを忘れてはならぬぞ?そして、姫巫女の力は神には遠く及ばずとも、寄り代に近ければ、きっと妾のような神使と同等、あるいはそれ以上の力を発揮するぞ?」
「なんで、そんなことを・・・」
前を向いた俺には、今の妖狐の表情は分からない。彼女は俺の問いには答えず、小さく笑いながら言う。
「妾の此度の役目。ここ数日中にこの土地にいきなり溢れかえった亡霊どもの始末と原因の特定。そして、稲荷神が守ると誓ったこの学校の土地、及び生徒の護衛・・・」
風景が止まる。空気が凍てつき、肌を刺すような痛みが走る。光が陰り、教室が暗くなる。後ろから足音が聞こえる。コツン。コツン。俺を焦らすようにゆっくりと、ゆっくりと近付いてくる。その間にも、妖狐からの言葉は続く。
「最近不幸が多いのう。不運と言ってもよいが、なぜであろうのう・・・。この村の全土で、人が怪我をしておる。どれも今まで起きることなどなかった大事故じゃよ。妾も不思議で不思議で仕方ない」
コツン。コツン。その音がすぐ後ろで聞こえる。動こうにも、体が思うように動かない。
「ほんの数日前からなのじゃ。妖怪たちも皆言っておる。なんでかのう、なんでかのう・・・」
コツン。
足音が止まる。
トン、と肩に手が置かれる。
「そんな皆がこぞっていうのじゃ。『あれ』のせいじゃ、『あれ』のせいじゃと・・・」
俺の横に、妖狐の顔が並ぶ。
「そして皆が言うのじゃ、彼なら分かる、彼なら分かる、と・・・」
顔など向けられなかった。目だけで、彼女の方を見る。
まるでそれを見計らったように、前を向いていた目がゆっくりと俺を捉える。
赤い弧が更に釣り上がり、開く。
「お主、何か知っておろう・・・?」
恐怖に見開いた瞳の前で、妖狐は嫌に耳につく大きな笑い声とともに姿を消した。それと同時に周りが元に戻る。
「それでは、今日の授業はここまで」
そんなのんきな教師の声が聞こえた。
昼休みになっても、さっきの妖狐の声が耳から離れない。今はなんとなく、誰とも話したくは無かった。
教室で話すクラスメイトたちの声が聞こえる。その中で、どこからか幸恵の名前が出てきた気がして、少し聞き耳を立てる。
「幸恵、入院だって」
「嘘!それってどのくらいなの?」
「聞いた話じゃ、短くても一ヶ月以上はかかるって。左足、折れたらしいよ」
「うわ、痛っ。そんな大事故だったの?」
「土曜日いなかったんだっけ?すごかったよ、体育館の天井が落っこっちゃってて」
「そうそう。大量の出血で、救助時にまだ意識があるのも奇跡だったらしいし」
「うわさじゃ、今体育館入れないのは、その血の跡が床に残っちゃってるとか・・・」
なんとなく予想はしていたけど、好き好んで聞きたいような話でも無かった。確かに、幸恵は助かっている。でもそんなこと不幸中の幸いでしかない。事故にあったこと自体不幸なのだから、心から喜んでいいのか俺には分からなかった。
よくよく聞いてみると、クラスの大部分がその会話だった。俺は聞いていられず教室から逃げた。
逃げて行くあてもなく、ただなんとなく足を動かして、気付けば図書館の前にいた。そういえば、この一週間、昼休みは今まで以上にここに足を運んでいた気がする。浩介と幸恵と俺、それに寺坂。四人揃ってよく話した場所。
ゆっくりと、その重たい扉を開ける。並べられた長机の奥に、いつも通り寺坂がいた。それに少し安心した。
「よっ、寺坂」
声をかけると、こちらを向いて小さく礼をしてくる。珍しくその手に本はない。
「珍しいな、本読んで無いなんて。今日はどうしたんだ?」
「いえ、先程まで、浩介さんの、お勉強を、見ていたのですが・・・」
確かに、寺坂の前には浩介が使っていたノートが置いてある。覗いてみると、今日の分も少し書かれていた。だが、最後の文字が書きかけで止まっていた。
「急に咳き込み出して。すごく苦しそうだったので、保健室に行くよう勧めたんです。浩介さん、分かったって返事をして。付き添おうとしたんですが、一人でも大丈夫だって言って・・・」
そこからは聞こえなかった。唇を噛んだまま俯いた寺坂の頬に光る雫。
俺は何も言えず、そっと背中を撫でることしかできなかった。
寺坂が落ち着いたところで、俺は先に図書館を後にした。浩介の容態を見るため、保健室へと向かった。保健室の扉を開けると、そこには誰もいなかった。ただ、奥のカーテンが一つ閉まっていて、中からくぐもった咳が聞こえる。
「浩介、大丈夫か・・・?」
俺がそっとカーテンの間から覗くと。
「おや、お主・・・。この者の知り合いか?」
「お前、何で・・・、ここにいるんだよ!」
俺は気付けば叫んでいた。手を振り上げ、彼女をベッドから叩き落とそうとする。その手を避けるように彼女はその場から消え、ベッドの横に姿を現す。
「お前だったのか?お前が、浩介に取り憑いていたのか!」
「何を言っておる。妾はただこやつの・・・」
「言い訳は聞きたくない!やっぱりお前、何かしていたじゃないか!なんでこんなことすんだよ!浩介が何したっていうんだよ!お前はなんで・・・」
「・・・ええいうるさい黙れこの愚鈍!ただの人間が何を偉そうに!貴様如きの間抜けに何が分かったというのだ!表面しか知らぬくせに全てを知ったような口をききおって!人の話も聞けぬ人間など喧しいことこの上ない!そのような下衆な輩がこの世を支配していると思うとあぁ虫ずが走る!腹立たしい!腹立たしい!非常に腹立たしい!不愉快極まりない!!」
妖狐の怒号に気圧され、俺の口が止まる。と同時に、息がいきなり詰まる。何も触れていないのに誰かに首を絞められているかのような感覚。肺に空気が届かず、喉からヒューヒューと小さな音が鳴るばかり。意識が遠のきかけたその瞬間、首を絞めていた力が緩み、俺は地面に崩れ落ちる。
「少しは立場を弁えろ。お主など、妾にとっては遊び道具と成り得る程の弱き者よ」
そう言いながら妖狐が近付いてくる。動こうにも力が入らない。
「話を聞くことは大切なことじゃ。そして、その話を信じることも。誰を信じ、誰を疑うか。それを見誤ればお主の命はない」
妖狐は俺に耳打ちするようにそう言うと、俺から身を離す。
「妾は、こやつに取り憑いた怨霊を取り除いていただけじゃ。生憎、予想以上に深くまで浸透していたせいで、引き剥がすのに少々手間取ってしまったが。じゃが、お主の邪魔より先に終わったのがせめてもの救いかのう」
そう言って笑う妖狐は、浩介の顔を指差す。見れば幾分か楽になったような、少し安心した表情のまま眠っていた。
「取り憑かれていた霊を取り除きはしたが、それでもまだ体調が戻るまでには時間はかかるじゃろうな」
そう言って少女はカーテンの中から出ていく。
「おい。お前、これから何しに行くんだ?」
俺の問いに、妖狐はあくまで笑顔で告げる。
「言ったであろう?妾はこの稲荷神が守るべき土地と人民を、その力を持って救いに来たと。妾はそのお役目を果たすまでじゃ」
直後には、もう妖狐の姿は無かった。彼女に対して、少しだけ罪悪感が残った。
感謝の言葉も忘れていた。そう、浩介の寝顔を見て思った。
教室に帰って午後の授業が始まる。だが、授業の内容などまるで頭に入ってこなかった。
浩介の件から、きっと妖狐は正しいことを言っていると思えた。ならばこそ、彼女が二時限目の最後に言い残した言葉。あれの意味を理解しなければならないと思った。
彼女は確かに、俺なら知っていると言ったのだ。それに彼女の話だと、他の妖も同じことを行ったのだろう。
じゃあ何を知っているというのか。
数日前から変わったことといえば、寺坂に会いにいく頻度が増えた。だが寺坂はそもそも妖の存在は見えていないし気付いてもいない。嘘をついているようにも見えないし、第一妖狐自身も彼女のことは評価していた。彼女はそういう存在ではないだろう。
それ以外には、花子さんも言っていたが、幽霊の数が増えたらしい。特に山の方から。ということは、深嶽山に何かあったのだろうか?思い当たることは何も無いのだが。
それ以外にも、誰かに付いてくるように、とも言っていた気がするが、その誰かがそもそも分からない。それに妖狐の話では、俺は『あれ』を知っているらしい。
『あれ』とはなんだ?
