空の変わりようと、そこに生きる他人の話
「ここは変わらないでほしかった」「ここが好きになった」とか、そんな言葉をみるたび思うのです。変わらない景色、もう見れない景色、まだ見慣れない景色。これらに一喜一憂する人間のいとおしさを。
私は、星の王子さまが来たと聞いて、この空に来た子どもです。気づけばたくさんの日々を重ねてました。覚えているものや、気づいたことは決して多くはないでしょうが、大小関係なく変化するこの世界を愛しています。同時に、変化を悲しんだり楽しんだりする星の子も愛しています。
いなくなったあの子、来てくれるようになったあの子、夕暮れ、咲いた花、散った花、背丈を伸ばした草葉や茎、片付けを忘れられた光の装飾、たくさんの星の子が歩いてできた道、誰かが直した石階段、ケープの上で跳ねかえる太陽の光、ひるがえったときの光のつぶ、誰かが置いてくれた釣具、初めて耳にする音楽。
多くの星の子が使命を果たし、多くが生き、多くが去りました。それなのに世界が変わらずにいられるでしょうか。
変わる前を思い出せるというのは、思い出せる子の特権です。それは口に出したり描いたりして、すこしばかり共有することもできる。何度してもよいはずです。
思い出すこと、もとい忘れないことは、その記憶のなかの事象に対して唯一できる愛し方だと思っています(追慕の季節でそのことが、じん、と胸にしみました)。
私が「すてきだ!なんてかわいいんだろう!」と思った花を、踏む子がいます。しかしその子は、そこに立って見える景色をいっとう愛しているかもしれません。だから無闇にどけようとはしません。
私が愛するものを誰かが愛していないように、誰かが愛するものを私は愛していません。たとえ同じものを愛していたって、理由には大なり小なり差異があるのです。でももちろん、同じ場所やものを好きになったと、好きな人たちと話ができるなら、それはうれしいものですね。
私は、自分以外が他人だということを、あの空で改めて思い知らされ、同時にいとおしく思いあらためました。
“変化”を多くの人が受け入れたからといって、私やあなたが無理やり受け入れなくてよいのです。逆も然り、他人に強制できません。
私も、愛おしい何人かの他人がいなくなって悲しいし、贈りあった言葉のすべてをとっておけてはいないし、あのとき見た光景はあのときだけのものだし、でも、だけど、覚えてる限り何度でも思い出します。そのたび、笑ったり悲しんだり、抱きしめたりして。戻ってきてほしいと願うこともあります。
忘れたくなんかなくて、誰かと話し、写真を見返し、絵を描き、言葉にします。それでも、いつか忘れるのです。
そしてまた覚え、見えているものの、そのいとおしさに元気をもらえています。
世界は変化しています。この現実でも、あの空でも!気づかないほど、驚くほど。生と死が誰にも訪れるように、受け入れる・受け入れられないなんて、おかまいなしにです。
そんなすてきでおそろしい世界に一喜一憂する、いとしの隣人であり、ナイフを持った他人であり、心よわい化け物である、かわいい星の子どもたち!
こんなとこまで読んでくれてありがとうね。よろこびもかなしみも、あなたがたの糧になりますように。