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小説『鬼平犯科帳 蛇の眼』の舞台を散歩

はじめに

兇賊・蛇の平十郎(くちなわのへいじゅうろう)は、一味の六名と共に先の御典医(ごてんい)・千賀道有(ちがどうゆう)の屋敷に押し込むが、あるはずの金がない。
押し込みに失敗した蛇の平十郎は、小田原に逃げるが、水之尾(みずのお)の炭焼き小屋で、鬼平が先回りして待ち構える。

今回は改めてこの話の中の江戸を彷彿とさせる場所へご案内したいと思います。

当時はまだ田畑が広がっていた押上(押上村)、日本橋界隈の市中に存在した最大の囚獄であった伝馬町牢屋敷(でんまちょうろうやしき)など江戸市中を散策してください。

一、押上村・春慶寺(しゅんけいじ)

岸井左馬之助が寄宿していた春慶寺

小説の中では、長谷川平蔵の親友(剣友)、岸井左馬之助(きしいさまのすけ)が寄宿していたお寺です。
押上村にあり、現在も実際に春慶寺は存在しています。
日蓮宗 長養山(ちょうようざん)春慶寺。

普賢堂

元和(げんな)元年(1615年)浅草森田町に創建されました。
その後、寛文(かんぶん)七年(1667年)本所押上村に移転し、現在に至るまで400年の歴史があるお寺です。
江戸時代から「押上の普賢(ふげん)さま」と呼ばれ、江戸の庶民が多く参詣に訪れて随分賑わっていたそうです。
浮世絵にも描かれており、江戸郊外の春慶寺にお詣りに行くことが、人々の大きな楽しみだったとか。

このお寺には、四谷怪談の作者である鶴屋南北(つるやなんぼく)の墓所があります。

春慶寺の寺宝には、千四百余年前に百済(くだら:朝鮮半島に存在した国)より渡来の普賢菩薩像がお祀りされているそうでう。

二、本所・源兵衛橋(げんべえばし)北詰の蕎麦屋「さなだや」

源兵衛橋
蕎麦屋「さなだや」

源兵衛橋は、現在「枕橋(まくらばし)」と名称が変わっています。
この、源兵衛橋の北詰に「さなだや」というそば屋があり、小説「鬼平犯科帳」では、ここで長谷川平蔵がそばを食べている時に、兇賊(きょうぞく)であり大盗賊の蛇の平十郎と初めて出会った店です。

水戸藩蔵屋敷跡(現 隅田公園)

万治(まんじ)二年(1659年)隅田川(旧名 大川)から業平橋まで木材輸送のため掘削が行われ、源森川(源兵衛堀)となった、これが現在の北十間川(きたじゅっけんがわ)です。
源森川の河口近くに寛文二年(1662年)に橋が架けられた源兵衛橋(源森橋)と呼ばれました。
北側にあった水戸藩蔵屋敷(現 隅田公園)前の掘割に架かる橋、新小梅橋と合わせて枕橋と呼ばれたのだそうです。
江戸時代には既に枕橋と呼ばれていたのですね。

枕橋の南側には、佐竹右京大夫(さたけうきょうだいゆう)の屋敷がありました。
ここは現在、墨田区役所やアサヒビールリバーサイドホールがあります。

三、伝馬町牢屋敷(でんまちょうろうやしき)

伝馬町牢屋敷跡にある十思公園

小説「鬼平犯科帳」の一節に、「徳川将軍家の侍医を務めた千賀道有は、もとは伝馬町の牢屋敷に所属し、囚人の病気治療にあたっていた下級医師であった」とあります。
千賀道有という医師は記録に見当たらないので、小説の中のお話と言うことになるでしょう。

さて、この伝馬町、そもそもは江戸時代に城下町に置かれた町であり、幕府や藩のために伝馬(律令時代から存在する制度で、馬や荷車を常備し、現在の貨物輸送・通信・旅客輸送を行う施設。伝馬制とも言い、古代中国から伝わり、古代日本でも駅や伝と呼んでいた)やそれに関連する夫役を負担していました。
多くの馬を常備していた方を大伝馬、少ない方を小伝馬と呼んだのだそうです。
大伝馬町では、馬込勘解由(まごめかげゆ)が伝馬役として、代々馬込家が伝馬役を務め、馬喰町には馬の仲介業者が住んでいました。

伝馬町と言えば、「伝馬町牢送りとする」と時代劇で奉行などが白州で罪人に申し渡す場面がありますね。
そうです、ここには牢屋敷があったのです。

発掘された牢屋敷の石垣

伝馬町牢屋敷は、現在の中央区日本橋小伝馬町3番から5番を占めており、2,618坪(8,637㎡)という広大な敷地を有していました。
牢屋敷の獄舎は身分によって区分けされており、大牢と二間牢は庶民、揚屋(あがりや)はお目見以下の幕臣(御家人以下の身分)、大名の陪臣、僧侶、医師。
牢屋敷は未決囚の収容所であり、一時的に留置していた所で、現在で言うところの拘置所と同じですね。
ここには、取調べを行う穿鑿(せんさく)所や拷問蔵がありました。
牢屋敷は、高さ2.4mもの高い塀で囲まれていました。

江戸時代末期にはここで処刑も行われていたようです。
伝馬町牢屋敷跡の一部が十思公園(じっしこうえん)となっており、安政の大獄で処刑された吉田松陰の辞世の句碑、吉田松陰終焉の地の碑が建っています。

大安楽寺

公園内ある鐘楼があり、これは江戸の町に時を知らせていた鐘であり、処刑が行われる日は鐘を撞く時間を少し延ばし、処刑を遅らせたという逸話が残されているそうです。
十思公園の向かいには、大安楽寺があり、この境内に処刑場があったと言われており、慰霊のための地蔵菩薩像が祀られています。

四、目黒不動尊(めぐろふどうそん)

鬼平犯科帳に度々登場する目黒不動尊、行人坂。
今回のお話の中では、「目黒不動尊門前の茶めしや」の行が出てくる。
目黒不動尊は、天台宗泰叡山護國院瀧泉寺(てんだいしゅうたいえいざんごこくいんりょうせんじ)といい、東京都目黒区下目黒にあります。

目黒不動尊 仁王門

不動明王を本尊としていることから、一般的には目黒不動尊と呼ばれています。
大同(だいどう)三年(808年)円仁(えんにん:第三代天台座主(てんだいざす:天台宗の最高位) 慈覚大師(じかくだいし))が15歳の時、下野(しもつけ:栃木県)から比叡山の最澄(さいちょう)(伝教大師(でんぎょうだいし)・天台宗宗祖)の元に赴く途中、この地で青黒い面相の不動明王の霊夢をみたことから、この地に堂宇を建立したといいます。

貞観(じょうがん)二年(860年)清和天皇より、『泰叡』の勅額を下賜され、山号を「泰叡山」としたのだそうです。
三代将軍徳川家光は、当寺を厚く信仰していたらしい。

境内の独鈷(どっこ)の滝を浴びると病気が治癒するとの信仰があり、江戸庶民の行楽地として親しまれ、江戸名所絵図にも描かれています。

ここには、青木昆陽(あおきこんよう)の墓所があります。
青木昆陽とは、八代将軍徳川吉宗の時代に、サツマイモ(甘藷:かんしょ)の栽培を普及させた人物ですね。
甘藷先生とも呼ばれていました。
本業は儒学者です。

江戸には五色不動といって、この目黒不動尊の他に、目青・目黄・目赤・目白不動尊がありまして、それは今でも存在しています。
こちらも順にご紹介していきたいと思っています。

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