それが分からなければ話が先に進まない。だからと言って何も考えない訳にもいかない。思考だけが頭の中でぐるぐると廻り出す。
結局授業が終わるまで考えても、まともな答えは出てこなかった。
放課後になり、それでも俺は悩んでいた。そんなところへ、一人のクラスメイトが話しかけてくる。あまり離さないせいで名前が思い出せない。
「なあ。明日みんなで幸恵さんのお見舞いに行くことにしたんだ。先生も今回ばかりは大目に見てくれるらしい。で、話し合ったんだけど、時間は明日の昼頃。他のみんなもその時間ならいいって言ってくれてな。浩介も一緒に来れれば良かったんだけど、あいつも調子悪いみたいだし・・・。お前は、予定とかないよな?」
「ああ。明日の昼頃か。分かった」
「あ。そうは言っても、ここ出るのは午前中だわ。場所は朝日町の病院らしいから結構遠いし、担任がバス借りて来てくれるってさ」
「そうか。それじゃあ、明日はいつも通りの時間に学校着てれば大丈夫だな?」
「そういうことだな。それじゃ、また明日!」
そう言って教室から出ていく。俺はその後ろ姿を見送って、そのまま机に突っ伏した。
「おやおや。随分と難しい顔をして。そんな顔、お主には似合わぬぞ?」
声のした方を向くと、開いた窓に妖狐が座っていた。
「どうしたのじゃ?何か気に病むことでも?」
「お前に言われたことが、全く分かんなくて・・・」
「ほほう。お主、ただの馬鹿かと思っていたが、少しは機転の利く馬鹿のようじゃな。その機転をもう少し別のところで発揮すればいいものを・・・」
「どっちにしたって馬鹿なのに変わりはないのか・・・」
「まあ良い。それで?何についてそんなに悩んでおるのじゃ?」
「何って、お前の言ったあの言葉だよ」
「あの言葉?はて、何のことか・・・」
「俺なら知っているって言った『あれ』についてだよ。『あれ』って何なのか教えてくれないか?それが分かれば話は進むんだが・・・」
「ああ『あれ』か・・・。正直なところ、妾にも分からん。むしろお主のその答えを待っているのじゃよ」
「分かんない?なんでまた」
「今回の一連の流れは、どうやら『あれ』というものが絡んでいるらしいんじゃが、どうにもその『あれ』について、この地方の妖怪どもは口にしたくないようで。トイレの花子さんにも何度か頼み込んだが、やはり駄目でのう。お狐様と呼び慕う仲でも話せぬと言うくらいじゃから、本当に何か隠すべきことがあるのじゃろうな」
「ん?お狐様?」
どこかで聞いたことのある響きに少し考えて思い出した。確か花子さんが言っていた。お狐様に頼めば浩介に取り憑いた幽霊のことも分かると。
「なんじゃ。どうして急にそんなしょぼくれた顔をしとる」
「いや、ちょっと。なんかもうよくわからなくて・・・」
「まあお主のことはどうでも良い」
「どうでもいいとは酷い言いようだな!」
「ああはいはい悪かった悪かった。それで、お主は『あれ』以外にはどこまで考えたのじゃ?」
「考えたって言っても、まだまとまってないし」
「いいから口に出さんか。言えば頭も冴えるし、考えもまとまりやすくなるじゃろ」
そう言われて、俺は先まで考えていたことを言葉にする。
今回の幽霊たちは深嶽山の方から来ている。幽霊たちは何故かこの村に降りてきている。最近暑い。幽霊の数はここ数日内でいきなり増えた。最近雨が降らない。幽霊は誰かについて来ているかもしれない。悪霊の数も多い。俺の食欲がない。妖怪によく会う。幽霊がこの村で悪さをしている。のどが渇く。村人に被害が出ている。寺坂によく会うようになったのも最近から。ただ、寺坂は関係なさそう。深嶽山自体に何か変化があった覚えはない。
順番も内容も滅茶苦茶だったが、それでも少しはスッキリした。
俺の言葉を聞いてしばらく考え込んでいた妖狐が言う。
「妾の目測も含めて言わせてもらうが。つまり、深嶽山の方から、何か得体の知れない『あれ』がここ数日内に村に降りてきた。それを追うようにして他の幽霊、特に悪霊たちが村に入ってきた。この間に他の妖怪からの抑制はない。そして村に降りてきた悪霊たちが今騒ぎを起こしている。そんなところかの?寺坂は無実じゃろう。彼女が何か事を起こした形跡はない。・・・後、時折お主の気持ちを入れるでない!紛らわしいじゃろ!」
「悪い。考えてたことを全部言ったら、つい・・・」
「まあ良い。それで、何か思い当たる節は無いのか?」
「うーん。今のだけじゃ特には・・・」
「なんじゃろうな。今の憶測が違ったのかのう?例えば、お主が知っているといっても、それは最近ではなく、以前会った者だったり、あるいは、最近になって再び交流をしたとか・・・」
え?今なんて?
「他には・・・。もしかしたら『あれ』とは、生き物ではないとか?例えば神器とか、政に使われていた道具などかの?はたまた、それこそ幽霊の大将や妖怪。あるいはそれ以外の妖とか・・・」
待て。待ってくれ。
「ん?どうしたお主。顔色が悪いぞ?具合でも悪うなったか?・・・それとも、もしや心当たりが・・・?」
いや、心当たりなんて、何も・・・。
「お主、妾は言うたはずじゃぞ?信ずる者と疑う者を見誤るなと。お主は自分でも気付かぬうちに、過度に信ずるあまり、誰かを候補から外していたりするのではないか?」
そんなことは・・・。
「真にお主の記憶を辿るのじゃ。何かに惑わされず。お主なら覚えておるのじゃろう?『あれ』とは、一体なんなのじゃ?」
嘘だ。あれは絶対『あれ』なんかでは無いはずなんだ。
脳裏に可愛らしい笑顔が浮かぶ。
数日前に、初めて深嶽山の麓に下りてきたと喜んでいたその姿。
鈴のことにも気を使ってくれて、俺があの事故を嘆いていたら元気づけに来てくれた優しい声。
俺の見える幽霊の数を、里にいるその数を気にしていて、もっと友達が増えれば、なんて話していた森の祠に座る少女。
今まで気付かぬフリをして誤魔化してきたのに。彼女かも知れないという可能性を全て忘れてきたのに。
今の妖狐の言葉に俺は崩れた。
「裏宮、なのか・・・?」
俺の口から小さな声が漏れていた。
妖狐は更に聞こうとしてきたが、俺はそれを振り切った。明日は幸恵の見舞いに行くのだ。それなのに、これ以上暗い気持ちで彼女と顔を合わせたくは無かった。幸恵にも元気でいてほしいなら、俺も元気な顔で会うべきだと思ったから。
妖狐の方もそこまで追求はしてこなかった。ただ俺に、少し時間をやるとだけ言って姿を消した。
帰宅すると直ぐに、俺は夕食を摂った。今日もあまり箸は進まなかった。夕食後は直ぐに布団に横になったがなかなか寝ることはできず、何度も寝返りを打つ。寝苦しい夜を過ごすことになった。
久しぶりに鈴に起こされ、俺は目を開ける。いつ寝たのかは思い出せないが、気付いたら眠っていたようだ。朝食を済ませ、俺たちは学校へ向かう。
「お兄ちゃんのクラスの人、事故にあったんだって?」
登校中に鈴が聞いてくる。
「ああ、そうだな。実は今日、クラスみんなでそいつのお見舞いに行くことになってるんだ」
「お見舞いか。すごい事故だったらしいね。友達から聞いたよ」
「確かにすごかったな、あれは」
なんだか空返事しかできない。俺はまだ、全てが夢なんじゃないかと思ってしまう時もある。
「私からも、お大事にって伝えておいて。怪我、早く治るといいね、その人・・・」
「分かった、伝えておく」
学校の前には、小型のバスが止まっていた。中にはもう数人のクラスメイトが座っている。
「それじゃ、また放課後」
「うん。またね」
鈴と校門で別れ、俺はバスに乗り込む。数分待っているうちに残りの席も埋まり、クラスの、浩介と幸恵を抜いた全員が揃った。
バスが低い唸り声をあげて走り出す。道路の砂利に、しばらく車体が揺れる。バスの中の空気は重かった。
しばらく乗り続けたバスから降りると、そこには普段では目にできないような風景が広がっていた。都会と言って良いものか分からないが、俺たちの村に比べるとまるで別の国のようだ。
目の前には大きな白い建物が建っている。朝日病院と彫られた大きな看板が入口の横に掛けられていた。俺たちはみんな揃って病院の大きなドアを抜けた。
院内は病院独特の匂いがした。受付には他の患者たちが見える。担任が受付をし、俺たちは幸恵の個室へと案内された。
「幸恵さん?お客様ですよ?」
看護婦さんの声で振り向いた幸恵が驚く。それはそうだろう。本人には連絡も無しにクラス全員で訪ねてきたのだから。
「み、みんな!どうして急に。今日、学校は?」
「学校なんて今は休んだっていいだろ」
誰かの言葉にみんな笑う。幸恵もつられて笑う。
「それよりほら!こんなの持ってきたよー。どう?」
女子たちは持参した花を見せる。なんだか狭い病室が途端に賑わい始めた。皆が何か一言ずつ幸恵に言っていく。誰も怪我のことには触れたりしなかったが。
俺はずっと入口の前にいた。学校では俺や浩介とばかり話している印象もあったが、気付かないところで幸恵はクラスの皆から好かれていたのかもしれない。俺はこの風景を見ながら、少し嬉しかった。
気付けば遠にお昼は過ぎていた。
「おい、昭一。ほらっ」
急に誰かに勧められて、言われるままに幸恵の前に出る。幸恵は皆に向けるのと変わらぬ笑顔を向けてきた。
「昭一。調子はどう?って言っても、まだ三日も経ってないけどね」
「そうだな。相変わらずいつも通りの日常かな」
「そっか。まあ私がいなくても頑張るんだぞ!」
「お前からの変な要求とかがなくて楽をしてるし。全然問題ないぞ、気にするな」
「何それ、ちょっと酷くない?」
俺たちは二人笑う。
しばらくの沈黙。
それを終わりだと判断したのか、担任が言う。
「さて、今日はこのくらいにしよう。鳥谷さんも急に押し掛けられて、少し疲れただろう」
「いえ、私はみんなが来てくれて凄く嬉しかったですし、楽しかったですから。みんなも、またいつでも遊びに来て?」
幸恵が皆に笑いかける。
それぞれがそれぞれに別れを言って部屋を出ていく。俺も皆のあとに続こうと幸恵に背を向けたところで、腕がギュッと掴まれる。幸恵の手が俺の腕を掴んでいた。
立ち止まった俺に不思議そうな教師。角度的に俺の掴まれた腕は見えないのだろう。
「昭一、どうした?」
「あ、いえ、別に。すぐ行くんで、先にバス行っててもらっていいですか?」
教師の声に、俺は一瞬考えてからそう答える。教師は渋々といった感じで先に病室から出て行った。さっきまで賑やかだった白い部屋は、二人だけだとどうも空虚に思えた。
「ねえ、昭一・・・」
幸恵が話しかけてくる。だがその声はさっきまで笑っていた人とは思えないほど小さく、震えていた。
「ごめんね、昭一・・・。私、約束、守れない・・・。すぐには、帰れない・・・」
声の震えが徐々に増す。目には涙が溜まっていた。
「足、ね。このままじゃ、元に戻るかも、分かんないって・・・。だから、今まで、みたいに・・・」
その先の言葉は続かず、ギュッと何かを堪えるように唇を噛む。必死に耐える幸恵を見ていられなくて、俺はその体ごと抱き寄せる。
「ごめんね、昭一。ごめん・・・」
瞑った目から大粒の涙がこぼれ落ち、服を濡らす。俺はそっとその背中を撫でてやる。
「お前は悪くない。何も、悪くないから・・・。だから、謝んなくてもいいんだ。泣くのだって、堪えなくていいんだよ・・・」
「ううっ。ごめん、昭一ぃ・・・」
胸の中で声を殺して泣く幸恵が、とても儚い物に感じた。
俺はただ、強く抱いていることしかできない。流れ出た涙の冷たさを温めることなど、できはしなかった。
「ごめん、昭一。ありがとう・・・」
少し気が晴れたのか、彼女が顔を上げる。そこにはあの笑顔が戻っていた。
「ありがとね、昭一。少し、元気出た・・・」
「そっか。それなら良かった」
「みんなが今日来てくれたの、すごく嬉しかった。こんな遠くまで、みんな揃って来てくれて。それにあんなに気使ってくれて。今日はすごく元気づけてもらっちゃった。いつか、みんなにお返ししたいな・・・」
「お返しなんて、もうみんな貰ってるよ。お前の元気そうな姿見られただけで、みんなお前から元気をもらってる。来る途中のバスの中からは考えられないくらい、みんな、幸と会って喜んでたよ・・・」
「そ、そっか・・・」
少しの沈黙。幸恵が話し出す。
「そういえば、私、このままじゃ試験間に合いそうにないね。せっかく寺坂さんに教えてもらったのに、悪いことしちゃったな・・・。それに、これじゃ昭一との約束も無くなっちゃったし」
「約束って、あの赤点回避したら、ってやつか?」
「そう、それ。赤点回避したらもなにも、もう試験自体受けられないし・・・」
「お前、そんなに俺に何か買わせたいのか?」
「え?いやいや、そういうわけじゃないんだけどね?ただ・・・」
「ただ?」
「・・・いや、やっぱり何でもない!」
「なんだよ、気になるじゃんか」
「いいから、何でもないの!」
俺とは反対の方を向いてしまう。怒ったのだろうか。
「・・・そうだ。それならお前の退院祝いにしよう!お前が退院できたら、その時に何かお祝いとして買ってやるよ」
「退院祝い、か・・・」
「そう。それでどうだ?」
俺の言葉に、幸恵が俯く。
「・・・だったら、退院祝いじゃなくて。私が、また前みたいに、走ったり、できるようになるまで・・・。その時まで、お祝いは待ってくれないかな?」
「え、それって・・・」
「もしかしたら、もう前みたいには走れないのかも知れない。そうやって誰かに言われても、それでも私は頑張るから!頑張って頑張って頑張って、前みたいになって、昭一や浩介や寺坂さんの前に帰るから!だからその時に・・・。お祝いは、その時に欲しいな・・・」
「幸・・・。そんなに、何が欲しいんだ・・・?」
「私は・・・。私は・・・!」
俯いていた顔が上がる。その潤んだ瞳が真っ直ぐに俺を捉える。
「私は、昭一が欲しい!昭一の傍に、ずっと傍に居たいの!」
時間が止まった。
これは、告白なのだろうか。こんなに真剣な眼差しに見つめられたことなんて一度も無くて、俺にはどうすれば良いか分からなくて、ただ呆然と彼女の顔を見つめていた。
「わ、私!な、何大声で言っちゃってんだろ。は、恥ずかし・・・!」
幸恵が赤くなった頬を押さえながら乗り出したその身を戻す。
俺も幸恵も、何も言えないまま、時間だけが流れていく。
「あ、あのさ。それで・・・、返事、貰ってないんだけど・・・」
横目でちらちらと俺の方を見てくる彼女に俺はなんと答えていいのか分からなかった。
今まで、幸恵のことは仲のいい友達として見てきたし、確かに他の女子に比べたら、俺の中でも彼女は好きな方だろう。
でも、それは全て恋愛なのか?
今まで恋愛経験のない俺には測りかねる大きな問題だった。
だから俺は。
「なら、それまでに幸恵が俺の一番になってくれよ。そうしたら、俺はお前との約束を守ってやる。お前の欲しいものを、やるよ・・・」
「・・・本当に?」
「ああ、本当だ。今回は嘘なんか、言わないよ」
「そっか・・・」
そんな俺の曖昧な言葉でも、彼女の顔には少し笑顔が戻っていた。それに、彼女の目に宿っていた、決意の炎も。
今の幸恵を見て、俺はなんとなく思った。今の約束は俺自身も破らないだろうと。
好きとか恋とか、俺には全然分からないけど、それでも、幸恵以外に俺の一番になる人が想像できなかったから。
「さて、それじゃそろそろ行くよ」
俺は幸恵の横から立ち上がる。
「待って、昭一!」
俺の服を掴んだ幸恵は、最後に、と俺の腰へ抱きつく。
「昭一、ありがとう。私、頑張るからね」
「ああ。頑張れよ。待ってるから」
「うん・・・」
幸恵の体が離れていく。
「じゃあね、昭一!」
「じゃあな、幸」
俺たちは手を振って別れた。
幸恵の病室を後に、病院の出口へ向かおうとして、俺は目の前にある姿にため息を漏らす。狐のようなしっぽに耳。その薄ら気味悪いニヤニヤした笑みは見間違えるはずもない。
「なんでこんな場所にいるんだ、妖狐」
「別に妾がどこに居ようと、妾の勝手じゃないか。別にお主をつけ回しておるわけではない。この病院はあの高根村の病院では治療できぬ者たちも入っていると聞いたでのう。ちと様子を見に来ただけじゃ」
そう言うと、彼女は椅子から立ち上がる。
「幸恵と言ったか。あやつにも一人、霊が貼り付いておったでのう。食させてもろうたわ」
ペロリと小さな舌が唇を舐める。
「なんで、幸恵に霊なんて・・・」
「体育館の事故。あれも悪霊の仕業だったでのう。調べてみたら先に食した人数じゃ一人足りなかったのじゃ。ま、彼女のように事故後から憑かれるというのもままあることじゃ。とりあえず、この病院に関しては全て確認を終えた。妾も帰るとしよう」
「そうか。一応、ありがとな」
「一応、は余計じゃ。まあ此度は、お主が正直に感謝の意を言葉として言えたことに免じて、許してやろう」
そう言うと笑いながら姿を消した。自然とため息が漏れる。その直後。
「それにしても、お主、まだまだ青いのう。ふふふっ」
後ろから耳元に囁かれて、俺はすぐ振り返るが、もう彼女の姿は見当たらない。なんだか再び熱くなった頬を隠すように俯きながら、俺は足早に病院を出た。
遅れてきた俺が乗り込むと、バスは再び高根村へ向けて走り出す。帰りのバス内は来る時よりも幾分か空気が軽くなっていた。
学校に到着し、俺たちはバスから降りる。もう日も傾き始めているため、俺たちは直ぐに解散となった。それぞれに手を振り合って個々の家へと足を向ける。俺も帰ろうと歩き出したところで、クラスメイトの女子数人に呼び止められる。
「ねえ、昭一君。例の話知ってる?」
「例の話?」
「そうそう。あの図書館の女の子の話。いつも授業にも出ずに本ばっかり読んでる子」
それは寺坂のことだろうか。ただ、一応知らない体で話を進める。
「その子が、どうかしたのか?」
「知らないの?昭一くんも時々話してる子の事なんだけど・・・」
何故か彼女らの声量が小さくなるにつれ、嫌な予感が大きくなる。
「昭一君も気を付けてね?なんでも、浩介くんも幸恵ちゃんも、彼女と関わったから不幸な目にあったとか・・・」
「そんなの、たまたまじゃないのか?」
「だって、図書館にいるとき、彼女いつも妖怪とか幽霊とか、そういう本ばかり読んでいるらしいし・・・」
「それで、彼女が、どうしたんだ?」
俺の言葉に一瞬迷うような素振りを見せてから、その中の一人が教えてくれた。
「もしかしたら、彼女は『狐持ち』かも知れないって話があるの。昭一君も気をつけてね・・・」
彼女らはそれだけ言うと俺の前から去っていった。
家に帰るまで、俺の頭の中はさっきの話が渦巻いていた。心では違うと分かっているのに、何故だか彼女らの話に納得しそうな自分がいる。
モヤモヤとした気持ちのまま家に着く。帰り途中は誰かに話しかけられることは無かった。
「お兄ちゃん。お友達の様子はどうだった?」
鈴の声に、俺は彼女に心配をかけぬように答える。幸恵の体調は良さそうだったから、あながち間違いではないが。
風呂に入っている時も、夕食の席についている時も、心の中は嫌な気分のままだった。それは寺坂に対する噂だけではなくて、鈴や幸恵、浩介も含めた、俺の周りの人達を思っての疑問だった。
どうして、俺の周りに不幸が訪れているんだ。彼らは罪として裁かれるような事をしたのか?何故、彼らはあんなにも苦しまなければいけないのか。
やはり裏宮のせいなのか?彼女が現れたせいで、こんなにも不幸が立て続けに起きているのか?
彼女の笑顔が浮かぶ。彼女の声が、仕草が、表情が浮かぶ。そのどれにも人を陥れようと言う心は見えなかった。だから俺は信じてきたのに。
彼女さえも、疑わなければならないのか。
今日もちゃんと眠れる気がしなかった。
翌朝、寝ぼけた頭を無理矢理に起こして学校へと向かった。
いつも通り自分の席に着く。自分の周りが少し広く感じた。特にすることもないので、そのまま授業の準備をする。俺の耳にクラスメイトの話し声が聞こえる。いつの間にか教室に居るほとんどの人が同じことについて話していた。図書館の少女は『狐持ち』なのではないかと。
時間になり教師が入ってくる。皆が席に着き授業が始まる。それでも幾人かは、同じ話をまだ続けていた。ちらちらと俺への視線を感じるのは気のせいじゃない。俺もその噂話の一端にいるのだろう。
なんとも居心地が悪いまま昼休みになった。俺は早々に教室から外へ出る。遠くの教室で何やら人だかりができているが特に気にはしなかった。
俺は図書館へと向かった。噂の張本人である彼女に会いたい。
重たい扉を開けて中に入る。そこに人はいなく、ただ静まり返った広い空間だけがあった。
俺はいつも通り長机の一番奥を覗く。しかし、珍しいことに少女の姿はない。どこか別の場所に行ったのかと思ったが、何か嫌な予感がして、俺は寺坂が普段座っている場所まで近づく。
「これ、は・・・」
目をそらしたい光景だった。何やら訳の分からない文字の羅列と、その上から貼られた、まるで除霊の札でも真似たかのような紋の書かれた紙。彼女のいつも座っていたところだけが、それらで埋め尽くされていた。
「酷い・・・」
「なんともまあ、浅はかなことじゃ。いつになっても人間はこんなことしかできないのか?」
俺の後ろから妖狐の声がする。毎度タイミングよく現れる彼女を怨めしく思った。これだけのものを見て、なんで呑気でいられるのかと。
「のう、お主はそうは思わんか?」
「お前達から見りゃ人間なんて、いつもこんなことしてる奴らなんだろ?」
嫌味のつもりだったが、妖狐は小さく笑って答える。
「まあ、それは一理あるのう」
「じゃあなんでわざわざそんなこと聞くんだ?」
「お主がどう思ってるか聞きたくてのう」
「何のことだよ」
「今この学校で噂されている『狐持ち』についてじゃよ。それと、今目の前にある現実について・・・。お主はあのようなデタラメな話、信じてはおらぬであろうな?」
一瞬ドキッとした。俺もクラスメイトの話を信じ始めていたのかもしれない。それよりも、目の前でこんなことがされていたら、もしかしたらそちらのほうが正しいのかもと思いたくなってしまう。
「妾から言わせれば、あんなのただの戯言。笑い話の一つかと思う程度じゃ。じゃが、何故じゃろうかのう?お主ら人間は、何故そのような嘘を易易と信じてしまうのか」
「お前には、分かんないのか?」
「推測じゃが、きっと理由なんて無いんじゃろうかと妾は思う」
「理由はない?」
「ああそうじゃ。目の前で事故が起きた。その理由はなんであれ、実際にそれが起きてしまった。ただその事実を、奴らは目に見える範囲の中から探し出して当てはめているだけに過ぎぬ」
「だけど、それじゃあなんで、今回は『狐持ち』なんていうものが出てきるんだ?それこそ、目に見えないものじゃないか」
「確かに、狐持ちの人間はオサキ・・・、この地方では管狐の方が分かりやすいかのう?それや人狐などを使って人に不幸をもたらすと忌み嫌われていたようじゃな。つまり、忌み嫌われるべき理由付けのためだけに此度は使われたのじゃろうな。風習として、皆肌身で感じてきたのであろう?そのような差別を」
だからそれは、人間の目に見えるものの範囲に含まれる。
「だけどそんなこと言ったって、俺みたいに何か見える人間でもない限り、それを完全に嘘だと言い切れない。結局、彼らの方がこの世界では正しいことになっちまう」
「・・・お主は、それで良いのか?狐持ちでもない人間が、そのように虐げられるのじゃぞ?」
「そんな嫌だよ!こんなの間違ってる!そんなこと分かってるよ!」
俺は目の前に乱雑に貼られた紙切れを剥がしにかかる。予想以上に強く付けられていて剥がせない。指が痛い。
「俺だって嫌だ!だけど・・・、だけど俺にも確証が無いんだ。寺坂が本当に狐持ちではないと、そう断言できる理由が」
「ならば、妾がその証拠となろう。あの寺坂という女子は、確かに他の者より妖に興味を持ち、その存在を信じている。じゃが、決して狐持ちではない!それはこの妾が、豊川付九尾妖狐御霊がこの身を持って保証しようぞ!」
バンッと机を叩く。妖狐の真剣な顔が俺を見つめる。
「だから、そんなところで、惨めに人の後始末などしておるな・・・。お主がすべきことが他にもあるじゃろうが・・・!」
その言葉の意味がつかめず、俺は妖狐の方を向く。普段の彼女のような、人を小馬鹿にする雰囲気はどこにもない。ただ真剣に、俺に言葉を向けていた。
「お前、なんでそんなに真剣なんだよ。いつもみたいに笑ってりゃいいものを。お前にはさほど影響ないだろうに」
俺の質問に、なんだか少し戸惑う妖狐。
「そ、それは・・・。ただ、妾を慕うてくれた人間を蔑ろにはできぬであろう」
そう言って寂しそうに笑った。
「あやつはただの人間じゃ。じゃから、人間であるお主が助けてやってくれ。あやつが間違った選択をする前に、お主が彼女の支えになってやってはくれぬか?」
「寺坂の、支えに・・・?」
「あやつの心は正直で優しい。だが、優しいが故にその身を削る選択をしかねぬ。じゃから、頼む・・・」
その目は何かの無念と後悔の入り混じったような色をしていた。
直後、彼女の語ってくれた話が蘇る。
『優しいからこそ、彼らも死んだのじゃろう・・・』
それは確か、学校妖怪の話をしている時。寄り代について話終えたとき。
嫌な予感が俺の体を縛る。もしあれが、妖狐の想像ではなく、体験談だとしたら。今の妖狐の言葉が、昔の自分を悔いての言葉だったら。
俺は駆け出していた。図書館を出て、廊下を走り、寺坂がいそうな場所を手当たり次第に探す。図書棟の部屋にはどこにもいなかった。
一般棟も同じように探す。他学年の教室にはいないだろうから、俺たちの学年の階から。そう思ったところで不意に思い出す。俺たちの近くの教室に人だかりができていたことを。
教室まで戻ってくると、少し人は減ったものの、人だかりはまだあった。俺はその間に体を押し込み、その先を見やる。そこには図書館の机と全く同じような姿の椅子と机が置かれていた。人だかりの中心が寺坂ではなかった安心感と焦りが、俺の中を渦巻く。
俺は走る。
一般棟も探し終え、実験棟に入る。全ての教室に目を通すが、そこに誰かいる気配もない。そのまま駆け上がること屋上まで。大きな音を立てて飛び出した俺の先には、誰もいない。俺は屋上の端まで言ってその先、下を見る。昼休みの賑やかな喧騒は何も変わらずそこにあった。そのことに安心した。
「誰も来てないわよ、ここには」
後ろからの声に振り向くと、そこにはツインテールの少女。靴下のまま、上履きを手に持って屋上の入口の上に座っていた。
「『屋上の上履き』・・・」
「あのさ、怪談名そのまま名前みたいに呼ぶのやめなさいよ!全く。お狐の言う通り、やっぱりムカつくやつね、あんた」
「それで、ここに人が来てないって」
「言った通りよ。私はいつでもここにいるから、誰か来たら直ぐに分かるわ。今日はあんたが一番最初。だから今回だけは、特別にあんたの探し物、手伝ってあげる。ほら、そのまま左向きなさいな。そこには一体何が見える?」
彼女に言われるままにそちらを見る。自分の方から、一般棟、図書棟と並んでいて、その後ろに山の手前まで続く森が。
「あっ!」
「灯台下暗しとはまさにこのことね。用が済んだらさっさと行きなさい」
「ありがとう」
「べ、別に今日は私が暇だっただけなんだから!」
俺は屋上を後にし、実験棟を駆け下りる。一般棟も駆け抜ける。
図書棟に駆け戻る頃にはもう足が震えていたが、それでも俺はその場所へと向かう。
そういえばそうだ。ちゃんと考えれば分かるはずだった。彼女自身が言っていたではないか。自分は悲しいことがあると、いつもそこへ行くと。
図書館を抜け書庫を抜け、俺は扉を開け放つ。
「寺坂!」
「うわっ!び、びっくりさせないでくださいよう」
社の前に座っていた寺坂が少し照れたように笑った。
「寺坂、良かった・・・」
気付けば俺は寺坂を抱きしめていた。俺の腕の中で慌てふためく彼女の様子は、俺には見えていなかった。
「その、古峰くん?大丈夫ですか?」
俺が落ち着いたところで、何故か俺が心配されてしまった。
「いや、俺は大丈夫だけど」
「だって、すごく息が上がっています。走って来たんですか?」
「ああ、それはまあ。寺坂が心配で・・・」
「私が、ですか?」
「だってお前!お前何もしてないのに、あんなことされて。酷い噂流された上に、居場所まで無くなっちまって・・・」
「古峰くん。私は大丈夫です。私には、この社の神様がいるから。どんなに辛いことがあっても、きっと助けてくれるって信じてるから。・・・今だって。こうやって古峰くんを呼んでくれましたし」
微笑む彼女の頬には、よく見れば涙の跡が残っていた。
「それに・・・」
彼女は言う。
「それに、私の居場所はきっと無くなったりはしないって信じてます。だって、古峰くんや浩介くん、幸恵さんがいてくれるから・・・」
その小さな少女は俺の背中にギュッと腕を回して、顔を胸に埋める。
「だから少しだけ・・・。私の居場所を、この温かさを。感じさせてください・・・」
その小さく震える肩を俺はそっと抱き寄せた。
「ありがとう、ございました・・・」
しばらくして顔を話した彼女の顔には、いつものような優しい笑顔が戻っていた。
「それじゃあ、私からもお返しです」
そう言って正座をする彼女。その手がポンポンと自分の太ももを叩く。
「古峰くんも走って疲れたでしょう?寝ても、いいですよ?」
「えっ!」
「膝枕、です。・・・嫌、でした?」
「いや、そういうわけじゃないんだが、恥ずかしいというか・・・」
「やってしまえば、どうにでもなりますよ。ほら、どうぞ?」
彼女に言われるがままに、俺はその柔肌の上に頭を乗せた。
「心地良いですね」
寺坂が話しかけてくる。肌をなでるような優しい風が、森の方から吹いてくる。
授業のチャイムはもう鳴った。だけど、今はあの教室に帰りたくなかった。寺坂も俺を膝で寝かせたまま、遠く街の方を見ていた。
「古峰くん。あんなに焦ってましたけど、そんなに、心配でした?」
「いや、なんというか、ある人に脅されてな・・・」
「私が、死ぬかもって?」
笑顔でそう聞いてくる彼女に、俺は何も答えられなかった。
「心配しないでください。私は、まだ死ぬ気なんてありませんから」
「そうか。お前からその言葉が聞けて安心した」
「そうです、安心してください」
会話が止まる。夏の森の音が聞こえる。葉擦れの音が耳に心地いい。
「眠ってしまっても、いいんですよ?」
「さすがにそれは・・・」
「ふふっ。恥ずかしいんですか?」
「そりゃあ。まあな」
「古峰くんが恥ずかしがるところ、初めて見ました」
「そういう事言うなよ」
その言い方が余計に恥ずかしい。それだけどなんとなく、立ち上がってしまったら今度は心まで離れてしまう気がして、なかなかその場を離れられなかった。
次のチャイムが鳴る。授業終了の合図。俺は渋々体を起こす。
「授業も終わったし、そろそろ帰らないか?」
「古峰くん、先に帰っていいですよ?私は、もう少し、ここにいますから」
俺の言葉に寺坂は笑って答える。冷静になれば、彼女の一人の時間を俺が邪魔してしまったのかもしれない。あの時はやけに焦っていたから。
きっと彼女が一人で考えたいことだってあるだろう。
「じゃあ先帰るな。お前も気をつけて帰れよ」
「うん。またね、古峰くん」
俺は社の前に寺坂を残して、その場を後にした。
「元気そうで何よりじゃったな」
図書館に戻ってくると妖狐が待っていた。普段は寺坂がいるはずの場所に座った彼女の笑顔は、普段と違って少し大人びて見えた。
「ここに貼られた札は全て偽物じゃな。見た目もそうだが、これには何も力はない。これも奴らの気晴らしに過ぎぬよ。じきに噂も消えるじゃろう」
「そうか・・・。お前の言う通り、消えてくれればいいけど・・・」
「心配するでない。・・・実はのう、此度の噂の件に関しても、どうやら裏には悪霊の動きがあったようじゃ。そやつらが人に取り憑いては噂として流していたようじゃ」
「どうしてそんなことが分かったんだ?」
「お主も思わんかったのか?たった一人の生徒の噂が学校中に広まっておるのじゃぞ?このような公共の場にいたずらをして、まかり通っておるのじゃぞ?」
「確かに、それは・・・」
「じゃから今日はいろいろと探っていたのじゃ。そうしたら面白いほどそやつらがいてのう。一応今日の段階では全て駆除したはずじゃが。また明日から、見つけ次第駆除しておこう」
「そうか。やっぱり今回も、悪霊の仕業だっていうのかよ・・・!」
もううんざりした。なんでこんなにも悪霊が事を起こすのか。俺の周りで不幸な人が増えていくのか。
彼らが何をしたというのだ。ただの恨みやつらみの捌け口として使われているならあまりにも非情だ。
「さすが人間、と言ったところかのう。生きている人間は恐ろしい。そして、死してなお人の生を揺るがす彼らも恐ろしや。どこへ行こうと、どのような姿になろうと、人間は末恐ろしいものじゃな」
こんなにも、妖の存在を嫌いになったのは初めてだった。もういっそ居なければ良かったのに。見えていなければ良かったのに。見えているからこそ、その存在に恐怖を抱いてしまう。いるのが分かってしまうから。
「さて、妾はこの現状の原因を探りに参る。お主は帰るが良かろう」
「原因って、裏宮のことか?」
「それも含め、じゃな」
「そうか・・・」
やっぱり、全ての原因は裏宮なのかもしれない。俺の前ではどんなに笑顔を見せていても、もしかしたらその裏では、何かあるのかもしれない。
あの笑顔の裏に。
「俺も・・・、俺の方法で探してみる。お前ほど何か出来るわけじゃないけど・・・」
「そうか。それじゃあ、お互い違う方面で調べてみるかのう。お主は、身近にいい人間がおるじゃろ。彼女を頼りに、人間の視点から裏宮を探ってみると良い。妾は、我ら妖怪の方面から探ってみよう」
「人間の視点から・・・。俺の身近な人って、誰だよ。裏宮を知ってるやつなんて誰も・・・」
「居るじゃろう?お主のように見えずとも、村の伝承がまだ根強く残っていた時代を生きた者が」
「え、もしかして・・・」
「お主の祖母。あやつならきっと知っておろう。この村の伝承、恐れられた話を・・・」
妖狐が立ち上がる。放課後の図書館には、いつの間にか橙の光が差し込んでいた。
「もうすぐ日が暮れる。お主も早う帰ったほうが身のためじゃ」
「そ、そうだな。そろそろ帰らないと」
未だ外から入ってこない寺坂も心配だったが、それは妖狐が見ていると言ってくれた。
「それじゃ。今日、祖母にでも聞いてみる」
「そうか。あまり深追いをするではないぞ?」
「分かってる」
俺は妖狐と別れ、図書館を後にした。
校門のところまで行くと、鈴が手を振ってきた。久しぶりの鈴との下校。俺の周りであったことなど知りもせず、今日のことを楽しそうに話す鈴に、少しだけ安心した。俺の周りに、まだ普通の日常も残っているということに。
何事もなく、俺たちは家までたどり着いた。気付けば俺も鈴と一緒に笑っていた。学校でのことなんて全て悪い夢で、本当は何も変わっていないのかもしれない。そんな風に思いたかった。
でも、俺の指先が。剥がれぬ紙を必死に引っ掻いたその痛みが、全て現実だと物語っていた。
夕食を終え、鈴は自室へと帰っていく。俺も一度自室に戻った。
隣り合った鈴の部屋から明かりが消えたのを確認して、俺は一階へと降りた。
暗い家の中、台所の電気だけはまだ点いていた。
「なあ、婆ちゃん。ちょっと、いいかな?」
話しかけた俺に、祖母は驚くこともなく、ただ笑顔で振り返る。そんな祖母に聞くことを一瞬躊躇ったが、俺はその先を続けた。
「ちょっと、聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
その言葉に、祖母は仕事の手を止め、居間に行こうと勧めてきた。
「ここの方が、ゆっくりと話ができるからねえ」
俺の前にお茶を持ってきてくれる。俺はそれで口を潤す。
「それで、話っていうのはなんだい?」
優しい口調の祖母に問う。
「婆ちゃん、裏宮って知ってる?あの、継子宮神社の裏にある」
一瞬、祖母が固まる。
「裏手にある、とは。あの祠のことかい?」
俺は頷く。裏宮と言って通じるのか分からなかったが、どうやら通じるみたいだ。そんなことを思っていると、
「いつ、あんなものを見たんだい?いつから、知っていたんだい?」
祖母が聞いてくる。その声は異様に暗い。鳥肌が立つ。
「い、いつって。たまたまだよ。継子宮神社に行った時にたまたま。それに初めて見たのは今年に入ってからだよ。まだ一年も経ってないし」
俺の言葉に、少し安心したような祖母。だけどその声は未だ暗いまま。
「そうかい。それで、今日は何を聞きたいんだい?」
「それは、その裏宮のことについて・・・。継子宮神社や裏宮、それに纏わる言い伝えとか。裏宮に関することならなんでもいいんだ。婆ちゃんの知っている裏宮の全てが知りたい・・・!」
俺の言葉に、しばらく黙ったまま目を瞑っていた祖母は、しばらくしてその目を開ける。その双眸が俺を捉える。
「本当に、聞きたいのかい?これは、この村の汚点、黒歴史と言っても過言ではない。聞いたらこの村の、継子宮神社への見方が変わってしまうかもしれない。それでも、聞きたいのかい?」
俺は頷く。そこに迷いはない。聞いて後悔はしないと自分で誓ったから。
そんな俺の様子に、少しだけ祖母の表情が緩む。小さな吐息。
「そうだねえ。昭一君は、妖が見えているんだものねえ。それについて、知りたいと思うことは、この年になれば普通のことなのかねえ」
そう言ってお茶をすする。
「もう昭一君が知っていてもいいのかもしれないねえ」
「婆ちゃん?」
「昭一君、いいかい?まず始めに知っておいてもらいたいのだけど、これから話す裏宮の話は、裏宮の存在を知っている人以外には誰にも話してはいけないよ?この話はそう楽しい話では無いからね」
俺は頷く。
祖母は少し暗い顔のまま、話し始めた。
「それでは、どこから話そうかねえ。あの裏宮のことについて・・・」
裏宮。本名は『継子神宮裏社(ままこじんぐううらやしろ)』。以前は継子宮神社も継子神宮表社(ままこじんぐうおもてやしろ)と呼ばれていたそうだ。
その二つが対比するように作られたのは今から百年ほど昔だろうか。この国が外交を閉ざし、国内だけで世界が成り立っていた時代。その頃に起きた大飢饉が発端らしい。
人々の生活を揺るがす一大事に、彼らは手も足も出ず、ただひたすらに願い請うことしかできなかった。
この村でも幾人もの村人が命を落とした。その際に亡くなった彼ら一同を祀り、自分たちを見守ってくれるようにと、尾根の中腹の麓が見渡せる場所に集合墓地が作られた。そこは今でも、この地域に住む親族の入る場所となっている。
飢饉を乗り切り生き存えた人々は、再び同じようなことが起きぬようにと、それまで慕われてきた稲荷信仰とは別に、新たに深嶽山の足元に神社を建てた。
「それが、継子宮神社・・・」
「そう。最初は今よりも小さかったようだし、作られたのは表社だけだったようだけれどねえ」
村人によって作られたその神社は、人々に親しまれ、愛されて来た。皆が年に何度も、あの百段の石段を上って手を合わせた。
だが彼らの時代、恐ろしいものは何も不作や天災だけではない。
ある年、村人の多くが床に伏した。流行病がこの村を襲った。
人々はその恐怖に何度も神社に参拝へ行ったが、一向に収まる気配はなく、ただ被害が大きくなるばかり。
そんな時に誰が言いだしたのだろうか。
『生贄を捧げれば、きっとこの山の神も許してくださるはずだ』
その言葉を、最初から誰もが信じたわけ出はなかった。だが、徐々にその考えは村人の心を支配し、やがては皆が信じるようになっていた。
「どうして、生贄なんて・・・」
「皆が信じるような、そんな理由を誰かが言ったのじゃろう」
祖母も暗い顔で先を続ける。
人が死ぬような病気は、以前に死んだ者たちが連れてくる。そんな考えは流行病以前から信じられていた。そこに重なるように誰かが言ったのだ。ここには死者が多いと。
この地域には、昔話として現代でも知られている話が存在する。
亡者道。
死者たちがあの世への入口である深嶽山へと向かう際に通る場所。そんな道がこの村の後ろ、深嶽山も含めた山脈のどこかにあるという言い伝えだ。この言い伝えは、同じ山脈を背にした他の村でも語り継がれており、それを信じている者も多かった。
それ故に山脈と深嶽山の麓にあるこの村には、あの世から溢れ出した幽霊が彷徨っているのではないかと言われたのだ。そしてそれを信じた者も多かった。
彼らは考え、そして思い至ったのだ。誰かがその幽霊たちを、しっかりと深嶽山まで送り届けてくれないか。どこかに、あの世から溢れ出した幽霊たちを留める場所があればいいのではないかと。
そんな思いに捕われた村人たちは、深嶽山から伸びる尾根と尾根の狭間、一番深い谷の底に、何人もの人間が住めるような大きな神社を建て、それを崇めた。
そして年に一人、そこへ生贄を捧げた。
だが、死そのものも穢れと恐れられ、忌み嫌われたのもまた事実。神社を崇めるも、その神社本殿へ行く足の数は少なかった。
いつしか、生贄に捧げる者を清める儀式だけが表社で行われ、その後、巫女装束に身を包んだ者たちによって、裏社で生贄を捧げる儀式が行われた。他の村人たちは、表社の裏手、裏社へと続くと言われる道の途中に小さな祠を建て、そこに手を合わせるようになった。
「じゃあ、俺が見たあの祠は」
「そう。死の穢れが染み付いた裏社の代わりに、人々が手を合わせるために作られた場所なんだよ」
流行病も収まり、人々に落ち着きが戻ってくると、生贄の儀式は、大きな災いが起きた時のみ行われるようになった。もちろん、災いと言っても、飢餓や病災以外にも、大雨や干ばつ等の天災も含まれるのだが。
そんな中、いつしかこの国は開国し、他国からの情報に揉まれ、首都が大火に包まれ。そんな時代を通して現代に至った。その間にかつての風習は寂れ、生贄の儀式も行われなくなった。
しかし、風習が薄れたとしても、その話は語り継がれ、皆の間で恐れられていた。
そして、表と裏の二つの継子宮神社は、嫌味のようにこう言われた。
『影見えぬ表社、日の見えぬ裏社』
人々に愛され、信仰された表社。その影に潜む人々の恐怖の念である裏社。その二つは近年になるまで知られていた。
俺は蘇る妖狐の言葉に背筋が凍る。
『姫巫女は神社に宿った心から生まれる妖』
『姫巫女は九十九神のようなもの。寄り代となる神社に集まった人々の心が作り出す』『姫巫女は人間に良い働きをするものだけではない、ということを忘れてはならぬ』
確かに、そう言っていたはずだ。
じゃあ裏宮は姫巫女で、そんな彼女の寄り代は裏社で、そこに宿った人々の心が作り出した存在の裏宮の真の姿は・・・。
「だけど、最近はそのような物も信じられなくなり、今では継子宮神社の参拝客は大変少なくなっているようだねえ」
祖母が少し寂しそうに言う。表社の存在が忘れられるのが寂しいのだろうか。でも、今の俺にはそんなこと考えていられなかった。
継子宮神社の後ろにあるはずの裏社。
そこは本当に、怨み家(うらみや)、なんじゃないだろうか。
祖母に礼を言って俺は部屋に戻る。
信じていたはずの存在が崩れていく、そんな思いでおかしくなりそうだった。
こんなことが妖の世界では普通なのだとしたら、俺は今まで見てきた彼らのことを、これからどうやって信じていけばいいのだろうか。
翌朝、元気な鈴とともに登校する。最近妖を見ないからか、とても調子は良さそうだ。でもそれが誰のおかげで妖がいなくなったのか。今の俺には自信を持って答えることなどできなかった。
授業もまともに頭に入らず、休み時間も何をする気にもなれない。クラスの会話はいつの間にか狐持ちのことなど消えていて、昨日のような人だかりも無かった。昨日妖狐が何か言っていた気もしたが、今はそれも信じがたい。もしかしたら寺坂が地道に誤解を解いたのかもしれない。
別に妖を疑いたいわけじゃない。むしろできる事なら全ての妖を信じていたいし、彼らと話をして、笑い合って生きていたい。でももし裏宮が本当に村人を裏切るようなことをしていたのだったら、俺は何を信じてきたのだろうか。
こういう時に限って裏宮も妖狐も現れてくれない。俺の目の前で、信じてくれと一言。たったそれだけでも言ってもらえれば、きっと心も楽になるのに。
俺はずっと机に倒れ込んだままだった。
放課後になり、クラスメイトが徐々に教室から出て行く中で、俺はゆっくりと体を起こした。一日悩んでいたけど、俺に答えは出せなかった。
だからこそ、直接会いに行こうと決めた。俺と裏宮が話し笑いあった、あの祠の前に。会いに行って、自分の目で確かめよう。
俺は鞄を持って学校を出た。
校門で鈴と出会うが、先に帰ってくれとお願いする。俺には用事があるからと。
鈴が行ってしまってから、俺は一人で深嶽山の方へと向かう。前までと同じように、尾根の途中から脇道に逸れる。よく考えてみれば、このような尾根伝いの山に大型の獣はいないはずなのに、俺の通る獣道は荒れることもなく慣らされていた。もしかしたら、これが亡者道なのかもしれないという考えが脳裏をよぎるが、俺はそんな考えを締め出して先へと進む。
夕日に照らされた継子宮神社。表社の横を抜け、俺は裏の細い道へと入る。確かにこの道は、表社の大きめの裏口付近から始まっていた。
ゆっくりと足を進める。普段使われないのであろうこの道は、先の獣道よりも道の途中に落ち葉が溜まっていた。
少し先に祠が見える。だが、近寄るに連れて足りない物に気付く。
祠の周り、どこにも裏宮の姿がない。見渡しても、その姿らしき物さえない。少し考えたところで、俺はその足を祠のさらに先へと踏み出す。裏社が有ると言われるその先に。
一歩踏み出す。さらにもう一歩。ゆっくりとその足が前へ進んでいく。そして何も起きないと思った矢先。急に強い風があたりを吹き抜ける。
嫌な予感がする。そう思った直後。
「久しぶり、昭一」
振り返ると、さっきまで何もいなかったはずの祠の横。
裏宮が笑顔で立っていた。
「ねえ、昭一。昭一は、どこに行こうとしてるのかな?」
そこに立ったまま彼女が聞いてくる。その声はいつもより低く暗い。
「俺は、お前に会いに来ただけで・・・」
「それじゃあ、私はここにいるよ?ほら、お話しよ?」
そう言って手を差し伸べてくる。
「な、なあ、裏宮。この先に何か・・・」
「ないよ」
即答。その目が俺の目と合う。
「何も無いから、こっちに戻ってきて?」
裏宮が少しずつ近付いてくる。暗くなり始めた空の下、逆光でうまく彼女の顔が見えない。
「な、何もないなら、別に見に行ってもいいんじゃないか?」
「駄目だよ、昭一。それ以上行っちゃ・・・」
手を伸ばしつつ俺に近付いてくる裏宮に俺は純粋なる恐怖を覚えた。
そして俺は、駆けた。
裏宮から逃げたい、この道の先が知りたい。そんな気持ちで、俺は裏宮とは反対の方向に駆け出した。だが、
「待って昭一!そっちは・・・!」
裏宮の言葉より先に俺は異様な浮遊感に襲われていた。
目の前で道が崩れていた。
2メートルほどの高さを落ちる。そのままさらに数メートル坂を転がり、何か硬いものにぶつかって止まる。背中への激痛。
しばらく状況を把握するまでに時間がかかった。背中の痛みに慣れてくると、体の他のところからも痛みが伝わってくる。幸いどこも折れてはいないようだが。
ゆっくりと頭を巡らして見る。一瞬息が止まった。
俺がぶつかったのは人の身長の半分ほどの石だった。だが問題はそんなところじゃない。問題はそれの表面。そこには文字が、誰かの名前であろう字面が掘られていた。
そんな石が周りにいくつも立てられていた。全て文字が違う。
「見て、しまったんだ・・・」
目の前からの声。暗い声の主の顔は、髪に隠れてよく見えない。
「見てしまったんだね、昭一・・・」
いつもの裏宮からは想像もつかない声に、俺は思った。
やっぱり、こいつは・・・。
「おい!そこに誰かいるのか!」
唐突に後方からの声。男性の声がこの墓地より後ろから聞こえてくる。
裏宮が目を離したすきに、俺は墓地の間を抜け、声のした方へ走る。そこには確かに、中年の男性が立っていた。
「君、こんなとことで何しているんだい?」
彼が俺を見つけ近付いてくる。少し安心したのも束の間、俺はある違和感に気付く。
少し後ろに下がる。その様子に不思議そうな彼が俺に聞いてくる。
「どうしたんだい?そっちは危ないよ?特にこんな夕暮れ時は」
俺は今度こそ絶望した。この男性は、普通じゃない。それは性格がとか、そんなものじゃない。そもそも、何故彼はこんなところにいる?何故、特に危ないのが夜ではなく夕暮れ時だという?それに何故、周りの墓石を見ても驚かない?
彼の存在が分からない。
「こんなところに、人間が一人なんて・・・」
彼の口が、狐のように釣り上がる。
「・・・危ないよ?」
ぶわっと彼を中心に風が巻き起こる。その姿が徐々に男性から少女へと変化していく。それなのに、その顔に刻まれた笑みだけは変わることはない。それはまるで面のようだ。
俺は逃げようとしたが、動こうにも何故か不自然に体が動かない。
「昭一!!」
後ろからの声。それと同時に俺の横を何かが飛んでいく。それは実体の無い何か。それが目の前の少女へと向かっていく。だが、その少女が何をするわけでもなく、その弾頭は消滅する。しかし、急に体の自由が利くようになり、俺はその場に崩れ落ちる。
呆然とする俺の目の前に裏宮が俺を飛び越えて着地する。そして、何故か俺をかばうように少女と俺の間に立つ。
変化の終わった少女、妖狐は、俺の前に立つ裏宮を興味深そうに眺める。
「ほほう。妖力を弾として使ってくるとは。おとら狐と同じ仲間として、弾は怖いのう」
そう笑う彼女に恐怖の色など見えない。
「昭一に手を出さないで!」
「ふむ、自分の獲物には手を出されたくない、と?」
「昭一は、獲物とかそういうんじゃない!」
「襲おうとしておったではないか」
「私はそんなことしていない!あなたの方が、昭一をつけ回しているくせに!」
「妾はそなたから守っていたのじゃ」
「そんなこと言って!昭一を取ろうとしていたくせに・・・!」
叫んだ裏宮の腰に、動物の尻尾が現れる。それは、長く茶色い尾。
「あなたが誰かは知らないけれど・・・」
裏宮の声が震える。そこにさっきまでの暗さは無く、あるのは強い意志。
「あなたが昭一を襲おうというのなら、私は、ぜったいに、ユルサナイ・・・!」
直後、彼女の姿が巨大な山犬に変わる。人間など一呑みにできそうなほど巨大な姿に、周りの枝が軽々と折られる。全身の毛を立たせて、妖狐にその牙を見せて唸る。
そんな光景に頭がついていかない俺とは対照的に、何故かニヤニヤと笑ったままの妖狐。
「ほほう。お主の中には、犬娘の伝承も混じっておったか。これは調べが足りなかったのう」
「ショウイチニ、テヲ、ダスナ!」
裏宮だったはずの山犬が叫ぶ。それに対し、妖狐は自分の耳を手で触りながら言う。
「お主に、一つの勘違いと、多大なる侮辱を受けた気がするのう。お主地方民だからとて、今の侮辱を謝らぬとは言わせぬぞ・・・。妾を、誰だと心得ておるのじゃ・・・!」
山犬を睨んだ金色の瞳は、瞳孔が縦に切れていた。
彼女の尻尾が震えると同時に、その尾が九つに裂け、その姿が一気に膨らみ、山犬よりも巨大な狐に変わる。彼女の周りが黒く怪しく光り、その光が徐々に俺や裏宮を囲むように広がる。狐火が飛び交い、俺たちの頭上より高く赤い鳥居が一列に、先が見えぬほど立ち並ぶ。
「九尾の狐・・・」
知らぬうちに口から漏れた言葉に、妖狐が答える。
「もう一度名乗ろう・・・。妾の名は、豊川付九尾妖狐御霊。九尾の狐として稲荷神様と共に在る神使である!」
「ソンナ、アナタガ、キュウビノキツネ。・・・デモ、ダカラトイッテ、ショウイチヲ、ワタスキハ、ナイ・・・!」
「ほほう。妾と手合わせするというか。面白い・・・。ならばかかってくるが良い!存分に楽しませてもらおうぞ!!」
睨み合う二匹が、同時に地を蹴った。
結果は明らかだった。最初こそ互角だったものの、直ぐに妖狐が優勢になり、今では完全に裏宮への虐待でしかなかった。
「どうしたのじゃ!さっきまでの威勢はどこへ行ったのじゃ!そんな弱さでこの村を脅かしておったのか?それはなんと酷いことよ!ほらほら言うてみい、お主の罪を全て、ここで正直に言うてみい!ほら!ほら!」
妖狐に蹴られるたび、山犬の体が跳ねる。体中から血を流して、それでも立とうとするその足を蹴られ、地面に崩れ落ちる。
見るに堪えない光景だった。力の有るものが無いものを一方的に殴り続けるその光景は、まるで今始まりつつある社会の縮図のようだ。
「お主、何か言わんか!」
妖狐に首を噛まれ、山犬から嫌に響く悲鳴が漏れる。妖狐が首を振ってそれを投げる。山犬はただされるままに俺の横に落ちる。口からも血が漏れ、息も絶え絶えだった。
「裏宮・・・」
なんでそんなになっても、戦っているのか分からなかった。
そんな姿になってまで、自分の無実を訴える裏宮が分からなかった。
直ぐに止めに行けたのに。この争いを終わらせることもできるだろうに。俺はできなかった。こいつはみんなを苦しめたのだから仕方ない。そう思う心がどこかにあった。
それでも、苦しかった。
もしかしたら本当に、裏宮は無実なのかもしれないと、そう思う心も確かにあったから。
「そろそろ認めぬか?今回のこの村の件、全てお主の差金だと。そうすれば楽になれるぞ?」
「ワタシハ、ヤッテイナイ・・・。タシカニ、ミンナガ、クルシンデイル。ケレド、ソレハワタシガヤラセテイル、ワケジャナイ!」
「またそのようなことを!」
妖狐が蹴る。何度も何度も何度も。その度に山犬が呻く。
俺は目を瞑った。これであっているんだ。正しいことなんだと自分に言い聞かせながら。
視線を感じた。目を開けると、未だに蹴られている山犬と目が合う。
裏宮が、か細い声で言った。
「ホントウニ、ナニモシテイナイノ・・・。シンジテ、ショウイチ・・・」
目を瞑る。その目から一筋の涙がこぼれる。
「まだ言うか!」
妖狐が前足をあげる。
「やめろ!!」
気付けば叫んでいた。
「もういいだろう!こんなに、こんなに虐めてなんになるんだよ!こいつは、こんなになってもそれでもやってないって言ってるじゃないか!ならそれでいいじゃないか!」
「お主、たぶらかされたか?」
「そんな理由なんてどうでもいい!たぶらかされたとか知ったことか!俺は!俺はこいつを信じる!」
「お主も散々疑っておいて、どの口がそのようなことを」
妖狐が前足を振る。それは軽く手首をはらうような動きだったのに、俺の体は一瞬で後方に投げ飛ばされる。
「がはっ・・・」
肺から空気が抜け、うまく息ができない。
「ショウイチ!!」
さっきまで息をするのも辛そうだった裏宮が近付いてくる。その姿が人間に戻る。
「昭一!昭一!」
「大丈夫、だよ。心配すんな・・・」
俺は立ち上がると裏宮の頭を撫でる。
何をやっているのか、自分でもよく分からなかった。あんな妖怪に立ち向かったところで、人間なんてただの餌と相違ないだろう。だけど、そんなことなんて考える間もなく俺は動いていた。
「俺は、俺はこいつを信じる!確かに、今まで散々疑ったし、恨んだりもした・・・。裏宮には悪いけど、妖狐の仕打ちは全て正しくて、裏宮は罰せられるべきなんだとも思った。けど、違うんだよ!そんなもんじゃ揺るがないほどに、本当は、俺は裏宮を信じたいんだ!裏宮と出会ってからの日々を、俺は信じたいんだよ!嘘偽りなんてなく、ただ笑っていた彼女を、信じたいんだ!」
目の前で裏宮が血を流していたんだ。一緒に笑い、泣き、この数ヶ月、裏宮とともに過ごした時間の中で、一度も彼女が人を貶めるようなことはしなかった。そんなやつが、目の前で罪を認めろと脅されているのを、見過ごすことなんてできなかった。何より、それこそが俺の罪だと思えて仕方が無かった。
「お主のような人間が、妾の前に楯突くというか・・・」
妖狐の前足が上がる。横で裏宮が何か言っているが、俺の耳には聞こえていなかった。
目の前で振り上げられた足を見て、それでも、俺は少し満足していた。
今なら、一番自分に正直な心でいられる気がしたから。真実とは違っても、自分の信じたことを疑わずに。
妖狐の手が降ろされる。
そして。
ぽすんと俺の頭の上に手が乗っかる。
俺と裏宮は声も出ず、ただ妖狐を見ていた。対する妖狐は、笑っていた。
「お主、なかなかにいい目をしていたな。少し見直したぞ。一体何があってこやつを信ずることにしたのか妾には分からぬが、此度はお主に免じて許してやろうぞ。お主は、自分の信ずるものを突き通したのじゃ。人の意見に揺られ続けるのではなく、お主自身が、信ずる者と疑う者を選び抜いたのじゃ。それは、真実の見えぬこの世界で、最も蔑ろにされてはならぬものじゃ」
妖狐の声は、何故か嬉しそうだった。次の言葉は、俺ではなく裏宮へと向けられた。
「良かったのう。お主、このような輩が傍におって。此度は、お主に猶予をやろうと思う。その間に、お主が信ずるに値する者か見せてもらおう」
俺の頭から手を下ろし、その姿を人型へと戻す。周りの情景が切り替わり、元の山の中に戻る。
「猶予は一週間。その間にこの村に蔓延った全ての悪霊を深嶽山の先、黄泉の国へと誘うのじゃ。それが出来ぬ時は、妾は再びこの地へ参るぞ。そうして今度こそ、全ての原因となり得た者を処罰する。良いな?」
一週間の猶予が短い気もしたが、
「やってみせます、大丈夫です・・・」
そう言う裏宮を、俺は信じることにした。
「それでは、妾の此度の仕事は終わりじゃ。お主のような人間がいてくれて、まったく退屈しなくて済んだのじゃ。礼を言おう。再び、この地を訪れることがあったなら、またよろしく頼むぞ。今度この村を訪れるのは、次の妾の休暇の際までさせんでくれよ?一週間後に来とうはない」
そう言って妖狐は笑う。
「真理などどこにもない。故に、この世界は面白いのじゃ。真を嘘で隠そうと、嘘を真で隠そうと、そのどちらもが、この世界ではまた真実。不思議な世じゃのう」
その言葉を最後に、妖狐は姿を消した。
「昭一、大丈夫だった?」
隣から裏宮が聞いてくる。
俺は裏宮を見て、つい笑ってしまった。
「お前のほうが、血まみれじゃねえかよ」
「私はほら、妖怪だし。大丈夫だよ!」
「妖怪っていうか、姫巫女か」
「そこはどうでもいいの!それよりも、大丈夫なの?」
そう言って俺の体を触る彼女。
「裏宮・・・」
俺はそんな彼女を強く抱いた。
「ごめん、裏宮。俺、お前のこと疑って、酷い奴だって思って、お前はあんなことされても仕方ないんだなんて考えて・・・」
「昭一・・・」
そっと裏宮が抱き返してくれる。
「もういいの、昭一。あの時何を思っていたとしても、どんなに私を恨んでも。今は、こうして私を信じてくれたんだから・・・」
「でも・・・。ごめん、裏宮・・・」
俺はさらに強く抱いた。
彼女の体温の無い体でも、今は少しだけ、暖かく感じた。
腕の中で少し身動ぎする彼女。そして。
「え?」
俺の頬に柔らかい唇の感触。
「ほら、私にも、できたよ?」
そう言いながら頬を染めた裏宮に、俺は恥ずかしくて顔を逸らした。
その後、俺たちはどうにかして村の方まで山を下った。
下った先は、学校のすぐ近くだった。
「じゃあな、裏宮」
俺が手を振る。だが、少し元気のない彼女に、俺が聞いてみると、
「私、もう麓には、降りてこない、から。またしばらく、お別れだね・・・」
「そっか・・・」
深く問い詰める気は無い。きっと、彼女ならいつか話してくれると信じて。
だから俺は。
「またな、裏宮!」
「・・・うんっ!またね、昭一!」
笑顔で手を振り合う。彼女の頬に雫が光った。
結局その日は、家に帰るなり鈴に散々怒られた。自分でも、こんなに夜遅くなったのだから、怒られる覚悟はあった。全身も傷だらけだし。でも、その後は普段のように楽しく話して、笑いあった。
翌朝、登校中に浩介のことを話してみた。
「知ってるよ、浩介くんが倒れたこと・・・」
「なんだ、知ってたのか・・・」
「確かに、何かに取り憑かれていて、それはお兄ちゃんじゃどうしようも無かったのかもしれない。私が変なこと言って、お兄ちゃんを困らせちゃったのかも・・・」
「いや、そんなことないよ。でも俺は・・・」
「お兄ちゃん。結果は確かに良くはなかったかもしれない。でも、お兄ちゃんは頑張ったんでしょ?それに、浩介くんは生きてるし、直ぐに良くなるって言ってたんでしょ?なら、今はそれでいいんじゃないかな?」
行こう?そう言って鈴は俺の前を歩き出す。いつの間にか俺も、鈴から何かを学ぶ日が来ていたなんて。俺は兄としてはなんだか嬉しく、兄弟としてはなんだか寂しく思った。
学校の授業は変わらず進む。この二週間は俺にとっては凄く大変で、密度の濃いものだった。そのせいで勉強の方は全然進んでいない。この試験数週前の雰囲気の中、俺は授業に追いつこうと必死になった。
昼休み。俺は図書館へと向かった。
昼休みの図書館。寺坂を探していると、後ろから本人に話しかけられる。
「どうしたんですか?」
「いや、教室にいてもすること無いし、暇でさ」
「そう、なんですか。てっきり、もう一度膝枕を要求されるのかと・・・」
「俺ってそんなこと言う印象なのかよ」
「ふふっ。冗談です」
そう言って寺坂は前とは対角の位置に座る。
「こっちのほうが、前の場所より、明るい気がして。少しですが・・・」
そう言って微笑む彼女は、少しだけ雰囲気も明るくなった気がした。
「そういえば、浩介さんに会いましたよ」
「そっか。お前の家、病院の近くだっけ」
俺が彼女の隣に座ると、話し始める。
「とても元気でした。高根村病院に入院はしましたが、それでも、来週には帰ってこれるそうです。私以外にも他の友人がたくさん来て、なんだか授業のない学校みたいだって言って、笑って言っていました」
「そうか。なんだかどこいってもあいつは変わらない気がするよ」
「でも、安心しますよね」
「うるさいけどな」
「・・・ひどいですね、古峰くん。自分の友達をそんな風に」
「いや、俺だって嫌いじゃないさ。古い付き合いだしさ。どうせこんなこと言ったって笑って終わりだろうしな」
そう言って笑う。寺坂も笑ってくれた。
「でも、浩介くん。私が来たこと、凄く喜んでくれて。私も、嬉しかったです」
「そっか」
「今度、一緒に行きませんか?きっと古峰くんが行ってあげれば、もっと喜ぶと思うんです」
「そうか?寺坂と行くと、きっと俺に対して嫌な顔するぞ?」
「わ、私と行くと不機嫌になるんですか?そ、そんなこと無いですって!」
「どうだろうな。まあ、そうだな。近いうちにでも行ってやるか。他にも訪ねたい人がいるし」
「そうなんですか。ちゃんと、顔見せて上げてくださいね?」
「まぁ、来週来るなら行かなくても一緒な気がするが」
「それでも、です」
「はいはい。分かったよ」
俺はそう答えた。
少し休んで俺は立ち上がる。
「もう行かれるんですか?」
「ああ。ちょっと顔見せたいやつがいるから」
「そうですか。それではまた」
俺は図書館を後にし、今度は実験棟へと向かった。
「なんだか久しぶりに会った気がするな」
「そうか、なあ・・・。それじゃあ、お久しぶり・・・!」
トイレの花子さんが出てくる。
「最近どうだよ、調子は」
「最近は、どうだろうね。昨日一昨日って、お狐様が、頑張ってくれた、おかげで、大分、この学校から、悪霊は、消えていったよ。今は、まだ、残っているような、幽霊たちを、追い返す、ことぐらい、かな?幽霊の数も、増えなくなったし・・・」
「そうか。それじゃ少しは楽になったってことだな」
「そうだね。ここ数日よりは、楽になったね」
「これでまた生徒を脅かす時間ができたな」
「私は、好きで脅かしている、わけじゃ、ないもん・・・!」
花子さんが頬を膨らませる。
「はいはい。あ、そうだ。あの屋上の・・・上履きにも、よろしく伝えておいてくれ。あの時はありがとうって」
「分かった、感謝してたって、伝えておくね!」
「頼むわ。それじゃ、そろそろ時間になるし、またな!」
「うん、またね、昭一君・・・!」
俺は実験棟を後にした。
一日の授業が終わり、放課後。俺は早々に校門へと向かう。
俺より少し遅れてきた鈴と一緒に下校する。俺は家まで着くと、その服を制服から着替え、もう一度家を出る。向かうのは学校とは反対方向。
真っ直ぐ道なりに進んでいく。
少し開けた場所から、山のさらに上の方に続く石段を見上げる。
「これは珍しい。えぇと古峰さん家の・・・」
「昭一です。こんにちは」
「そうだそうだ、昭一君だ。悪いねぇ何度も忘れてしまって」
俺はそこにいた神主さんに挨拶をしてから石段を登る。九十八段の階段はやはり大変だった。登りきっただけで息が上がってしまう。
そんな俺の様子を見て、とても驚く人がいた。
「そんな驚かなくてもいいだろ、継子宮」
「だって、あなたが正面から登ってきたから・・・」
「俺だって、ちゃんと手を合わせるときは正面から入るさ」
俺は賽銭箱にコインを投げ、手を合わせる。願わくば、この村が平和であるように。
「そうだ、継子宮。お前、裏宮がどこにいるか知らないか?」
「裏宮?ああ、この神社の裏に住んでいる子?あの子、いつもなら同じ場所にいるんだろうけど、今日は山の方に行ったっきり、まだ帰って来て無いわね。そうね、あの子の話だと、数日くらいはここには戻ってきそうに無いわね」
「そっか・・・」
それは、裏宮がこの村の幽霊を収めるために奔走している証なのだろう。少し寂しいが、今は応援するしかない。
「また、裏宮が帰ってきたら、俺が来たことを伝えておいてくれ。それと、また来るとも」
「はいはい、分かったわ」
彼女は呆れたようにそう言った。
神社前、赤い鳥居の下から眼下の村を見下ろす。
「平和ね」
横から同じように街を見つめる継子宮に、俺は答える。
「きっと、この村はもっと平和になるよ、これから・・・」
真っ赤に光る夕日が、俺たちの村を照らしていた。
夕日が差す教室で、教師はその腰を下ろす。
「その後、私が高校を卒業するまで、裏宮は麓の村に降りてこなかった。その分、私はたくさん神社に足を運んだ」
教師は目を瞑る。まるで古き時代を懐かしむように。
教師の話を聞いていた少女が不思議そうに問う。
「それじゃあ、裏宮さんは、無事やり遂げたんですね?」
一週間での幽霊の除去。それは確かに成し遂げられた。教師はそう頷いた。
「でも、それじゃあ。本当のところはどうだったのですか?何が原因で幽霊たちがこの村に・・・」
「実は、間接的な原因は裏宮にあったようでね。聞いたとき、私も驚いたものさ。でも、故意にでは無かった。彼女の体質が・・・、人を守るために自分の元へ幽霊を集める裏社の力が、彼女自身に幽霊が付いて回るという結果を生んだようだ」
「それじゃあ、無実というわけでは・・・」
「無実かどうか、その話はこの世界では必要だよ。だけどね、それ以上に誰かを信じることも大切な事なんだよ?」
「真実よりも、ですか・・・?」
「きっと、君にも分かる日が来るよ。だからその日まで、君の友人を大切にしてあげなさい。人間でも、そうじゃなくても」
その老教師はそっと少女の頭を撫でる。
「さて、君もそろそろ帰りなさい。これ以上日が沈んでは、いくら見えると言っても危ないからね。また、何か聞きたいことがあったらいつでも聞きに来ていいからね。私は、いつでも歓迎するから」
「あ、ありがとうございます・・・!それでは、今日はこれで」
失礼しました。そう言って少女は教室を後にする。横に居た妖と手を握りながら、少女は廊下を駆けていった。
暗くなった教室。椅子にゆっくりと腰掛けたまま老教師は微笑む。
「この時代になって、まだ見える子がいたなんてね・・・」
教師の独り言に返す声は無い。いつの間にかどこからも誰の声が聞こえることはない。
老教師はゆっくりと立ち上がると、窓辺に近づく。
「まだ、あの子も完全に見えているわけでは内容だね。まるで鈴のようだ」
・・・・・。
「確かに、」あの子にはまだ見えていないけど、きっとすぐ見えるようになるさ。心配するな」
・・・・・。
「きっと彼女も、君の友達になってくれる。だから心配はするな・・・」
・・・・・。
誰かと会話をしているような、そんな教師の声だけが教室に聞こえる。
老教師の目が、スーっと教室の中心に向けられ。
「だから、待っていよう。な、裏宮・・・」
今日もどこかで語り継がれる。そんな儚き幻想語。
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